第1話 神は存在するか?
ふと目を覚ますと、見慣れぬ光景が目に飛び込んできた。
見渡す限りの白い世界。
果ても境界も分からない空間に、私一人だけがぽつんと寝転がっている。
訳の分からぬままにゆっくりと起こしてみる体は、どこか夢見心地でふわふわと浮いたような感覚がする。
ここがどこか探ろうとしばらくの間歩いてみたが、どこかに辿り着く気配は一向に感じられない。
────あの時私は、自らを巻き込むようにして戦地もろとも吹き飛ばしたはずだが。
歩きながら徐々に覚醒していく頭には、いくつもの疑問が生まれていた。
身体のどこにも傷が見当たらない。
痛みすら全く感じられない。
ただ純白の景色が広がるだけのこの世界が、果たしてどこかなのかさえ今の私には分かりようもなかった。
もしや、夢ではないのか?
一瞬だけそう思案したが、それを知る術は残念ながら今の私には無い。
どちらにせよ、地球上にこのような場所が存在することは考えられず、死後の世界か何かなのだろうと自己完結する。
夢なら夢で、その後の流れに身を任せるだけだ。
そこまで頭を回せるほど、私に気力は残されていなかった。
体の疲れはこれっぽっちも感じないが、それでも今すぐ横になって眠りたい気分なのだから。
(やっと、まともに休める状況になったんだし)
この一年働き詰めだった反動か、私は何より心が疲れていた。
未だ何の変化も起きないこの状況さえ、どうにか打開しようという気にすらならないのが本音である。
とはいえ、いつまでもこのままで居続けるわけにもいかず、どうしたものかと頭を悩ませていると。
「こんにちは。ようこそいらっしゃいました」
どこからともなく声が掛かった。
そうして辺りを見渡すと、つい先ほどまでは誰もいなかったはずの空間に、一人の美しい女性が佇んでいるのが目に入る。
「えっと……どちらさまですか?」
「私?私はそうね、神様と言った方が伝わりやすいかしら」
やんわりとした笑顔を湛えるその女性は、さも当然かのような口調でそう言った。
その言葉を、私はすぐに飲み込むことはできない。
しかしながら、到底信じられないお伽噺のような台詞のはずなのに、自分が置かれている状況と彼女の放つ圧倒的なオーラに、思わず鵜呑みにしそうになる自分もそこにいる。
見た目の美しさや、おっとりとした優しい仕草とは裏腹に、纏う雰囲氣があまりにも重厚な人だ。
「これだけ殺風景だと、落ち着いて話できないわよね。ちょっと待ってて」
己を神だと名乗るその人は、何も言えずにいる私など意に介さず話を進めていく。
次の瞬間、白一色だった視界は一変して、柔らかくクッション性のある絨毯が敷き詰められた床と、クリーム色の落ち着いた色合いの壁に囲まれた。
部屋の中を一通り眺めてみると、様々な家具や調度品が目に入る。
それが果たして、今この場に必要なものかと言われれば答えに詰まるが、確かに見慣れた景色の方が些か落ち着いた気分にはなるようだ。
ちょうど真ん中には、黒く艶のある質のいい革張りのソファが置かれ、その間に挟まれるようにローテーブルがある様は、さながら応接室のようである。
ここまでされてしまったなら、神様というのもあながち嘘ではないのだろう。
そう思えるくらいには、あまりに唐突な変わりようだった。
ほんの刹那、一秒にも満たない程の短い合間に、これだけ広さのある部屋を作るような術など、魔法を視野に入れたとしても思い当たらない。
たとえこれが夢であれ、あまりに現実的でないことだけは確かだ。
改めてローテーブルの方に目を向けてみると、ご丁寧に飲み物とお茶菓子まで置いてあるのが見えた。
食器はどれも、美しい装飾の施された品のある代物で、見ているだけで心が潤うような気持ちになるものばかりだ。
テーブルもまた、ダークブラウンの木目調が特徴的で、落ち着いた風合いを保ちながらも洒落た雰囲気が伝わってくる。
こうした品々を見る限り、彼女は中々にセンスがいいらしい。
「さあ、どうぞ座って。ひとまずお茶にでもしましょう」
「あ……はい」
促されるままソファに座ると、私のちょうど向かい側に彼女が腰を下ろす。
そして、滑らかな仕草で手を前へと伸ばし、お菓子を一つ手に取った。
その仕草をそれとなしに眺めていた私に、お菓子から私へと移る彼女の視線が突き刺ささる。
食べないの?とでも言いたげな眼差しで。
実際、彼女はそう思って私を見つめていたのだろう。
その瞳は、心なしかキラキラと輝いている気がする。
その世界を、私は素直に美しいと感じた。
心からそう思えるのは、果たしていつぶりのことだろうか。
すっかり荒れ果てたはずの胸の内が、少しばかり暖かい。
「貴方のことは、何て呼んだらいいかしら?」
「好きに呼んで構いませんよ」
「それじゃあ……折角だから下の名前で呼ばせてもらうわね、紫苑ちゃん。貴方も、私のことは好きに呼んでくれて構わないから。残念ながら、私には名前と呼べるものは何も無いのだけれど」
改めて、よろしくね。
そう言って、私の目の前には彼女の手が差し出された。
