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1-1 星の囁き

 それは、いつもと何も変わらない一日の筈だった。

「ふぅ、朝……」

 目を開けると同時に出る溜め息。能星天嶺(のうじょうあまね)、30歳。社会人になってから朝はますます苦手になりました。

 天嶺(あまね)は、神経を逆撫でる目覚ましの音を一刻も早く消したくて、手を伸ばし、スマホを探る。自分で選んで設定しているアラームのメロディなのに、世界で一番絶望を感じる音色だ。しかし、それはどんなメロディを選んだって同じだった。社会人になって数年も経てば、慣れるものかと思っていたが、まだ夜も明けないうちに起きる辛さは、いつまで経っても変わらない。この生活がこれからいつまで続くのかと想像すると絶望しか感じないので、無理矢理に起き上がり、頭を振って思考を切り替える。

 ベッドから降りてスリッパを履いたら、まずはベランダへ出るカーテンに手を掛ける。朝陽は体内時計をリセットしてくれると言うけれど、生憎、天嶺が起きる時間の空はまだ真っ暗だった。

 天嶺は物心ついた頃から、いつも空を見上げている子供だった。一つとして同じ形のない雲が風に吹かれるままにゆったりと流されて行く様子や、空の高いところで人知れず薄っすらと小さく浮かぶ白い月。天嶺はそんな空といつもお喋りをしていた。晴れた日は、「楽しそうだね、何かいいことがあった?僕の家ではベランダの鉢植えの黄色いチューリップが咲いたんだよ」とか、特にどんよりとした曇りの日に、「怒ってる?嫌なことがあったなら、話してごらんよ」と話しかけたら途端に雨が降ってきたことがあって、空も悲しい時があるのか、と思った記憶は、今でも彼の脳裏に強く焼き付いている。

 そうやって空模様を(つぶさ)に観察してきたから、空を見て半日後や翌日の天気を当てるのは、昔からの特技だった。テレビだって、アニメや戦隊モノ、その他のどんな子供向け番組より、天気予報の天気図に目を輝かせ、定規をテレビ画面に当てては等圧線の間隔を測りノートに記録する、そんな変わった子供だった。

 そんな天嶺は現在、テレビ局で天気予報の原稿を作成する仕事をしている。幼い頃に将来の夢を訊かれても具体的な職業なんて思い浮かんだことはなかったが、一番心落ち着くのは昔から空を眺めることだったので、何となく関連がありそうな気象予報士の資格を取り、資格が活かせる求人に片っ端から履歴書を送り続けた結果、今の仕事に就いた。気象予報士の資格を持っているからと言って、それを活かせる仕事は限られていて、一時期は天気予報と何の関係もない会社の経理担当だったこともある。その頃と比べれば、夢が叶ったと言えるのかもしれないが、転職して三年経った今、充実感はあまりないのが正直なところだ。人間は、常に無い物ねだりをして、一生満たされない動物なのかもしれない。現状に満足すればいいと言われても、そう達観できる程、まだ大人じゃない。

 カラカラとガラス戸を開けるとひんやりとした空気が頬を撫でた。四月になったものの、夜明け前はまだ寒い。仕事とかそういうのは抜きにして、本当はただこうやって目の前の空を眺めることが好きなんだよなぁ、と天嶺は白い息を吐いた。

 それにしても、今日は空がいつもと違って見える。東京の空ってこんなに星が綺麗に見えたっけ、と考えた。まるで、長野の実家近くの山頂から見た時くらい。いや、むしろもっと明るいような。自分の視力が急に良くなったとも思えないが、まるで星の一粒一粒が宝石のように輝いて微笑みかけているみたいだった。その時、前触れなくさざ波のように複数の囁きが耳元に押し寄せる。耳鳴りかと耳を押さえ、瞬きを繰り返していると、一つの明るい星が自分に向かってはっきりと瞬いたかのように見えた。まるで、夢の中にいるようだった。


