6. 夢、悪夢
あれからさらに一週間が経ち、彼女の入院生活が4週過ぎた。つまりこの時点で彼女は宣告された余命をちょうど生き延びたことになる。この日、俺はいつものように学校に向かう前に坂上病院に寄っていた。空はよく晴れていて、病室を訪れた時の彼女の体調も先週より良くなっており、俺は彼女の病気に向かって「ざまあみろ」と言いたかった。
俺が病室を訪れた時、彼女は嬉しそうに微笑んで「おはよう」と挨拶した。体調がいいからなのか、いつもよりご機嫌がよろしいようだ。
「凉は、本とかよく読む?」
「俺は漫画ばっかだからなぁ。あ、でも最近は少し読んでる」
「へぇ、どんなの?」
「医療関係の本だよ。まあ読んでもさっぱり分からないところが多いけどな」
「そっかぁ」
彼女の病気を治すために医者になると決意してから、俺はできることならなんでもやりたいと思っていた。
「凉は努力家さんだね」
「お前には及ばないけどな」
時衣が口元に手を当て、優しい目をしてふふっと笑う。出会った頃はぶっきらぼうで、表情も今より固く、こんなふうに穏やかに微笑んでいる様子なんて全然想像もできなかった。それなのに今ではすっかり俺に心を開き、女の子らしい一面をたくさん見せてくれる。でもそれは自分にも言えることで、彼女と出会う前の自分は目の前の勉強や部活のことしか見えておらず、人と深くかかわることもなく生きていたからおあいこだ。
「私はね、『次郎物語』が好きなの。詳しくは話せないけど、おおまかにに言うと、母親に見放された次郎が成長していく話よ。次郎の子供心が芯から伝わってきて、胸がじんとするの。終盤に近づくにつれて次郎がお母さんと打ち解けて、お母さんを看病するシーンなんて、すごくあったかいのよ」
時衣は本当に本が好きなんだろう。きらきらした表情で『次郎物語』の好きなところを語る。
「そんなふうに思える時衣は、すごくいい子だと思うよ」
俺がそう言った途端、彼女の顔がカァァっと赤くなる。
嘘は言っていない。
辛い病院生活の中でも、感動する心を失っていない彼女は本当に強いと思う。
「もう、凉ってば」
それでも彼女は恥ずかしかったようで、頬を膨らませて怒る。その姿さえ可愛らしくて、
「可愛いね、時衣」
わざと俺がそう言ったら、時衣はもっと赤くなって、「凉のばか」と言った。
こんなふうに俺がクサい台詞を言っても自然体でいられるくらい、俺たちは仲良しになったのだ。
「おっと、そろそろ学校行かなきゃな」
「もうそんな時間なの」
時衣が少し寂しそうに呟く。
「もうちょっとここにいない?」
「ばーか、そんなことしたら遅刻するだろ」
「いいじゃない、1時間くらい」
「だめだ。そんな根性じゃあ医者にはなれねー」
「うー、凉のケチ」
俺を引き留めようと拗ねる彼女が可愛く、いじらしく思えてきて、俺は彼女の頭をわしゃわしゃ撫でた。
「わっ…」
「また放課後来るから」
「ぜったい?」
「絶対」
俺に頭を撫でられながら、彼女は甘えた声で「待ってるね」と俺に言った。
「それじゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
俺は病室の扉をガラッと開けた。
「凉」
彼女が俺の名前を呼んだ。俺は振り返らずに、彼女の次の言葉を待った。
「…ありがとう」
彼女がそう言った時顔は見なかったが、声に寂しげな響きがあった。「ありがとう」の前に何か聞こえた気がしたが、俺はすぐに病室をあとにしたので実際に彼女が何を言ったのかはわからなかった。
目の前に崖があった。
下を見ると、真っ暗闇が広がっていて、ゴウゴウと風が壁に当たって不気味な音を立てている。
自分がなぜそこにいるのか分からないまま、ふらふらしながらも、崖から遠ざかろうとした。
その時、微かに声が聞こえた。
たすけて……
微かなのに、何度も何度も聞いたその声が胸の奥に響いて。
崖から遠ざかろうとしていた俺は咄嗟に振り返って――
「神崎おはよう」
目を覚ますと、目の前に担任の佐々木先生の顔があって思わず「うわっ」と口に出してしまった。
「せ、先生…すみません」
普段なら授業中に居眠りをしている人には容赦しない先生だが、今日はなぜか何か言いたげな表情で、
「神崎、終わったら職員室来い」
と言っただけだった。
「はい…」
クラスメイトも、授業が中断させられたことに対しては何も思っていないらしく、そのまま再開された。
昼休みに職員室に向かうと、先生は自分の机で何か書類を書いていた。昼休みだというのにその日は他の先生があまりおらず、3年生の先生がちらほら見えただけで2年生の先生は見当たらない。そういえば今1年生は宿泊研修に行ってるんだと今気づく。じゃあ2年生の先生は、と聞かれてもなんでいないか答えられないが。とにかく今日の職員室はひどく閑散としていた。