名乗ってもいない名前を平然と呼ばれるのは、神様だというのならそれこそ当たり前のことなのだろう。
ひとまずよろしくお願いしますと言って、その手を握り返す。
名前がないと言う彼女は、勝手に呼び名をつけるには気が引けるので、女神様と思っておけばいいだろうか。
「一つだけ、確認しても構いませんか?」
「平気よ」
「私、勘違いじゃなければ、あの時確かに死にましたよね?」
彼女に問うことが、果たして正解だったのかは分からない。
それでも、他に当てもない私は、その答えに縋り付く以外の方法が思い浮かばなかった。
生きているのか、死んでいるのか。
死んでしまったのなら、なるようにしかならないが、生きているのなら今後の身の振り方を考えなくてはならない。
「ええ、死にましたよ。確実に。状況が状況とはいえ、貴方は数多くの命を奪いましたから、本来ならば既に地獄に落ちているところです」
女神様は、きっぱりと言いきった。
その言葉を私は、不思議と穏やかな心持ちで聞き入れている。
少しばかりの安堵感は感じたものの、それ以外の特別な感情は浮かび上がってこない。
ああ、地獄というものは本当に存在するのかなどと、他人事のように思えてしまうような実感の無さも相まっていたのかもしれない。
しかしながら、気になる言葉もあった。
────本来ならば地獄に落ちている。彼女は確かにそう言った。
それはつまり、私がここにいること自体が、異例の事態だということに他ならない。
なら、何故私はここにいるのか?
落ち着いて話ができないとも言っていたが、話し合いたい内容が関係しているのだろうか。
「何か理由があって、私はここに連れてこられたということですよね」
「その通りよ。飲み込みが早いというか……タフなのね、紫苑ちゃん」
初めは比較的、狼狽えるような態度を取っていたからなのか。
はたまた、死んだという事実を聞いても平然としていたからかは分からないが、彼女はそう口にした。
確かに、本来ならそれこそ、今この瞬間に狼狽えたりするべき場面なのだろうが、かく言う私はその事実をすんなりと受け入れてしまっていた。
覚悟していたことだからかと聞かれれば、それは少しばかり違う気がする。
勿論、全く無関係なわけじゃないが、予想外なことというのは往々にしてあるものだ。
固く心に誓っていたはずなのに、いざとなれば死ぬのが惜しくなることだってままあるだろう。
私がそうせずにいられるのは、もっと単純な話で、ただ死ぬことよりもあの世界で生き続けることの方に嫌気がさしてしまったというだけのことなのだ。
絶望など、今更感じずとも既に味わい尽くした。
それは、今回の戦争だけに限った話ではなくて、もっと昔からその苦い味を私は知っている。
「貴方のこれまでのことを考えれば、仕方ないのかもしれないわね」
私の気持ちを汲み取ってか、彼女の笑顔に少しだけ影が落ちる。
その言葉に答えを返すことはできなかった。
昔を思い返すのは、過ぎたこととはいえ気持ちの良いものでは無い。
「紫苑ちゃんの言う通り、ここに来てもらったのには訳があってね。そもそもの話、死後の行き先をどうして分けるのかと言ったら、生前の振る舞いや罪の重さを考慮した上で、魂の浄化や安寧をもたらすためなのだけれど……今回は少しばかり事情があって、貴方には罪を償うための別の方法を用意させてもらうことになったの。ただ、今回は措置としてはかなりイレギュラーな部類になるから、事前説明をさせてもらおうと思って招かせてもらったわ」
「なるほど……そうだったんですね」
「勝手に振り回すようでごめんなさいね。でも、貴方にとってはきっと、悪い話じゃないはずだわ。それこそ、地獄に落ちるよりはよっぽどね」
「それなら、とても有り難いお話ではありますけど。具体的に私は、何をすればいいのでしょうか?」
「そうね、まずはその説明からしましょうか。といっても、少しばかり言葉にしづらいというのが正直なところではあるのだけれど……」
どうしたものかと首を傾げながら、眉間に僅かばかりの皺を寄せて、彼女は私にかける言葉を探しているようだ。
どのような内容なのかは皆目見当が付かないが、悪い想像ばかりを膨らませるような空気はそこにはなく、単に適切な言葉が見つからないだけのようである。
「説明すると言った後で申し訳ないのだけれど、あまり具体的な内容は話してあげられないのよね。守秘義務に関わる部分もあるし、罪に対する罰の重さという意味でも、関係してくるところがあるから。だから、まず結論からざっくりと言わせてもらうと、紫苑ちゃんには今まで住んでいた地球とは全く別の惑星に行ってもらおうと思うの」
「別の惑星、ですか?」
「そう。例えて言うならあれね、一昔前に流行った……異世界転生ものだったかしら?そういうジャンルのお話ってことね」
「……はい?」
────本音を包み隠さずに言うならば。
ただただ、心の底から、この人は何を言っているのだろうという感想しか出て来なかった。
異世界が、何だって?