千獣王 9
「ええい、くそ。わたしにばかり面倒な作業を押し付けよって」
カナンはゴライアスの計らいで鍵のかかっていなかったコロシアムの裏門を開けた。後ろでに鍵を閉め無人の内部に侵入し、階段を下る。魔物達が普段囚われている地下牢にたどり着く。百メルトルほどの奥行きの両側に牢屋がずらりと並び、その中で沈静剤を打たれた魔物達が深い眠りについている。幅は十メルトルほどだろうか。
カナンは順番に牢の中を見て回る。ソードタイガー。キマイラ。ウォーパンサー。犀人や猫人などといった亜人種のモンスター。それから大蜻蛉や刃蟷螂。多種多様なモンスターが飼育されている。牢の中はどこも衛生環境が悪く、糞尿すらまともに清掃されていない。餌桶の中で何かが腐っている。ひどい匂いがした。
「レンクウ氏でなくとも同情したくなるな」
カナンは一通り牢の中を眺めたあとに、部屋の中央にぺたりと尻をつけて胡坐を組んだ。呼吸を楽にして目を閉じる。深く集中する。魔物達を起こさないようにゆっくりと魔法力を放ち、空間に満ちさせていく。
「さすがに広いな」
張り巡らされた魔法力が四方の壁に魔法陣を描いていく。魔法陣は四方からゆっくりと広がり、天井や床までも満たす。
ヴィストとの決戦の前夜に徹夜で作り上げた空圧呪文の術式を思い出す。あれほど殺傷能力の低い呪文ですら一晩かけなければ製作できない自分の能力の低さを思う。アトーなら一晩あれば必殺の一撃を仕立てることができただろう。極大爆裂呪文を二十数発まとめて放つことのできる彼女の破壊力を思い出す。自分では遠く及ばない。
(ええい、あんな天才どもと比べてどうする)
(自分にやれることをやればいいとヨヨに諭したばかりではないか)
(第一あのバケモノどもと比較すれば幾分劣るかもしれないが、わたしの実力は決して低くはない。仮にスペックでは劣っていても、形骸上の数字など実戦では役に立たぬことも多い)
(実際にここでこうして魔法陣を組んでいるのはアトーではなくわたしだろう)
ゆっくりと少しずつ息を吐き、肺をしぼめていく。
自然に息を吸い込み、埃まみれの地下牢の空気を取り込む。
通常、瞬間移動呪文は術者が触れている物にまでしか作用しない。地下牢の一体すべてに魔法力を循環させて、長大な魔法陣を通じてこの空間内のすべてに触れる。
「瞬間移動呪文」
コロシアムの地下の一室が切り取られた。あとには空洞だけが残る。
カナンは目を開ける。事前に予定していた広場がある。ベンチに腰掛けている金髪の少女が睨むような細い目つきでこちらを見ていた。
「遅い」
クロノの高い声が言う。
「ではきみがやりたまえよ……」
「ん、まあ残りはやりますよ。おつかれさまでした」
片手間のようにクロノは「飛翔呪文」と、唱えた。
「は?」
カナンが苦労して瞬間移動させた巨大質量が、その短い呪文だけであっさりと持ち上がる。それから「えいっ」軽くクロノが腕を振ると、街の外側にある高い防壁を超えて飛んでいった。
音がしなかったので、着地際に落下速度を落としたのだろう。それも仔細なコントロールのいる高等技能だ。
「……」
「なんですか」
「いや、なんでもない」
少し呆れただけだ。
天才共のなんて奔放なことだろう。
「カナンはこれから戻るんですか」
「わたしの仕事はあれらをレンクウに引き渡すところまでだよ」
「え、それはさすがにスーライルにやらせましょうよ」
「スーライルは今回の案件に関わっていない。そういう前提だったはずだ」
「じゃあせめてあたしも」
「連れて行けないな」
「どうして」
「危険だからだ」
「子供扱いするな」
服を掴む。ほんとうは胸倉を掴んでやりたかった。
「違う。そうではない。誰が行っても同じように危険なのだ。レンクウの機嫌一つで我々の命は消えるのだよ。わかるかね? だからわたし一人で行くのだ。最悪犠牲がこの命だけで済むようにな」
「わかりません。全然わかりません。なにを言ってるのかもわかりません」
