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1-2 昭和のアイドル

 手が指先までキンキンに冷え切っていた。足も震えて心臓はバクバク。こんな緊張感、大学受験の合格発表ぶりか。いや、それ以上かもしれない。

「欲に勝てず、また来てしまった……」

 天嶺(あまね)は、推しのイケメンモデルが番組収録しているというスタジオの扉の前で行ったり来たりしていた。耳を澄ませると時折、笑い声と拍手が聞こえる。実は三十分前にもここに一度来て、中に入る勇気が出ずにすぐ退散した。ところが、別フロアの自分のデスクまで戻ったものの、そわそわして仕事が何も手につかなかった。そして今、再びここに立っている。スタジオ内に入らなくとも、推しの近くにいると思うだけで、天嶺は身体中が幸せに包まれるのを感じた。スポーツ観戦のチケットが取れなかったものの、せめて試合の雰囲気だけでも味わいたいと、会場近くへ足を運ぶファンの気持ちと同じだった。

 天嶺の推しである市上獅正(いちがみしのぶ)は今年で二十五歳。カリフォルニア生まれの日本育ち。高身長で足が長くスタイル抜群。端的に言ってイケメンなのだが、天嶺は特にあのきらきらと光を湛えた大きな瞳に惹かれていた。初めて見た時に漠然と、「あ、星が宿っている」と感じた。

「お、こんなところにいた。なかなか来ないからどうしたかと」

「げっ!土濃塚(とのづか)さん!」

 スタジオの扉が突然開いて、僕はその場から飛び退いた。わざわざ出てくることはないのにと思いながら、まだ収録中なのでお互いにこそこそと小さな声で話す。

「何遠慮してるんだよ。ここまで来たんだから入って来い」

「いや、でも流石に……」

 確かに土濃塚さんに教えてもらった通りここにいるということは、推しを一目見たいという願望に逆らえなかったからだ。でも、一社員が私欲のためにこんなことをしていいのか、と天嶺は葛藤していた。番組プロデューサーの土濃塚さんがいいって言ってくれてるんだから、そんなにお咎めはないとは思うが。

「お前って変なところクソ真面目だよなぁ。他番組の見学なんて誰でもしてるって」

「でもそれは自分の仕事に関係ある範囲でですよね。っていうか、もうそろそろ収録終わる時間ですよね」

「だから、終わって帰っちゃう前に見ておけって言ってるんだよ」

 優柔不断な天嶺に痺れを切らして、土濃塚が天嶺の服の袖を引っ張る。天嶺はつんのめるようにして中に引き摺り込まれ、転びそうになって、「とのづかさん……!」と口パクで怒った。けれど、土濃塚は飄々とした顔で、「ついて来い」と手招きしてさっさと歩き出してしまう。天嶺は仕方なく、土濃塚の後ろについて客席後方の壁裏にある細い通路を静かに歩いて行った。表に回り込むと、出演者の人たちの話し声が鮮明になる。そして、探すまでもなく、ひな壇の前列に座っているその姿が天嶺の目に飛び込んで来た。

「……っ、」

 天嶺は息をするのを忘れてしまった。推しが、生きている。当たり前のことなのに、同じ世界線で生きているとわかっていた筈なのに、目の前にいるのが信じられず、あれは本当に推しなのか、いや、そもそも推しは地上に実在したのかなどと考えていた。天嶺は軽いパニックと感動の嵐に見舞われながら、推しの一挙一動を目に焼き付ける。足を組み替える仕草一つも眩しい。実際に見てわかる足の長さと顔の小ささに感嘆しながら、遠くから見ても目がきらきらしているのがわかるのはすごいなと思った。

 そんなことを考えていたら、あっという間に収録が終わる。もう少し早く中に入っていれば、もっと長く見れた筈なのに、廊下でうじうじと悩んでいた数十分前の自分を呪うが、もう遅かった。

「あーちゃん。生の推し、見れてよかったね。あれ、泣きそう?」

 土濃塚さんは、にっと笑いながら僕を見た。

「うん、泣きそう。本当にありがとうございました。今回は本当に感謝してます」

「えー、今回だけ?」

「土濃塚さん、そういうしつこい反応って若い子に嫌われますよ」

 収録を見学していたお客さんたちが帰り支度を始めるのが見えた。出演者たちは、お客さんより先に出ることになっている。天嶺は自分達が早く退かないと推しと鉢合わせてしまうことに気付いた。

