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決戦の日まで 1


 フリュー=アルドリアンがカナンからの報告を受ける。オウルウとの決戦を行う、一緒に戦って欲しいと懇願される。彼は「そうか」とだけ呟いた。「悪い、ちょっとやることあるから三十分くらいあとにもう一回かけてきてくれ」フリューは一方的に通信呪文を切った。

ずかずかと歩いて、彼の恋人の元へ向かう。これからしなければならないことを考えると、胃のあたりが鉛を呑み込んだように重たかった。ノックする。「はぁい?」返事があり、分厚い戦士の手が扉を開けた。

「あら、フリュー。いらっしゃい」

 ノエルは寝台の上から明るい声を出し、栞を挟んで本を閉じた。

「調子はいいのか」

「ええ」

「だろうな」

 意図していたよりも冷たい声が出た。フリューは視線を下げる。顔を直視できなかった。髪を掻き毟る。

 ノエルは細い息を吐いた。ああ、とうとうこの日がきてしまったんだなぁと思う。フリューが何度か躊躇ったのちに、口を開いた。鉛を吐き出すような重い声だった。

「単刀直入に行こうか。“おまえは誰だ?”」

「なにを言っているの? あなたの幼馴染のノエル=ブラン――」

 言い終わらないうちにフリューが剣を抜いて、一閃した。ノエルの左にあった写真立てと右にあった花瓶が真っ二つに切れて、かたんと音を立てて落ちた。

「いやもうわかってるから。次にくだらねえ嘘ついたら、その首ねーぞ?」

 憔悴でどろりと濁った目が、ノエルを捉える。凍えるほどの敵意が、戦闘職ではないノエルを縛りあげる。少し迷ったあと、ノエルは左手から指輪を外した。彼女の外見が光に包まれて、それがほどけたあとにはまったくの別人の姿がそこにあった。太陽と同じ色の髪をした、気品のある雰囲気の美しい女性。フリューの幼馴染であるノエル=ブランロームの姿はどこにもなかった。

「湖の国の王女、ターナと申します」

 女性が短く言った。

「ああ覚えてるよ。手紙くれたよな」

 フリューはひどく力の抜けた声で言う。かつて旅先で立ち寄って、少しだけ言葉をかわした人だった。フリューには婚約者がいる、というとひどく落胆していたのを覚えている。

「どうしておわかりになりましたの」

「癖が違うんだよ」

 フリューは細かく説明はしなかった。ノエルは本を読むときに栞を使わない。本を読んでいて中断するときは、ページを下側にしてべたりと置く。自分の部屋に花を生けない。あいつはすぐに枯れてしまう花が嫌いだった。振る舞いに品がない。稽古場を遊び場にして育ったノエルは、どちらかといえば野性的な娘だった。似せてはいるが、どことなく違う。

「あんたがそうやってるってことは、やっぱりあいつは」

「……フリュー様が旅に出て、しばらくしてのことでした」

 本物のノエル=ブランロームは既に死んでいる。

 フリューが守りたかったものは既に失われていた。目頭を抑える。気を抜くと涙が出そうだった。ターナが変身呪文を使ってノエルに成り代わったのは、フリューをこの光の国に引き止めるためだ。勇者亡きいま、“パーティ”のメンバーは人間の側の最強の戦力だ。「聖地」である光の国は万に一つでも攻め滅ぼされてはならない、と彼らの国は考えている。だから最大の戦力を自分達の手持ちにしておきたかった。そして彼らはフリューに対して、ノエルという切り札を持っていた。身体が弱く、最先端の治療施設の中でしか生きられない娘。しかしノエルは死んでしまった。これに関しては別に誰が悪かったわけでもない。ノエルを殺したのはあくまで病だ。光の国は治療に尽力した。ただ力が足りなかった。それだけのことだ。人間はいつか死ぬ。ノエルはそれが少しだけ早かった。

 身代わりを用意することを思いついたのは、ザイエス=レクシエンスという大司教だった。ノエルと同じ年頃の娘の中から、国が滅んで亡命してきたターナが志願した。フリューの傍にいてくれることを望んだ。ターナは別人の姿を借りてでも、彼が自分を愛することを想像すると胸が高鳴った。罪悪感やあくまで感情を向けられているのが自分ではないことにもっと抵抗を覚えると最初は思っていた。が、実際に彼を目の前にして、その愛情が向けられるのを感じるとそういった不安は吹き飛んでしまった。強い感情は時に他の感情を鈍らせてしまう。ターナは幸福の中にいた。それが嘘に塗り固められたものだということは、次第にどうでもよくなっていった。

「わたくしを、殺しますか?」

 それもいい、とターナは思った。

 愛しい人に殺されるならば本望だった。

 少し考えたあとでフリューは「いいや」とそれを否定した。確かにノエルの姿を騙っていたことを、憎む気持ちはある。だけど認めたくないが、それに救われていた部分もあるのだ。勇者が死に、死闘を終えて、光の街に戻って、ノエルの命が既にないとわかったらフリューは絶望の淵に落ちていたかもしれない。

 途中から違和感には気づいていたにも関わらず、この瞬間まで問い詰めなかったのもそのためだ。恐かったのだ。ノエルの死を認めるのが。確証がないままずっと過ごしていたかった。気づかなければよかったのに。たまたま訊ねてきた賢者とやらに呪文の気配があるのかどうか確認してもらったのは悪手だったといまでも思う。なんらかの呪文、おそらくは変身呪文が使われている、と賢者は答えた。フリューはノエルの死を、暗に認めてしまった。泥濘の中で眠っていることから、目覚めることを選んでしまった。

 フリューは泥の中から重たい体を起こした。剣を鞘に収め、立ち上がった。

「お待ちください」

「なんだよ?」

 冷たい声を出す。それは恋人に向ける声ではなく、フリューが既にターナに対する感情を完全に失っていることを如実に物語っていた。ターナは自分の知らないフリューを前にして少し怯んだ。だが意を決し「行かないで。行かないでくださいませ」搾り出すようにして叫ぶ。フリューには既に愛はなかった。それでも情があると信じた。ほんのわずかだけフリューが迷ったのがターナにはわかった。

「やらないといけないことが、残ってるんだ」

 獰猛な笑みを浮かべる。無理をしている。この人を戦場に立たせてはいけない。悲しみを飲み込んだまま人は戦えない。この悲しみはきっとこの人を殺してしまう。せめてこの人にあと少しの時間を――。だけどその時間を奪ってしまったのは他ならぬ自分達だとターナはわかっていた。そのことに愕然とする。

なおも縋るターナを振り払って、フリュー=アルドリアンは踏みつけるような強い足取りで歩き出した。ありがとう、と小さく呟いた彼の声は、誰にも届かずに落ちて、砕けた。



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