「きみはもっと利口な娘だろう?」
「なにを言ってるんですか。あたしほど聞き分けのない娘が他にいるとでも」
「む」
「譲りませんよ。あたしも行きます」
ぎゅうぅ。服を握る手に力が篭る。
「あまり困らせないでくれたまえ。君が死ねばわたしはスーライルに殺される」
「死なないようにしてください」
「無茶を言うな。相手は七武衆だぞ。自分の身さえ守りきれるかどうか」
「……」
半分涙目の上目遣いに睨みつけられて、カナンは怯む。
聞き分けのない小娘を説き伏せる言葉を思いつけずに、耳に手を当てる。通信呪文でスーライルに援軍を求めた。
「ああ、スーライル。瞬間移動呪文までは成功した。クロノの助力で壁の外まで飛ばしたところだ。で、クロノがレンクウのところまでついていくといって聞かんのだ。そっちで引き取ってくれ」
「ええ、しょうがないなぁ。まあ何事も経験だ。連れて行ってあげて。あ、でもクロノちゃんが死んだらお前を殺すから」
「はぁ? ふざけるなよ、そんなに大事なら箱にいれてしまっておきたまえ」
「バカ言うなよ。きれいなものは飾らないと。それから時々磨いてやらないといけないだろ。それじゃよろしくね。あー忙しい忙しい。用事がそれだけなら切るよ」
「待て、まだ話が」
通信が途絶えた。
勝ち誇った笑みを浮かべるクロノが数歩歩いて「行きましょう!」と言ってくるりと振り返る。
クロノの足取りは弾むようだった。年頃の少女そのものの振る舞いに、カナンは気圧される。なんだかひどい違和感があった。自分の知っている少女とは違う人間のような気がしてまじまじと彼女を見てしまう。
「遠足に行くのではないのだぞきみ……」
呆れながら彼女を追う。不意にバカらしくなる。クロノもスーライルもほんとうにわかっているのだろうか。いまから乗り込む場所が獣王の虎口だということを。
ゴライアスの息のかかった門番が外へと続く門を開き、カナンとクロノは街の外へと出る。門が閉じていく。
「いまさらになって後悔するなよ、きみ」
「何がですか?」
「……肝が据わっている」
カナンは額を押さえた。
先に脱出させた牢屋の場所まで行く。ゴライアスの腹心が座り込んでいた。こちらに気づき立ち上がる。軍隊式の敬礼をする。
「例の物は」
「既に中に。空いている牢に放り込んでおきました」
牢を覗き込むとでっぷりと肥った中年の男女と、ゴテゴテした飾りの多い服装の若い娘が手足を縛られ猿轡を咬まされていた。アレキサンドラ氏とその家族だ。魔物に差し出されるほどの悪ではなかった人物達。
「……嫌な仕事を引き受けたものだな」
「お互いに」
男は言い、目を伏せた。
他の牢も覗いてみるが、あれだけ派手に吹っ飛ばしたにも関わらず中の魔物たちはわずかほども動いていなかった。ただ静かに眠っている。クロノの技量に舌を巻く。
「きみはどうするのだ?」
「戻ります。やらなければいけないことが残っていますので。それに……、獣の胃袋に進んで飛び込むつもりはありません」
「賢明だ」
カナンは引き攣った笑みを浮かべる。押し付けるようにカナンに鍵束を渡す。
「牢の鍵です。それでは私はこれで」
男が門のほうへ戻っていった。
「……さっさと済ましてしまいましょう」
クロノが牢屋に手を触れた。再び「飛翔呪文」と唱える。百メルトルを超える建造物が音もなく浮き上がる。
「きみ、本当にできるようになったな」
「厭味はやめてください」
プイと顔を背ける。
それからちらりちらりとカナンの顔を横目で何度か見て、結局話しかけることにした。
「どうでもいいんですけど」
「なんだね?」
「あの人、ヨヨさんとはどうやって知り合ったんですか」
「魔物に食われそうになっていたところを助けたのだ。拳の国の王に頼まれてな」
「王様に? 他の王子や王女よりも優先してですか。継承権は下位だと聞きましたが」
「拳の国の至宝、十六代目カザナギ=フウメイだそうだ。本人に自覚はないようだが」
「道理で」
