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幼年期2 -ランプレヒトとの二度目の出会いと、ランプレヒトの話-

 次にナルがランプレヒトと出会ったのは八日後だ。それは最後に別れたホテルのすぐ前のことだった。

 最初に気付いたのは甘い匂いだ。太陽とトウモロコシ畑の匂い。

「ランプレヒト!」

 ナルは反射的に口にしてから自分が間違えてしまったのではないかと思った。同じ匂いはしたものの話しかけてしまった人物がランプレヒトだとは思えなかったからだ。

 何せ話しかけた男の顔ときたら――そう、その男は顔に包帯を巻いていなかった――このあたりでよく見る縮れた黒髪だったのだから。

 ランプレヒトの顔を見たことはない、しかしその胸毛は透き通るような薄い色素だったのだから頭髪が黒い縮れ毛ということはないだろう。

 しかし、男はナルの言葉に呵々大笑した。

「そうか! ナルにはおれが分かるのか!」

 それは間違いなくランプレヒトの声だった。

「おい聞いてくれ、彼女にはおれが分かるんだそうだ! やっぱり子供にはもっと大切なものが見えてる! 姿がなんだ!」

 彼は嬉しそうに、近くにいた女性に話しかけた。それはあの彼と出会った日にロビーでヒステリックな様子で電話をしていた女性だった。

「嘘、本当に?」

 彼女に聞かれてナルは控えめに頷いた。

 彼の喜びようから、匂いでそう思っただけですぐ間違いだと思ったとは口に出せなかった。

「でもその……その顔で生きていくわけにはいかないでしょ?」

「なんでだ。薔薇と呼ばれる花を別の名前にしても美しい香りは変わらないようにおれはおれだ」

 どうやら彼らはその議論をしていたらしい。おそらくメルト式医療技術で髪の色が変わってしまったらしい。

 よく見ると腕に比べて顔の色が濃い。肌の色も変わってしまったのだろう。

「その顔を見たらお母さんはぶっ倒れるわよ」

「包帯の下を見せてもぶっ倒れただろうさ、なんなら戻るときは包帯を巻くか?」

「ああもう……。ナンジョウ先生、彼の顔はいつ治るんですか?」

 彼女はさらに隣にいた男性に話しかけた。

「昨日、技術者の方に話を聞いた限りでは現状、メルト式の研究のほとんどがモンゴロイド中心の行政単位で行われていることに問題があるようです。つまり、もっとも安全に再構築するにはもっともサンプル数が多いモンゴロイドに再構築するしかない」

「そんなことは聞いていません。いつになったら彼の美しい顔が帰ってくるかと聞いているんです」

 彼女の声は電話口で話していたときのような、情緒の不安を持ちつつあった。

「……共和連合もいつまでもメルト式を禁止しておくとは思えません。広くこの技術が使われるようになればサンプルが集まり、元の顔に近づける再手術ができるでしょう」

「それはいつの話?」

「政治は専門外なのでなんとも……。ただ、一年以内という話ではないでしょう」

「それじゃあ意味がないの。ああ、お母さんになんと言ったら……」

「もういい」

 二人の議論を、ランプレヒトの苛立ちの混じった声が遮った。

「思う存分、二人で議論をしていてくれ。おれが参加をしてもこの顔が戻るわけじゃあないからな」

 そしてランプレヒトはナルの方に向き直った。

「ナル、これから暇か?」

「暇だけど」

「海にいくぞ海」

 そう言いながらナルの横をすり抜けて歩き出す。ナルは慌てて彼を追った。

「え、なんで?」

「まだ君にお礼の<ホワイト・クラブ>を採っていないだろう」




 その後も何度もナルとランプレヒトは出会った。ランプレヒトは三日目には<ホワイト・クラブ>の隠れ場所に対する直感が働くようになった。

 二人とも近くの人間には言えないことがあり、話して〝それっきり〟にできる人間を求めているという共通点があった。だから二人は色々なことを話した。

「彼女の母親はおそらく優しい人なんだろう。おそらく彼女を知っている人の八割くらいはそう思っているだろう」

「残りの人は?」

「とても残酷で恐ろしい人だと、おれはそう思っている」

 両手で顔を覆うようにして、ランプレヒトはそうつぶやいた。

「あの女は共感できる苦しみを抱えた人にはとても優しい。だが、共感できない苦しみはあの女の世界には存在しないんだ。いくらつらいから止めて欲しいと言っても真面目に受け取っては貰えない。あの人と過ごすのはおれにとってとても苦痛なんだ」

