5. 約束
彼女のために医者になると決意してから1週間が過ぎた。つまり今、彼女が余命1か月と宣告されてからちょうど3週間経ったわけだ。
時衣は海にいってから2,3日は元気そうにしていたが、最近は調子が悪く俺が見舞いに行ってもぐったりとベッドに寝込んでいる。そんな彼女の痛々しい姿を見る度に、彼女のために何もできない自分が悔しくて情けなくて、その場に立ちすくんでしまう。けれどそんな時、時衣が苦しい中でも口を開いて、
「私は大丈夫よ」
と無理して俺を安心させようとする。健気に微笑む彼女がしおらしくて、何としてでも助けてやりたいと思うのだった。
「絶対助けてやるから」
同じ言葉を何度も言うのに、時衣は毎回「ありがとう」と笑って答えてくれる。本当は身体がきつくて俺の期待に応えられるかどうか不安でたまらないだろうに…。
それでも彼女が笑うなら、俺は必ず彼女が元気になると信じようと思った。
「また来るからな」
「うん、待ってる」
「神崎って、最近勉強熱心だな」
学校に行くと勉強ばかりしている俺を、尾木がが不思議そうな目で見てくる。
「俺はいつも勉強熱心なんだよ」
「そうか?」
「そうだよ」
俺はムッとしてそう答える。すると彼は、ああそうかという風に頷いた。
「もしかして、時衣ちゃんの調子悪いのか」
それがあまりに図星だったので、俺は何とも言えず黙ってしまう。
一週間前、時衣を海に連れて行った次の日のことだった。
「佐々木先生、桜田さんは今日も休みですか?」
クラスの女子の一人が朝のホームルームで時衣のことを口にしたので俺は驚いてその人を見た。その女子は金江夏希と言って、女子バレー部に属している。すっらとしていて背が高く、バレー部では次期キャプテンらしい。社交性があり、その上頭もそこそこいいので誰からも慕われていた。
そんな彼女からの質問だったので、先生も無視するわけにはいかないと思ったのだろう。しばらくの間黙り込んで迷った後、口を開いた。
「桜田は…家の事情で休んでいたが、最近体調が悪いらしくてな。もうしばらくは家でゆっくり療養するそうだ。だから体が治り次第、学校にも来ると保護者の方が言っていたよ」
先生が言ったことは半分本当で、半分は嘘だった。いや、ほとんど嘘か。本当なのは彼女が今現在身体を悪くしているというところだけだったから。
「嘘ですよね」
金江さんは俺が今思ったことを代弁するかのように少しも動じずに佐々木先生を真っ直ぐ見据えていた。
「何だ金江。先生の言うことが信じられないのか」
「ええ、信じられません。だって私、昨日坂上病院近くの海で車椅子に乗った彼女を見ましたから」
「!?」
金江さんの発言に俺は動揺を隠せなかった。
彼女の言葉を信じるなら、きっと昨日時衣の車椅子を押していた俺の姿も目撃されているはず…。
それはマズイ。
俺が彼女の秘密を知っていることが、皆にばれてしまう!!