ふとカナンは当人がこのことを知れば「なぜロバートを助けてくれなかったのですか」と泣き叫ぶのだろうと思った。
「そのときの傷が治らないまま別の魔物を殺そうとして出て行った。見殺しにするのが忍びなくて付き合った。まったく救い難い阿呆だ」
「どんな方なんです?」
「王族のくせに冒険者ギルドによく顔を出していたらしい。脳みそまで筋肉で出来ている。あとはそうだな、溺愛していた弟がいたそうだ」
「いた、とは?」
「魔物に殺された。故郷を滅ぼされたときに」
「そうですか」
「……そういえばきみも故郷を。いや、失言だった。済まない」
「あたしは何も覚えてないんですよ。心因性健忘症だって治療士が言っていました。滅ぼされた焼け跡で呆けていたのを見つけられて、呪文の才能があるって本の国に連れて行かれたんです」
「そうか」
「それでニナと会って、お前に会いました」
「ああ、そうだったな」
しばらく取り留めのない話をしながら二人で歩いていた。月のきれいな夜だった。草原を風が優しく薙いでいく。欠けたところの一つもない、美しい世界だ。魔物達と無実の人間が入った牢屋がなければどれほどよかっただろう。この一周り外の世界が魔物で囲われていなければどれほどよかっただろう。
選択を誤ればこの美しい草原が数日のうちに血に塗れることになるだろう。もっとも誤らなかったところでそれが数週間先に伸びるだけの話だが。
前方から獣人達の一団がやってくる。大きな影が六つ。獣人達はウォーパンサーと呼ばれる、黄斑の毛皮を持つ豹型の魔物に騎乗していた。軍馬よりも一回り大きい。六匹のウォーパンサーと六体の獣人達が土煙を上げながら駆けてくる。
「止まれ! 止まらなければ攻撃する」
カナンが叫ぶ。彼らは徐々に速度を落として、二十歩分程度の距離をとって停止する。
「武器を捨てろ」
と、魔物の長らしき虎に近い形状の頭部を持つ獣人が言った。
「できない。対等な立場で交渉ができないなら、我々はこれの中身を殺して去る!」
「……引き渡せ」
「それも出来ない。レンクウに謁見を申し出る。彼に直接引き渡そう。貴様らの出る幕などないということだ。さっさと案内しろ。彼はどこだ」
(強気すぎませんか)
クロノが小声で尋ねる。
(魔族との対話とはこうやるのだよ。覚えておきたまえ)
なんてことの無い様にカナンは答えた。が、生来臆病な男だ。心臓が早鐘を打っている。内心で悪態をつく。限りなく向いていない役目だと思う。震えだしそうな拳を握る。
獣人たちが早口の魔族語で何かを話す。
カナンは魔族の言葉が理解できるが、方言の混じった言葉を咄嗟に理解できなかった。
獣人達が頷き、剣を抜く。素早い動作だった。が先制したのは彼らではなかった。ほとんど同時に近い速さでクロノの指先から紫色の閃光が迸る。わずかに遅れて空気を切り裂く轟音。頭目であるらしい虎頭を狙った雷は彼が別の獣人の影に隠れたことで、その獣人と乗っていた一匹ウォーパンサーを黒焦げにして終わる。邪雷呪文。
「正当防衛ですよ?」
古い呪文の研究は魔族の言語の研究と直結している。古代魔法の専門家であるクロノは細かい方言まで含めてほとんどの魔族言語を理解することができる。殺して奪え、と言った彼らの言葉を聞き逃さなかった。
吼え声をあげて残りの四体の獣人達とウォーパンサーが襲い掛かる。クロノが指を向けると邪雷呪文の破壊力を警戒した彼らが散開。カナンとクロノを取り囲もうとする。血気盛んな四匹のウォーパンサーが別々の方向から口を開いて突撃してくる。獣人の槍がカナンに向く。すべての敵がカナンに狙いを絞っていた。
(わたしのほうが御しやすいと見たか)
実際その通りだろう。
クロノの邪雷呪文は閃熱呪文の速さと火炎呪文の破壊力を合わせもっている。対してカナンの火力は決して高くない。