「じゃ、じゃあ、僕、仕事に戻りますね」

「え、獅正くんに声掛ければいいじゃない。ここで待ってればすぐ来るよ」

「いや、僕は推しを遠くから見ていたいタイプなんで」

「俺、さっき収録始まる前に話したけど、良い子だったよ。紹介するから、ファンですって言えば?」

 二の腕を掴まれる。この人はとんでもないことを言い出してくれる。土濃塚はそれが天嶺にとって迷惑だということが全くわかっていないのだ。

「僕のポリシーとして推しに認知されるのは論外なんですよ!一ファンとして、ひっそり草葉の陰から見守っていたいんです!」

 出演者がバラバラと立ち上がって、こちらに向かって歩いてくる。市上獅正も腰を上げたのを見た天嶺は、土濃塚に掴まれた腕を振り解こうと冷や汗を掻いた。

「草葉の陰って、死んじゃってるじゃん」

 土濃塚の冷静なツッコミに反論する余裕もなく、市上獅正はどこにいるだろうと、天嶺が土濃塚の後ろを確認した瞬間に彼を見つけた。そして、彼もその視線を感じたのか、天嶺の方を見た。

(待って。こっち見てる?気のせいかな?え、気のせいだよね。見てる気がするって、それだけのことだ。絶対にその筈)

「おーい、あーちゃん?固まってどうした?お、もしかして」

「あ、あの。まだ仕事残ってるので、失礼します!すみません!ありがとうございました!」

 土濃塚が振り返った瞬間、天嶺は一目散に走り出した。エレベーターを待っている間に市上獅正と廊下で会ってしまう可能性を考えて、非常階段を駆け降りる。顔が熱い。どうしよう、悪目立ちしたかな。いや、一般人の自分一人の些細な行動なんて目にも止まらない筈だ。大丈夫。そう、自分に言い聞かせた。

 三階分駆け降りたからもう平気だろう、と立ち止まり、踊り場でしゃがみ込み、息を整える。夢みたいだと、ぽーっとした頭で考えた。目は合っていない筈だが、自分の中でだけ目が合ってたってことにしよう、と思った。今日は一生の思い出ができたお祝いに、帰りにお寿司を買おうと決めた。それに、後で土濃塚さんにお礼と謝罪の連絡をしておかなければいけない。

 その後は夢心地で仕事を片付けて、自宅最寄りの駅ビルで、雲丹とイクラと蟹のネタが入ったちょっと良い寿司握りセットを購入し、帰路に着いた。


「はー、幸せすぎ。これだけ運使ったら、残りの人生もう破滅するんじゃないか?こわ……」

 天嶺はお寿司を食べた後、ソファに横たわりしばらくぼーっとして、お風呂に入るかと体を起こす。その時、あることがふと頭を過ぎった。

「あれ、今日いつトイレ行ったっけ?」

 午後一度も行ってないのでは。いや、良く考えたら、午前中も午後も会社でトイレに行った記憶がない。それどころか、朝、家でも。

「え、まずくないか?」

 今日、推しに会うという天地のひっくり返るような大イベントがあったせいで、トイレに行くのを忘れてしまったのかもしれない。まぁ、行けば出るだろうと、その時は呑気に考えて天嶺はトイレに行った。しかし、一滴も出る気配がなかった。よく考えると、今日はずっと上の空で、水分の摂取量が少なかったかもしれない。きっと一晩寝たら、体のリズムも元通りになる筈だ。天嶺はそう考えて、深刻には考えていなかった。


 しかし、天嶺はその後さらに丸二日、トイレに行かなかった。正確には、行っても何の成果もなかった。毎日帰宅してから、一時間以上トイレに籠もってみたが、天嶺の体は排泄という行為を完全に忘れてしまったかのようだった。

 いや、これは流石に何かおかしいと天嶺は考えた。いつも通りご飯も食べているし、飲み物も飲んでいる。推しに会った衝撃でこうなってしまったのだろうか。だとしたら、自分の体は何て反応が単純なのだろうか。そもそもこれって何かの病気とかじゃないのだろうかと考える。腎臓が悪くてちゃんと尿が出なかったら尿毒症になるのでは、と背中を冷や汗が伝う。透析患者って数日透析しなかったら死でしまうとか聞いたこともあるような。

「これって、本当に死にそうになってるんじゃ!?」

 天嶺はソファから立ち上がって絶望的な気持ちで天井を見た。これは笑えないぞ。ついこの前、推しに会ったことで一生の運を使い果たしたと思っていたが、本当に人生の終わりが来るとは思わなかった。救急車を呼ぶべきだろうか?しかし、現時点で苦しいとか痛いとか、目立った自覚症状がある訳でもないのに、救急車を呼ぶのは迷惑なのではないだろうか。かと言って病院の急患にかかるのも気が引けた。とは言っても、このまま放置して、明日の朝死んでいる可能性もある。そんなことになって、両親と兄さんを悲しませる訳には行かないと考えた。

