9頁目 「『ありがとう』の言の葉に、未だ俺の心は追い付かない」
花崎に大量ワサビを仕込まれ、見事に撃沈させられたその日の夜、俺はいま神崎といつも通りコンビニの帰りを二人で歩いていた。
「――大丈夫かい? 随分と花ちゃんに反感を買われていたようだけど」
「あの野郎、やること陰湿すぎんだろ。確かに俺のやったことはもちろん褒められたことじゃないよ? でもアレは無いわ。俺もう味覚無くなったのかと思ったもんな」
神崎は花崎と随分仲良くなったのか、彼女のことを“花ちゃん”呼びをするなど、傍から見てもそれが分かるくらいには感じ取れる。それは非常に喜ばしいことなのだが、何故だか俺や河野、山本の三人に関しては特に花崎の機嫌が狂おしいほどに悪い。俺たちが彼女に対して何かした訳でもない――俺は花崎との会話を勝手に録音したことは事実だが。あのゴミを見るかのよな目は恐怖さえ覚える。
「あっはっはっは! それだけ彼女も君たちに気軽に接することが出来るようになったってことじゃないか?」
「気軽にワサビを口に放り込まれて堪るかって話だ。お前味わったことないだろ。てか、致死量のワサビを入れられることなんて探してもあんまり居ないぞ」
とっくに舌の痺れは後を引いたのだが、アピールのために舌を出して手で扇いでみる。
「ふふっ、それもそうだね――話は変わるんだけど、君、放課後に成瀬先生に呼び止められてなかったかい?」
「ん? ああ、あれか。いや、別に何でもないよ」
神崎が指摘したのは今日の放課後、いざ帰ろうと廊下を出た時、担任である成瀬先生に呼び止められた。しかしその内容は、本当に誰も気にする必要もないどうでもいい話。
◇◇◇
「――名取君、少しいいでしょうか?」
「何ですか?」
廊下を出たところで俺を呼び止めた人物――それは担任である成瀬灰世先生だ。見た目は三十代半ばで眼鏡を掛けている。口癖なのか、誰にでも敬語で話すことや、物腰柔らかい口調で話すその姿勢から、男女問わず人気を誇っている。だが、実際は女子の方が圧倒的に人気がある。それに嫉妬してしまう男子もいるが、結局はその人間性から納得してしまう生徒の多数だ。
「いえ、最近少し変わったような気がしましてね。余り大人の飾りを付けなくなった君に、僕は嬉しくなってしまいまして」
「……そうでしょうか。俺自身、以前とそんなに変わってないような気がしますけどね」
このような会話は以前にもあった。
その時も今と同じような状況で、西日の指し具合もあってか、先生からしたら俺はより一層暗く見えていたのだろう。
『名取君、学校は楽しいですか?』
『はぁ、まあ……そうですね』
『君はとても大人びていますね。しかし、大人に色付いていくのが少々早すぎる気もします。確かに高校生は特に大人になる過程を最も実感する頃です。ですが、まだ完全じゃなくても良いのです』
『じゃあ大人の先生からしたら俺の大人っぷりはまだ子供っぽいと言うんですか?』
『いえ、そこまでは言っていません。大人になることはとても立派なことです。ただ、まだ子供のままで居ていいと思うのです。今はもしかしたらまだ分からないかもしれませんが、もう少し――大人の色を纏う速度を遅くしても良いんですよ。君の大人へ成長する速さに付いていきたいと思う人も必ずしも居ると思います。だから名取君、歩く歩幅を縮めてみてください。何かしら、君にとって良いことがあるはずです』
そんな会話が高校に入学して半年を過ぎた頃にあった。
その日以降、俺はこの先生に対して苦手意識が芽生えていた。担任の枠組みを超えて踏み込んできた感覚がったから。でもそれは俺が尖っていたからだろうか。それでも、誰でも自分の心にアポなしで侵入されたら拒むのは当然だろう。この先生はそんな俺の心の縁に足のつま先だけ入り、また出ていったのだ。