足元への爆裂呪文で一匹の足を止める。氷刃呪文で作り出した氷壁の額をぶつけてもう一匹が怯む。広範囲に閃熱呪文をばら撒いて目を刺す。がむしゃらに突撃してきたウォーパンサーにクロノが指先を向ける。邪雷呪文の紫電が乗り手諸共に命を終わらせる。跳躍して襲ってきた最後のパンサーと獣人を、二人は左右に分かれて回避。離れ際にカナンが爆発呪文を放ち横腹を打つ。パンサーが腸をぶちまけて死ぬ。獣人の足が折れる。
負傷したパンサーを捨てて二体の獣人達が接近。「地閃呪文」クロノが地面に掌をついた。
魔法力によって地中深くに眠るマグマの力に働きかける。小規模な噴火を引き起こす。獣人の二体が溶岩に飲まれて死ぬ。半拍遅れて回り込んだパンサーがクロノに食いつこうとした。カナンの爆裂呪文が頭部を吹き飛ばす。飛び込んできたもう一匹が口を開く。カナンは牙を避けて鼻を押さえ込むように受け止める。膝で喉を蹴りあげる。が、膂力が足りずに押し込まれる。牙が肋骨を削る。腹の肉を浅く食われる。「カナンっ!」クロノが指を振ってカナンに襲いかかるパンサーに向けた。
「バカモノ! こっちではない」
虎頭の獣人が腰の刀を抜いて迫っていた。カナンが自分を襲うウォーパンサーの喉奥に腕を突っ込んだ。火炎呪文を唱える。体の内側から炎に焼き尽くされて、絶叫を上げながら焼け死ぬ。
「いけ」
虎頭が乗っていたパンサーの尻を蹴り飛ばした。
加速をつけて直線でかけてくるパンサーをクロノの邪雷呪文が迎撃。脳髄を沸騰させてパンサーが死ぬ。蛋白質の焦げる嫌な匂いが満ちる。その間に虎頭が接近。
「舐めんなバケモノ」
クロノが踵で地面を蹴りつけた。地閃呪文が噴出する。が、鋭く横に飛んだ虎頭の獣人は溶岩の噴出をあっさりと避けた。猫科特有のしなやかな動きで体が斜めに流れたまま刀を振るう。致死の軌道が、カナンが脇から放った氷刃呪文がぶちあたって逸れた。
刀を止められた虎頭は舌打ちしてクロノの腹を蹴る。肺に衝撃を受けて空気が抜けて、クロノが新たに作りかけていた呪文が崩壊。爆裂呪文によって彼女を援護しようとしたカナンに、片足の折れた獣人が襲い掛かった。「くっ」咄嗟に手の中の爆裂呪文をそれの迎撃に向ける。獣人の腹が破裂して内臓を撒き散らしながら死ぬ。即座に二撃目の爆裂呪文を用意して虎頭に放つ。
魔法力を帯びさせた左手を振って、虎頭は爆裂呪文を無造作に払った。炸裂する。虎頭の手に焦げ痕が残りわずかに出血するがそれだけ。
(中級魔族クラス、この程度の呪文では火力が足りない!)
虎頭が逃げるクロノを追う。邪雷呪文を放とうと指先を向けて、その手首が刀の一閃によって吹き飛んだ。高く宙を舞って、地面に落ちる。クロノはぺろりと舌を出した。
「邪雷呪文」
舌先から紫電が飛んだ。「!!!」虎頭は全身を強力な魔法力で包み、脳髄の沸騰こそ防いだものの全身の神経に電撃を浴びてカクカクとおかしな動きをする。
「誰が指からじゃないと撃てないなんて言いました?」
数秒もしないうちに肉体のコントロールを取り戻した虎頭が再び襲いかかろうとした。
が。
「極大火炎呪文」
それよりも早くカナンの呪文が火柱をあげた。
特大の火炎が夜を漂白する。鬼火のような青い炎が虎頭の獣人の全身を焼く。魔法力で全身を包み防御して火炎から脱出しようとした虎頭が喉を押さえる。酸素の欠乏が彼を襲っていた。強力な火炎呪文は周囲の酸素を食い尽くすのだ。火炎の中で倒れ、伏したのを確認してカナンが呪文を止めた。失われた部分を補おうと風が吹き込んでくる。
クロノも構えていた邪雷呪文を引き、自分の手首を拾う。
「いったぁぁ……」
半泣きのクロノが回復呪文によって表面を繋ぎ合わせる。しばらくまともには動かないが、応急処置だ。カナンも浅く刺さった牙痕に回復呪文をかけた。表面が皮膚で覆われてとりあえずの出血を防ぐ。
「……少し休もうか」
二人の負傷は決して軽くはない。
カナンは恐ろしい想像をした。もしもクロノがついてこずに、自分一人でレンクウの元に向かっていたら? 先ず間違いなく彼らに食い殺されていた。最初の一撃さえ防げなかったかもしれない。実際戦局はギリギリだった。クロノが彼らの言語を読み取り初撃で二匹減らしてくれなかったらどうなっていたことか。