──陛下、漸くお目醒めですね。


 それは、前触れなく頭上から降って来た、柔らかく明瞭な声。

「えっ?」

 誰の声だ。本能的に恐怖を感じた天嶺は目を見開いて、辺りを見回す。しかし、恐る恐る上を見上げても上階のベランダから除いている人がいる訳でもなく、まさか泥棒かと後ろを振り返っても人影はなく、一人暮らしの部屋で誰かの声がする筈もない。もしかして下に誰かいるのかとベランダの手すりから身を乗り出すが、街灯に照らされた道路上に動く物はない。訳が分からず、もう一度まだ日の出の気配など微塵もない真っ暗な空へ目を向ける。あれ、あの眩いほど明るい星たちはどこへ行ってしまったのだろう。しかし、さっきまで光り輝いていた星々は何度瞬きしてももう同じ様に見えることはなかった。

「…見間違い、かな?」

 あの不思議な瞬間は一体何だったのだろう。ストレスで幻覚や幻聴が見えたとか、だろうか。結局、何が起こったのか分からず、寝惚けていたと思うことにして、紅茶を淹れるためにキッチンへ向かった。社会人の朝は数分の誤差が命取りになる。ぼんやり考え事をしている時間はない。毎朝のルーティーンに任せて、十五分で家を出るモードに切り替えなくてはいけない。

 お湯を沸かすには、電気ケトルより薬缶派。コンロはIHよりガス派、というのが彼の信条だった。カチカチカチと火が着く音を聞くと少し意識がはっきりする。顔を洗っている間にお湯が沸いたらティーバッグをセットしたマグカップにお湯を注ぐ。砂糖は決まってティースプーン二杯。社会人になってから砂糖の量が一匙増えた。起きてすぐの血糖値の急激な上昇は良くないと理解しつつも、これがないと彼の朝は始まらない。

 現代社会を生き抜く上で、自分の機嫌を取れる術を知っておくのは大切なことだ。彼にとってそれは、砂糖をたっぷり入れた紅茶と、スマホのフォルダに保存した推しの写真と、上着の胸ポケットに忍ばせているキャラメルだった。

 甘い紅茶だけ一気に飲み干して手早く身支度を整えてマンションを出る。大通りでタクシーを捕まえ、「JBS放送局まで」と行き先を告げてから急いで膝の上でタブレットを開き、数時間後に担当のニュースキャスターによって読み上げられる予定の原稿と、リアルタイムの雲の動きをチェックする。幼い頃から毎日天気の記録を日記に付けていたお陰もあり、雲の形を見ればおおよその天気は予想できるし、的中率にはそこそこの自信を持っている。窓の外を見上げ、暗い空に目を凝らした。寝る前に見た時と雲の流れが変わっているから、原稿の文言を少しだけ変えた方が良いかもしれない。そんな風に放送直前のチェックをしているとあっという間にテレビ局へ到着する。

 エレベーターを待っている間、今日一日頑張るために一目だけ、とスマホのフォルダに保存した一番新しい推しの画像データを開いた。魅惑的な二重に、スッと通った鼻筋と危険な微笑み。やっぱり今日も今日とて、彼は最高に格好良い。画像を見ているだけで自然と口角が上がり、元気が出た。ありがとう僕の神様、と彼は心の中で呟く。

「はぁ、ほんと。世界一かっこいい……」

「能星さん、おはようございます」

「おっ、おはようございます……っ!」

 突然近くで声がしたので、天嶺はスマホの画面を慌てて手で押さえて振り返った。今のにやけ切った顔は、社会人として決して他人に見られて良い物ではなかった筈だ。

「よっ!」

 ところが、誰に見られたのかと思えば、そこにいたのは見知った顔で、天嶺は安堵の溜め息を吐いた。

「なんだ、土濃塚(とのづか)さんか。焦ったぁ」

 首元がすっきりした黒のタートルネックに、焦茶のジャケット。胸ポケットにはお馴染みのサングラス。彼は、番組プロデューサーの土濃塚耕幸(とのづかやすゆき)。気さくな性格で、天嶺とは以前から出勤時にエレベーターで一緒になることが多かった。おまけにテレビ局の近くにある喫茶店もお互いのお気に入りで、これまで何回も隣の席になったことがあり、顔を合わせれば自然と話す仲になった。土濃塚の方が天嶺より二歳年上だが、年齢が近く、波長も何となく合う二人は、今や仕事仲間と言うより友人同士の感覚だった。その証拠に、彼は天嶺のことを「あーちゃん」と呼ぶし、温厚な天嶺も土濃塚に対してだけは遠慮なく八つ当たりができる。