しかし俺もまだ素直なところがあったのだろう。先人の知恵に少しだけ耳を傾けた。
その結果が今の俺の学校生活に着実に反映されている。初めに河野と話すようになり、暫く時が経って神崎や山本、花崎とも話すようになった。入学当初は考えもしなかった色の付いた学校生活。ぼやけた色ながら、少しずつ頭の思い出ノートに色鉛筆で描けるくらいにはなって来ただろう。その最初のキッカケをくれたのが成瀬先生だ。
「――いや、変わってないは嘘ですね。多少は変わりました。ですがこれが長く続くかは分かりません。人間に変化はつきものです。良い方に転ぶか悪い方に転ぶかなんて誰にも分からない。これから先、現在が崩れ落ちる可能性は大いにあります。でもそれが当事者じゃなく、自分を一歩引いた第三者目線で居れば、そのショックも和らぐとは思いませんか?」
「やはり君は何処までも大人なのですね。でも僕は嬉しいです。それをショックだと感じるくらいに、今の生活に対して思うところがあるのですね」
これが、俺がこの先生を苦手とする理由だ。こちらの意を介さない揚げ足の取り方が好きになれない。どこが可笑しいのか。そんな俺の返答にくすりと微笑む姿に、俺は怪訝な顔をして返す。
「話は終わりですか? じゃあ、俺は帰りますので。さよなら」
「お引止めしてすみません。気をつけて帰ってくださいね」
◇◇◇
それが放課後における出来事。
誰得でも、俺得ですらない会話。俺以外なら何のこっちゃと呆れるくらいにどうでもよくて、つまらない内容。誰かに話したとして、つまらな過ぎて思わず鼻をほじってしまうくらいに。
「俺が課題出してないことだった――っておい、いきなり何すんだ!」
「ん? 何って、頭を撫でているんだけど?」
「俺は神崎のペットか何かか?」
唐突に神崎は俺の頭を撫でてきたのだ。まるで自分のペットのように優しく、強く触れれば壊してしまうもののように優しく撫でてきた。
「おや? 照れてるのかい? 案外可愛いとこもあるじゃないか」
そう言って神崎は俯く俺の顔を覗いてきた。赤くなってしまった顔を見られるのが恥ずかしくてそっぽを向く。それが神崎にとってはまた面白かったらしく、小さく「ふふふっ」と笑う声が聞こえた。
「――つか、いつまで撫でてるんだ……」
「いいじゃないか。これはボクからのご褒美だ」
「ご褒美ぃ?」
「ああ、ボクのお願いを聞いてくれた君へのささやかなお返しだ。君は良くやってくれた! えらいっ! 凄くえらいっ! あっはっはっはっ!」
お願いというのは花崎の件だろう。仕方なくとはいえ、半ば強引に受け入れたその依頼に俺は応えた。結果的に言えば依頼は達成できただろう。しかしやり方は褒められたものではないかもしれない。花崎に黙って録音をし、河野を利用した。元々この問題は、俺一人では到底成し遂げられなかったことだ。手に余ることを言い訳に、人の心を利用した。だから神崎に頭を撫でられるほどのことはしていないのだ。
「わかった、わかったからもう撫でるのは止めてくれ!」
「そうかい? 男の子は女の子に頭を撫でられると喜ぶものじゃないのかい?」
「いやそうだけど! 照れが勝つわ普通に!」
「でも本当にありがとう。君にしか頼れなかったんだ。お陰様で花ちゃんは自分に素直になり、淀んでいたクラスの空気も良くなった。これは間違いなく君の貢献が大きい。だからもう一度言うよ――ありがとう、名取君」
「どういたしまして……」
面と向かって感謝されたのはいつ以来だろうか。
星々が思い思いに輝く中、一際輝く笑顔に少しだけ救われた気がした。いつまでも報われなかったこの心に、神崎の感謝の言葉が埋めてくれた気がしたのだ。
そんな“気”だけしか感じ取れないのは、俺がまだ怯えているからだろうか。
いつかきっと、神崎の感謝の言葉が、素直に受け取れる日はくるのだろうか――。