 彼のことをとても強い人だと思っていたのでナルはその弱々しい態度に意外さを覚えた。そしてかわいそうだと思った。

 おそらく――と、何年も経ったあとのナルは考える。おそらく、あの時私はランプレヒトに心惹かれたのだろう。子供だった私は誰かに頼られるのは初めてで、それがとても嬉しかった。それが好意に繋がったのだ。

「あの女はおれを狂っているという。ああ、実のところそうかもしれないと最近思い始めた。おれの兵士としての仕事は正気のままでこなすには――あまりにも狂気に満ちていた」

 ぶるり、と彼は寒気を覚えたように身体を震わせた。

「頭おかしいの?」

 ナルはまだ未成熟な人間だけが持つ率直さでそう訊ねた。

「分からん。だが、軍はそう判断したようだ。おかげで顔の怪我と合わせてけっこうな額の年金が振り込まれ続けている。……もっとも、こんなものいつ振り込まれなくなるかわからないが」

 頭がおかしくなったことと〝年金〟がどう繋がるのか分からなくて、ナルは曖昧に微笑み続きを促した。

「もしかしたらおれが狂っていて。こんなことで苦しむのはおれ一人だけなのかもしれない。だが、苦しみは事実なんだ。あの女は文化的じゃあないよ。共感できないものだってこの世には存在している。おれは苦しいと言葉を使って伝えているんだ、その言葉を尊重して欲しいとそれだけなんだ」

 かわいそうなランプレヒト。ナルは固く握られた彼の右手を包むように握った。

「大変だったんだね」

「……ありがとう。君にそういって貰えて、少し報われた気分だ」

「軍ではどんなことをやってたの?」

「……最初は良かった。大変なことはあったが何より誇りがあった。おれたちは国民を守っていた」

「最後の方は違ったの?」

「……本当は君みたいな子供には話すようなことじゃないのかもしれない」

「言って、聞くから」

 ナルは彼の手を握る力を強めた。

「分からないこともいっぱいあるかもあるかもしれないけど、一所懸命に聞くから。話して欲しい」

 すでにナルは大人に頼られ弱い部分を見せて貰うと快楽に酔っていた。

「……分かった」

 ランプレヒトは当時の祖国の様子を話し始めた。最初は躊躇いがちだったが、徐々にその語り口は熱をおびていった。

 話し始めて十分も経過したときにはナルに分かりやすいように、専門用語を避けたり説明を入れたりするような気遣いすら忘れていた。

「実のところ、おれが知る限り政府によるクーデター計画を最初に考えたのは大統領と前首相の方だった。軍と警察の力で国会を制圧して政党と政治団体を強制解散。後に、改正によって事後承諾させる。これはあの忌々しい〝塗装工〟がやったことと酷似している」

 この頃には、ナルは彼が言っていることを把握するとはできなくなっていた。

 これまでの話から、その〝塗装工〟と呼ばれる人物が悪者なのだと漠然と把握しているくらいだ。

 彼の国の現首相が元塗装工なこと。そして塗装工とは育ちの良くない粗暴な人間の代名詞として扱われていることを知ったのは何年も後の話だ。

「おれはそのクーデター計画についてシミュレーションを行った。国防相からこの計画について困難だという結果を出せという指示があったが、そんなものなくてもこの計画は軍の能力を超えていた。もちろん、〝塗装工〟の愚連隊なんかに負ける軍じゃあない。だが、軍備制限下でどうしたって人数が足りない。内戦状態が続けば混乱に乗じて侵攻される可能性が高かった。この計画は無理だった」