「はは。あーちゃんのいい間抜け面見れたわ」

「朝からたばこ臭いですよ」

 せっかく良い気分でいたのに、と天嶺が睨みつけると土濃塚は不敵な笑みを浮かべた。土濃塚はヘビースモーカーだ。

「えー、俺にそんなこと言っていいの?とっておきのビッグニュースがあるんだけどなぁ」

「土濃塚さんがそう言うってことは、本当にビッグニュースなんでしょうね」

 土濃塚は、唇を尖らせて梅干しの種みたいになっている天嶺の顎を「臍曲げるなよ」と、人差し指の腹で撫でる。この人たらしめ、と天嶺は胸の内で毒づいた。そして、土濃塚の恋人であり、天嶺より一つ年下の巨嶋智成の顔がふと頭に浮かび、天嶺は土濃塚の手を軽く払い除けた。

「で、そのビッグニュースって何ですか?またハリウッドスターが来るとか?」

 先週は世界的な人気映画作品の続編の公開に合わせて超有名スターが来日し、天嶺の勤めるテレビ局にも来たのだが、それはもうすごい数のファンがテレビ局周辺に押し寄せたのだ。

「今日の午後、市上獅正(いちがみしのぶ)がここのスタジオで収録するって話」

「は……?」

 推しの名前が出たことが天嶺には信じられなかった。

「だから、市上獅正がぁ、」

 それまでエレベーターのインジケーターを見つめていた天嶺は、すごい勢いで土濃塚の肩を強く掴み、死ぬほど揺さぶった。

「ちょっとそれ!数日遅れのエイプリルフールじゃないでしょうね?」

 冗談だったら許さない、と天嶺は土濃塚を睨みつける。

「いや。その反応は予想してたけど、痛い。痛いよ!」

「あ、ごめんなさい」

 天嶺は慌てて手を放すが、まだ混乱していた。あと数時間後には、推しと人生で一番近い距離にいるということだ。心臓が痛いくらいの動悸がしていた。絶対に一生分の運を使い果たしたし、僕は今日死ぬかもしれない、と天嶺は本気でそう考えた。

「午後、ちょっと覗きに行っちゃえばいいじゃん」

 土濃塚は気軽にそう言うが、天嶺は思わず尻込みする。

「えっ!……いや、でも明らかに部外者ですし」

「市上獅正ってテレビ出演滅多にないって言うのに、さらに局内で同じ時間にいるって、こんなチャンス、残りの人生で二度と訪れないかもよ?」

「確かに、それはそうですけど……」

 市上獅正は天嶺の推しで、パリコレモデルだ。出会いは三年前。乗り換えのために足早に駅の構内を歩いていた時だった。目に飛び込んできたのは壁面の巨大広告。香水瓶を片手にベッドに横たわる姿とシャツの間から覗く均整のとれた肉体の稜線、そして力強い大きな瞳。モノクロ写真に写し出されたその美しさに、天嶺は一瞬にして心奪われてしまった。それからというもの、市上獅正の雑誌や写真集はもちろん全て買い、滅多に更新されないSNSも毎日チェックしている。獅正がテレビ番組に出ることは殆どないので、彼に会えるチャンスなんてある筈がないと天嶺はずっと思っていた。

「おーい、しっかりしろ。獅正に会いたくないのか?」

 やっと来たエレベーターへ先に乗り込んだ土濃塚が、早く入れと天嶺に向かって手招きする。天嶺は半ば放心状態でエレベーターに乗り、ふらふらと手すりへもたれ掛かった。

「いや、見たいですよ。見たいけど、推しに対してマナー違反みたいなことはしたくないし……」

「見学は、番組プロデューサーの俺が許可する」

「え、土濃塚さんの番組なんですか?」

「だから情報知ってるんじゃん。俺と友達でよかったでしょ?」

 有難い話の筈が、苛立ちを覚えるのは何故なのか。胡散臭すぎるウインクに天嶺は目を背ける。あの子は何でこんな面倒くさい人と付き合っているのか。今度、智成くんに会ったら、「あんなおじさん、別れた方がいいよ」と伝えようと思った。


挿絵(By みてみん)

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