溜め息をつく。えらそうなことを言っておきながら結局自分の身すら守れないのだ。情けなくなる。同時に自分をこんな危険な役目に割り当てたスーライルを呪う。
草原の上にぺたりと尻をつけて、上がった息を整える。
「これ、レンクウからの拒絶と見ていいのでしょうか」
クロノが脂汗を拭きながら言う。
カナンは額を揉み解して少し考える。
「いや、どうだろうか。彼らからすれば自分たちの領域まで連れて行ってもっと大勢の仲間に囲わせて襲ったほうが確実なはずだ。彼らの独断専行ではなかろうか」
「それって敵があたしたちをそこそこの手練れだと見ていた場合ですよね。単にあたしたちを造作もなく殺れると判断したのでは。なにしろこっち二人ですしで、あっち十二体いましたから。しかも一体は中級魔族」
「一理あるな。気は進まんがスーライルに指示を仰ぐか」
「実はさっきからやってます。けど繋がりません。あいつ、多分寝てますね」
「絞め殺してやりたいな」
「同感です。けどあいつが死んだら、きっと人間って魔族に負けるんですよね」
「あいつにヨヨの十分の一でもやる気があればな」
クロノが横目でカナンを睨んだことに彼は気づかなかった。
「そろそろ行きましょう」
クロノは左手をついて立ち上がろうとした。ぐに、と繋がっているだけの左手がおかしな曲がり方をしてバランスを崩す。咄嗟に背中に手を差し込んでカナンが小さな体を支える。脇の下に手を入れて、立ち上がらせる。
「……ありがとうございます」
不満そうにクロノが言う。
「実戦経験の少ない初心者がよくやるミスだ。回復呪文を使うときは痛覚を切らずに少し痛みを残しておけ」
「次からそうします」
ぶっきらぼうに言って再び飛翔呪文をかけてようとしたクロノの手を、カナンが掴んだ。
「待て」
「なんです?」
「なにか来る」
魔法力の匂いがわかるカナンの鼻が何かを掴んでいた。
幻惑呪文の霧を張る。
もう少しすると今度は音がやってきた。犀の魔物が引く戦車の轍の音。それから地鳴りとなるほどの無数の足音。そして音の接近に気づいたときにはもう遅かった。猛烈な勢いで突進してきた百を超える魔物達が幻惑呪文の霧を取り囲んでいた。
その中心には戦車の上に鎮座する筋骨隆々の大男。座っているので正確にはわからないが二メルトルはゆうに越しているだろう。
身の丈と違わない長さの槍斧を背中に刺している。顎は長い髭で覆われている。風に靡く硬い長髪は炎に似ている。漂っている魔法力の強靭さは魔王級の魔族に匹敵するモノだ。
「たかだか十二匹であれだけ苦戦したのだ。これはどうにもならんな。ああ、さきほどのように先走って攻撃するなよ。蜂の巣をつつくようなものだ」
「……つ、ついてくるんじゃなかった」
「きみはここまででいい。帰りたまえ。内から内への瞬間移動呪文なら可能だし、ギリギリ間に合うだろう」
「残りますよ! ええ、残ります」
「いい子だ。呪文を解くぞ」
カナンは霧を引いた。
視界の正面に戦車に乗った大男を捉える。
「“千獣王”レンクウとお見受けするが」
「いかにも。俺がレンクウだ」
存外に理知的な響きのある低い声でレンクウが応えた。
気に入らないな、とカナンは思う。魔物なんて輩はもっとバケモノ然としていればいい。
それでこそ倒し甲斐がある。
「わたしはカナンという。闘の国の使者だ。要求の品を届けにきた」
「確認する。荷に触れるぞ」
「了承した」
「しばし待たれよ」
レンクウが従僕に指示を出し。数匹が牢の中を見て回る。
「レンクウ様」
ウォーパンサーや獣人達の遺骸を見つけた獣達が興奮して唸り声をあげた。
「申し開きは」
「彼らは荷を引き取りにきたと言った。直接持っていくと答えたら襲われたから身を守った」
「俺は彼らに命令を与えていない。貴様の言を支持しよう。荷を死守した功績を認める」
「どうも」