 ランプレヒトはかぶりをふった。彼のモンゴロイドの色になった顔には苦渋の色が浮かんでいる。

「これまで国会をないがしろにしてきた首相に対して国会は非協力的で、国を安定させるためにあの〝塗装工〟を首相に任命するしかなかった」

 彼はそこで気遣うような視線をナルに向けた。

 ナルはすでに彼の話を理解してはいない。しかし、そのことを彼に悟られることはナルにとって羞恥であり、恐怖だった。

「蟹は成長するときが最も脆い」

「それは?」

「ここの言い回し。蟹は成長するために脱皮するけど、そのときに柔らかくなって捕食されやすい。物事は良くなろうとしているときこそ慎重にならなければいけないって意味」

 これはある種の賭だった。ナルは明確に意識してやったわけではなかったが、ランプレヒトの話を理解していないことを隠すために抽象的な話をすることにしたのだった。

 そしてこの賭は大成功することになる。

「そうだ、その通りだ。失業者対策だって回り始めていたしもう少しできっと良くなるところだったんだ。それに油断していた。確かにこれまで首相は国会を軽んじてきたが、あの〝塗装工〟を押さえるために協力しなきゃいけなかった。誰もが慎重さが足りてなかったんだ」

 ランプレヒトは興奮し始めていたが、それと反比例するようにナルの心は醒めていった。

 自分の口から咄嗟にでた話をまるで世紀の発見かのように評価するランプレヒトがどこか滑稽に見えた。

「英雄と呼ばれた大統領は八十歳を超えて酷く弱腰になってしまった。祖国を内戦にした人間として歴史に残ることに耐えられなかったんだ。首相は席に固執して武器を使うことすらいとわない俗物。国防相は暴力装置を用いる意味を知ってはいたが野心家。誰か一人でもあそこに君のような本質が見えている人間がいたならば!」

 ナルが酷く醒めた目で自分を見ていることに気付かず、ランプレヒトは強い口調で喋り続けた。

「そしてあの長い粛正の夜が始まった。反乱に対する国家緊急防衛なんて発表がでっちあげに過ぎないことは多くの人が知っていた。いや、仮にあの愚連隊の反乱とやらを信じたとしても、関係ない邪魔な人間が同時に粛正されたことは明らかだ。中には軍人も含まれていたんだぞ? 裁判なしで裁かれるなんていう不名誉が許されるはずがない」

 もはやランプレヒトはナルのことを見ていなかった。その声は感情的で、そして自問的な調子を持っていた。

「だというのに誰も何も言わなかった。教会ですら沈黙を選んだ! いや、何も言わなかったのはおれも一緒だ。言ってやるべきだったのだ、そのような命令には従えないと。いいや、おれがそれを言って何が変わる? 死体が一つ増えるだけだ。言えるべき人、副首相を助けるべきだった。助けるべきだった? 一軍人が映画のヒーローみたくか? 馬鹿馬鹿しい。あのまま埋まって死ぬべきだったんだ、そしたらこんな生き恥を晒すことはなかった。顔の毒が心臓に回るまで埋まってればよかった。おれはなんだ。何故、国を捨てた? 何故こんなところでのうのうと生きてる? いや違う、おれを追い出したのはあいつらだ。こんな顔の怪我一つでおれを戦えないと判断しやがった」

 それはずっと考えていたことで、そして未だに答えが出ていない事柄だったのだろう。その自問自答が止まることはなかった。

 ナルはようやく本当にランプレヒトは頭がおかしいのだと、そのことを理解した。

「うおおぉぉぉーー!!」

 突如、ランプレヒトは叫んだ。そしてそのまま走り出した。

 それは奇妙な走り方だった。まるでバランスを崩して転ぶ直前のような前につんのめった姿勢でしばらく走り続けたと思ったら、急に競争選手のような綺麗な姿勢に戻った。かといえばまるでゴリラのように胸を叩いたり、子供のように猛然と手を振り回しながら走ったり、忌々しげに何度か自分の腹を殴りつける仕草を見せた。

 感情の行き場がないのだ、ナルはかわいそうに思った。

 きっと、胸に渦巻く感情が叫んでも手足を振り回しても消えなくて、でも胸の外に出ようとしているんだ。

 ランプレヒトはあっという間に視界から消えてしまった。

 その後、彼が駐めてある車を持ち上げてひっくり返したという噂を聞いた。

 あの一緒にいた女が持ち主に、車の値段の倍以上のお金を支払ったため事件にならなかったらしい。

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