「…それは金江の見間違いじゃないか。桜田に似ている人だって世の中に何人もいるだろう」
見るとさっきまで事実しか語っていませんというように冷静に話していた佐々木先生も少し動揺しているようだった。
「いえ、見間違いではないと思います。その時桜田さんの隣に、そこの神崎君がいるのも見ましたから」
彼女は”そこの”と言う時に俺の方を指さす。その瞬間、一斉にクラスの皆が自分に注目するのが分かった。
「おい、どういうことだ!?」
「まじかよ」
「桜田さん、病気なの?」
「それより神崎とはどういう関係…?」
教室はクラスメイトたちのどよめきで包まれる。そんな中金江さんは大役を果たし終えた後のように自信み満ちた瞳で先生を見ていた。
というか金江夏希…なんてことをカミングアウトしてしまったんだ…。
「はぁ…。分かった、本当のことを話すから静かにしろ。桜田は大切なクラスの一員だからな」
これにはさすがの先生も観念したようで、時衣のことを一から話し始めた。…ただ一つ、彼女が余命宣告をされているという事実を除いて。
「…というわけで、彼女は今坂上病院に入院している。心臓の病気だから皆が考えるほど軽くはない。だけど、必要以上に彼女のことを心配することもない。彼女を見舞いに行くときは、皆普段通りに接してやってほしい」
「そうだったんだ…」
「早く治ってほしいね」
「あいつがいないと誰が化学の鬼質問に答えるんだ…」
「そうだよねー」
今度の先生の答えには金江を含め、クラスの皆が納得したようだったので俺もほっとした。…まぁ後で時衣との関係について尋問されることになったのは言うまでもない(特に尾木から)。
先生が彼女の余命について触れなかったのは、皆の不安を煽らないためだと分かったので、俺もそのことについては誰にも言わなかった。それ以上に、クラスの皆が俺が思っていたより時衣のことを慕っている様子だったのに驚いた。
「え、だって時衣ちゃん可愛いし、すっごい頑張り屋さんじゃん。ただちょっと素っ気ないのはどうかと思うけど…。でも、打ち解ければ明るく話してくれると思うから」
後で俺が訊くと、クラスメイトの一人がそう言ってた。その台詞を聞いて、俺はじんわりと胸が熱くなった。時衣は昔からずっと『化け物』呼ばわりをされていて他人を簡単には信用できないと言っていた。でも、ここには時衣のこと心配してくれるやつがいっぱいいたんだ。
「どうしたの、神崎君」
「い、いや…なんでもない。ありがとな」
質問に答えてくれた女子は急にお礼を言われて不思議そうな顔をしていたが、やがて友達に名前を呼ばれてそちらに駆けていった。
…というわけで、尾木は時衣の病気のことを知った上で、俺に声をかけてきているのだった。
尾木との会話に戻ろう。
「そうか。それで勉強して気を紛らわそうとしてるのか」
彼はそう勝手に解釈しているが、そんな単純な理由ではない。
「知ってると思うけど、あいつ…すごい重い病気なんだよ。いつ治るかも、いや、治るかすら分かんないんだ。だから、せめて俺ができることをしたいと思ってな」
「そうか。大変なんだな…。つまりお前、医者になるのか」
「あぁ。一刻も早くな」
「時衣ちゃんは、お前に会えて良かっただろうな」
「そう思ってくれてるなら嬉しいけどな」
俺がいつになく素直に話すので、彼は途中でぷっと吹き出した。
「なんだよ」
「いいや、お前、格好いいと思うよ」
「褒めても何も出ないからな!」
「ははっ」
久しぶりに尾木とこんな風に話して、俺もいくらか気分転換になった。彼女が全然大丈夫な状況じゃないことを俺は知っていた。あと何日生きられるか分からない命だということも。
でもそれは多分、本人が一番感じているはずであり、俺は彼女の支えにならなくてはならない。自分が医者になるまで何年かかるか分からないし、その時まで彼女が生きられる可能性なんてそんの数パーセントしかないだろう。
それでも俺は、諦めたくなかった。
なぁ時衣。
俺は信じるから、どうかお前も信じてほしい。
自分の命はまだ燃え続けるものなんだと、信じてくれ。
その日彼女の身体の調子がいつもより良かったので、見舞いに言って少し話をした。時衣はいつになく楽しそうで、心から笑っているという感じだった。俺もそれが嬉しくて、彼女の未来がまだ失われていないことを確信した。
「ねぇ、凉」
窓の外が暗くなり、そろそろ帰ろうと立ち上がった時、時衣が澄んだ声で俺を呼んだ。
「なんだ、時衣」
そう言って彼女を見た時、もともと綺麗だと思っていた彼女の肌や髪や目や口元が、いっそう美しく、神聖なもののように見えた。
「私…凉と結婚する」
「…え?」
彼女が言ったのはまさに爆弾とも言うべき衝撃発言で、俺は数分間その場でフリーズしてしまった。
「だめ、かな?」
見ると彼女は頬を真っ赤にして顔を伏せている。俺は一気に心臓の鼓動が速まり、俺たちの他に誰もいない静かな病室に、二人のド心音がドクドクと響いて聞こえた。
「だめなわけ…ないだろう。俺はお前が好きなんだから」
気が付くとそんな恥ずかしい台詞を口走っていて、自分でも何がなんだかもう分からなかった。
「ありがとう。私も凉が大好きよ」
何だっていい。
神や仏じゃなくても。
自分が彼女の生きる希望になるなら、彼女を一生守れるなら、俺はどんな苦境だって足掻いてやる。
つづく