「そうだ、智成(ともなり)くんがいる!」

 天嶺は咄嗟に医者の知り合いがいることを思い出した。巨嶋智成(こじまともなり)は土濃塚の年下の恋人で、大学病院で勤務医をしている。土濃塚と天嶺と智成の三人でご飯を食べたことが何回もあり、智成は優しくて誠実そうな笑顔が土濃塚とは正反対の好青年だった。他に医療関係の知り合いが思い当たらず、今頼れるのは彼しかいない。忙しいところごめんね、と前置きして、天嶺は智成にメッセージを送った。

「あれ、電話だ」

 すると、数分後に電話が鳴った。相手はメッセージを送ったばかりの智成だった。電話をもらうのは初めてのことだったので、少し緊張しながら電話に出た。

「あ、もしもし?智成くん?……あの、こんな夜に個別に相談しちゃって本当にごめんね」

「いえいえ!大丈夫ですよ」

 時計を見るともうすぐ9時になるところだった。仕事終わりかと気が引けたが、智成の声はいつもと変わらない爽やかな明るいトーンだ。

「ところで、僕の症状って急患にかかった方が良かったりする?考えすぎかな?」

「三日間排泄がないってことですよね?心当たりがあるので、そんなに心配しなくて大丈夫だと思います」

 智成が落ち着いた様子で話すので、そこまで緊急事態じゃないのかもしれない、と天嶺は少し安心した。

「僕は夜勤なのですぐ行けないんですけど、確認のために知り合いを先にそちらへ行かせますから」

「それだったら僕が智成くんの大学病院に行った方が良いんじゃ」

「いえ、兎に角そこを動かない方が良いので。僕の知り合いがすぐ行けると思います。加賀見(かがみ)って名前です」

「うん、わかりました。本当にありがとう」

 あまり長電話をしては迷惑をかけると思い、電話を切ったものの、自分はどれくらい深刻な状態なのだろうかと天嶺は思考を巡らせた。動かない方が良いというのは、安静にしていた方が良いということだろう。とは言え、明日も仕事がある。その上、加賀見という天嶺が知らない人物が来るのもしばらくかかるだろうし、じっとしていても却って不安が募るだけだ。よし、先にお風呂に入ってしまおうと天嶺が考えて立ち上がった時、インターホンが鳴った。電話を切ってから数分しか経っていないが、こんなに早く来るものだろうか。いくら何でも早過ぎるので、宅配だろうかと、若い男性の姿が映るモニターを見ながら、天嶺は応答ボタンを押した。

「はい」

「能星さんのお宅ですか?加賀見と申します」

 先ほど電話で智成が話していた名前だ。天嶺は驚きつつも、返事をした。

「あ、そうです!すみません。今、開けますね」

 どうしてこんなに早く来れたのか。智成くんが住所を教えたとしてもこの早さはおかしい。まさか怪しい人なんじゃないかと、天嶺は警戒心を抱かざるをえなかった。

 それからもう一度インターホンが鳴って、加賀見を招き入れようと玄関を開けた天嶺は、驚きに目を丸くする。そこに立っていた学生風の青年は、髪の毛からジャージの裾までびしょびしょで、この短時間で足元の床も少し濡れている程だ。

「えっ、びしょ濡れじゃないですか!通り雨ですか?」

 今夜は雲一つない星空が広がっている筈だ。天嶺は自分の天気予報が外れたことに少々ショックを受けながら、「今タオル持ってきますね」と背を向けようとした。ところが、そんな天嶺を加賀見は制止した。

「いや、大丈夫です!それよりまず事情聴取させてください」

「ああ、そうですね。ええと、確かに三日間トイレに行っても何も出ないですけど、それ以外の自覚症状はないので、今すぐ倒れるってことはないと思います。それより髪を乾かさないと風邪ひいちゃいますよ。ここまで来ていただいただけでも申し訳ないのに」

 しかし、彼は「平気です!それより優先すべきことがあるので!」と強い口調で天嶺を止めた。なかなかの頑固者だ。

「あなたは三日前から半分神様になったんですが、具体的には昭和のアイドルになったようなものだと思ってください」

「は……」

 何の前触れもなく、そんなことを言われて、全身が粟立つ。これは宗教の人だ、と天嶺は直感的にそう思った。現代医学に救いを求めた筈なのに、どうして自分は宗教の勧誘に遭っているのだろうか。

「いいですか、神様と昭和のアイドルには三つ、共通点があります」

 そして、加賀見はそのまま話を続けてしまう。神様と昭和のアイドルとはどういうことだ。新興宗教にしては、設定が雑過ぎた。

「それはずばり、近寄り難い崇高な存在であること、支持者がいること、トイレに行かない、の三つです」

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