仲間の死に激怒するのでは。と考えていたカナンの肩の力が抜ける。
ならばこの男は牢の中の魔物達に何を求めているのだろうか。
「レンクウ。尋ねてもいいですか」
「女、名を名乗れ」
「クロノと申します」
「問いを許そう。なんだ」
「闘技場の魔物の何に固執されているのですか」
「闘争の末に殺されるならばよい。捕虜とするのもよいだろう。だが同族同士での殺し合いを強要されるなどあってはならぬことだ」
「魔物が人間を相手にそれと同じ事をしていないとでも?」
かつて実際に捕らえてきた人間に殺し合いをさせて、それを眺めて愉しむ魔物達の城があった。
レンクウは「俺の軍勢の中では認めていない」とだけ答えた。
「それに人間とてそのことを知ったときに激怒したはずだ。そして死に物狂いで彼らを取り戻した。違うか?」
「……」
「そしてそれを行った魔物達を根絶やしにした。俺も同じ事をしようとしているに過ぎん。何か疑問はあるか」
「いえ、お前の言うとおりです」
傍で狼が吼えた。即座にクロノが指先を向ける。手には邪雷呪文の術式。
「やめておけ。焼け跡をみたか? その女、手強いぞ。なにより使者に手をかけるなど礼を失することだ」
レンクウが愉しげに口元だけ笑みを作る。
カナンがクロノの頭を軽く叩いた。
「いまのは貴様が悪い。敵とはいえ王だ。お前呼ばわりとはなんだ。このバカ者め」
「……失礼しました」
「構わん。人が俺達に払う敬意など元より信じてはいない」
硬質な視線が二人を射抜く。カナンは本当にヨヨを連れてこなくてよかったと思った。あれならばこの視線を見ただけで場も弁えずにレンクウに挑みかかっただろう。クロノの粗相などかわいいものだ。
「いました」
と、一体の魔物が叫んだ。
人間の言葉だった。密談と捉えられるのを避けたのだろう。
「カナンよ。牢の鍵はあるか」
懐から鍵を出し掲げて見せた。
「投げるぞ」
レンクウが頷くのを認めて彼のほうに放る。
大きな掌が鍵束を受け止めた。
「これで引渡しは済んだ、と考えて構わないかね?」
「しばし待て。精神錯乱や自死の呪文がかけられていないか確認する」
レンクウが戦車から立ち上がる。
(それにしてもデカいな……)
はち切れんばかり筋肉と魔法力に溢れている。果たして自分の呪文はこの男に通じるのだろうか? クロノの邪雷呪文は? はたまたスーライルの呪文は? 人型の姿で凄まじい魔法力を纏っているならば真の姿はどれほどなのだろうか。
レンクウがゆっくりと牢に向けて歩んでいく。鍵を開ける。
「アルトゥ、起きろ」
内に向けて呼びかけた。が、返答はない。
牢の中に入り、女型の猫に近い獣人を引きずりだす。
(いや、猫と言うよりは、女獅子か?)
獣人は眠っている。目を覚ます気配がない。レンクウが乱雑に頬を二、三度叩いた。
「ふぁーあ。なにい? 何回言われても餌抜きにされても戦闘やらないよあたしは。仲間を手にかけるくらいなら。……ん? んん? あれ。パパじゃん」
(レンクウの実子だと!?)
「ひっさしっぶりー。ここどこ? トーギジョーじゃないよね? 外?」
「……」
レンクウは娘を放り投げた。狼の魔物がそれを受け止める。「ワウワウ。あんたも久しぶりだね。元気にしてた?」娘はそれの首に抱きついて戯れている。
レンクウがカナンを見た。微妙な表情だった。娘を助け出せたことへの安堵か、単にその娘の行動に呆れているのか判断がつきかねた。
「確認した。ご苦労だった。約束通り他国に通じる一部の街道を解囲し、十四日間の猶予を設けよう」
「彼女の救出があなたの目的だったのだな」
「……ヴィストという魔物に囚われていた。それをアレキサンドラが金で買ったそうだ。他にもやつに“売られた”魔物は多数いる」
「人の金貨など集めてヴィストは何を?」
「知らん。俺の管轄外のことだ。あとは貴様らで調べるがいい」
「感謝する。クロノ。行こう」
「……はい」
瞬間移動呪文を使い、二人はその場を離れた。