「まあ座れ」
先生は空いている隣クラスの先生の椅子に座るよう指示した。俺は勝手に今そこにいない先生の椅子に座るのも気が引けたが、佐々木先生が言うので仕方がないと思い、遠慮がちに椅子を引いて座る。
「…居眠りしてすみません」
こういう呼び出しの時は即座に謝るのが勝ちだと判断した俺は素直に頭を下げる。が、それを見た先生は「は?」と何か不思議な生物を見るような目で俺を見ていた。
「いやいや、俺がそんなことで呼び出すわけないだろう」
「え」
「何驚いてんだ。俺は授業中に生徒が居眠りしたくらいで呼び出すほど暇じゃないし、まして普段成績の良いお前をそんなくだらない理由で叱ったりはしない。まぁでも、今後は気を付けるんだぞ」
「は、はい…じゃあ、他に何の用です?」
居眠りのことで叱られるのではないと安心したが、他に先生が俺に言いたいことって何だろう、時衣のことだろうかと一瞬考える。
「端的に言えば進路のことだ」
先生は机に置いてあったコーヒーをすすりながらそう切り出した。
「進路…ですか」
時衣の話ではないと分かって少しだけほっとした自分がいた。
「そうだ。お前ぐらいの成績だと、やっぱり進学だよな?」
「はい。まだどこの大学に行くかは決めてないですけど…夢はあります」
「ほぅ。ちなみにその夢って医者か?」
「え…どうして」
知ってるんですか、と口にすると先生ははっはっはっと大口を開けて笑う。
「だってお前、最近医学関係の本ばっかり読んでるだろう?それに、授業中眠そうなのは今まで以上に勉強に精を出してるからなのかとも思ったわけだ」
「な、なるほど…」
驚いた。先生というのは俺が思っている以上に生徒のことをよく見ている。そしてきっとあれこれ考えて心配してくれている。
「何かきっかけがあったのか」
「そうですね…まあいろいろと」
俺は時衣のことを言うかどうか迷ったがさすがにそれを言ってしまうと先生によからぬことまで告白する羽目になるのでやめた。
「そうかそうか。…ちなみに”いろいろ”って桜田のことか?」
そう訊いてくる先生は秘密を知ってしまった子供のように楽しそうだった。
「…そんなところです」
結局時衣から影響を受けたことを言わざるを得なくなった俺。…先生というのは俺が思っている以上に生徒のことをよく知っている生き物だった。
「まぁあれだ、お前ならいけると思うぞ。適当に聞こえるかもしれんが、長年いろんな生徒を見てきた先生の言うことは結構正しいから信じろ」
佐々木先生と面と向かって長く話したのは今日が初めてだったが、先生は意外とカッコいいことを言う。
「ありがとうございます。…それにしても先生、何でも分かるんですね」
俺は笑いながらそう言った。本当にこの人は超能力者じゃないかと思うくらい俺のことを分かっている。
「あ、すまん神崎。俺さっき嘘ついたわ」
「へ?」
先生は突然悪事がばれてしまって開き直ったの子供のようにけろりとして言う。
「まあ完全に嘘ってわけでもないけど、本当はこの前見舞いに行ったとき桜田からお前が医者になりたいって言ったことを聞いたんだ」
「え…そうだったんですか」
俺は先生の言葉を聞いてとても驚いた。時衣が先生に俺のことを話すなんて思ってもみなかったからだ。だってそんなことを言えば、彼女が俺とかなり親密な仲だということがばれてしまうのに。
先生に俺との仲がばれてもいいと思うほど、彼女は俺のことを本当に大切だと思ってくれているということだろうか。
「桜田は、『凉のことよろしくお願いします』って言ってたぞ。律儀な彼女だなぁおい」
完全に高校生のノリになっている先生に突っ込む前に、俺は時衣に言葉がやけに引っ掛かった。
――凉のことをよろしくお願いします
それじゃあまるで自分はもう見て居られないから他人に託しているようで…
「…それ、いつですか」
「ん?」
「いつ見舞いに行った時に言ってたんですか」
「ああ、そのことか。それなら一昨日だけど、何かあるのか?」
「…そうですか。いえ、何でもないです」
俺は考えた。一昨日も彼女は今朝と同じように体調が良さそうで笑ってて――
ん?一昨日は楽しそうに笑ってて…今日も笑ってて…?
俺が何か違和感を覚えた時だった。
ガラッ
勢いよく職員室の扉が開かれ、そこには我がクラス副担任の土屋先生が立っていた。
「せ、先生!佐々木先生!!大変です、たった今坂上病院から連絡がありました。桜田さんがっ…」
土屋先生の必死な様子の知らせに、俺と佐々木先生の心臓が同時に跳ねる音がシンとした職員室に響いた。
つづく