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勿忘草   作者: 葉方萌生
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4. 決意

彼女の車椅子を押すと俺が思っていた以上に軽く、そのことに少し胸が痛くなった。けれど時衣は海に行くのが心底楽しみな様子で鼻歌を歌っていた。風がふわっと吹く度に、時衣は俺の方を見て目を細める。

「ずいぶん楽しそうだな」

「えぇ。だって外に出るの、久しぶりなんだもの」

「確かに、そうだな」

「…今日が最後にならなければいいけれど」

 ふと彼女が言った言葉にいちいち胸がズキズキして、彼女が今すぐにでも消えてしまうような恐怖を覚えた。俺はその恐怖を紛らわすように、わざとらしく言う。

「ばーか。そんなわけあるかアホ」

「あ、あほって何よ!私はあなたよりは勉強だってできるわ」

「…それは否定できないな」

 彼女が頬を膨らませて答えてくれたので、俺はほっと胸を撫で下ろした。こんなふうにふざけあえる日がいつまでも続けばいいと思った。

「わぁ、見て見て凉!海だわ、塩の匂いがするわ、海風が吹いているわ!」

「お、見えてきたな」

 まるで初めて海を見た子供のようにはしゃぐ時衣を見て、俺は素直に嬉しくなった。

「よし、着いたぞ」

 海は決して南国に映えるスカイブルーの海ではない。深い青をした、どこにでもあるような海だ。でも、今の俺たちにとってはそんな些細なことはどうでもよくて、ただ二人でこうやってここまで来られたことが重要なことだったんだ。

「綺麗ね、海。泳げたらもっと楽しいだろうなぁ」

 彼女が微笑みながらそう言った。

「来年の夏、また来ようぜ」

 俺が答えると、彼女は俺の方を見て頬を赤らめた。

 …俺、なんか恥ずかしいこと言ったか?

「来年も…ずっと私の側にいてくれるの」

 彼女が、ポツリと言った。

「あ、当たり前だ」

 俺は赤く染まった顔をみられないようにふいっと横を向いて言った。

 それから彼女はびっくりしたように頬を染めて、それからふふっと笑った。

「ありがとう」


 俺たちはしばらく砂浜で海を眺めていた。時折波が近くまでザブーンとやって来ては、慌てて車椅子を引いて彼女が濡れないように努めた。

 そうして一時間ほど経った頃だろうか。

 彼女が唐突に口を開いた。

「ねぇ、昔の話をしても…いいかな」

 静かな声色で、海を見つめながら言う彼女は、何かを決意したような真剣なまなざしをしていた。

 俺は黙って頷く。

「私ね、小さいころに両親を亡くしてしまってそれからはずっとおばあちゃんと暮らしてたの」

 初めて聞く話に、俺は驚く。彼女がそんな大変な思いをしていたなんて知らなかった。よくよく考えると、今まで一度も彼女を見舞いに来る親御さんの姿を見たことがなかった。母親は同じ病気で亡くなってると聞いていたが、まさか父親まで亡くしていたとは…。

「両親がいないのは寂しかったけれど…おばあちゃんはとても優しい人で、私はおばあちゃんが大好きで何不自由なく暮らしてたわ」

 幼い手を引く、穏やかな表情をそた老婆。

 嬉しそうに微笑む時衣。

 そんな幸せな光景が頭に浮かび、自分まで温かい気持ちになった。

「けれど…ある日突然おばあちゃんが倒れてしまって…お医者様には何か難しい病名を聞かされたけど、私はその時小学生で何の病気なのか全く分からなかった」

 どんな気持ちだったんだろう。

 唯一自分の側にいてくれる大好きな祖母が倒れてしまうなんて。その小さな胸で、どんなふうに受け止めたんだろう。

「おばあちゃんが病院で目を覚ました時、私を見てなんて言ったと思う?」


――お嬢ちゃん、誰かのお見舞いかい?


「おばあちゃんは…私のこと覚えていなかったの」

「そんな…」

 やっと目を覚ましてくれたと思ったら、自分のことを忘れてるなんて…。

 その時の時衣の胸の痛みが、絶望が、ありありと伝わってくる。

「家に帰ってひたすら泣いたわ。今考えるとおばあちゃんは認知症の類だったのかもしれない。でも、その時の私には受け入れられないほど辛いことで…散々泣いた後、決めたの」

 そこで時衣は一旦話を止め、すっと大きく息を吸った。

「私が医者になって、おばあちゃんを助けるんだって」

 その時初めて、彼女がなぜあんなにも聡明なのか理解した。

「そうだったんだな…。だからお前は一生懸命勉強したんだ」

「えぇ。どんな教科も全部大事なんだ、決して疎かにしてはいけないって思って…1日何時間も勉強したわ。そしたら成績も一気に伸びて、いつの間にか学年で1番になって、皆かすごいすごいって言われて……皆私を避けるようになってしまったの」

「え…」

 そりゃ、彼女が周囲から一目置かれていることは知っていた。でも”避ける”まではないはずだ。

「私は教科書も参考書も見たらすぐに覚えてしまうから…皆に『お前は化け物だ』って言われたわ…」

「化け物…?」

 彼女が話すことは、俺の予想以上にひどいものだった。いくら頭がいいからって、そこまで僻みにすることないんじゃないか…?

「化け物って言われて、とても辛かったわ。学校で勉強してたら何人かが寄って来て、私の悪口を言うの。そんな時はいつも、勉強をやめようかと弱気になってしまったけれど、どうしても私はおばあちゃんを助けたかった」

 彼女の頑張り。

 彼女の悲しみ。

 その全部が、今まで彼女が他人からの悪口に耐えながら培ってきたものだった。

「でもおばあちゃんは…私が中学2年生の時に亡くなってしまって…。それでも医者になる夢だけは捨てたくなかった。いつか誰かの命を助けるんだって、亡くなったおばあちゃんと約束して高校生になったわ。1年生は特に何事もなく過ごして…いえ、相変わらず人には避けられていたけれど…進級してあなたと出会って…私はびっくりしてしまった」

「びっくりって、何を?」

「あなたは私が教科書を一瞬で覚えてしまうって知っても、私のこと避けなかったでしょう?…初めてだったの、私のこと化け物って言わなかった人…」

 あぁ、だからあの時、彼女は目を丸くしていたのか。

「あの時ね、素直に『すごい』って言ってくれたのがとても嬉しかった。ありがとう、凉」

 彼女が俺の目を見て淡く微笑んだ。

「そ、そんなこと感謝されるほどのことじゃないぞ。俺は思ったことを言っただけだし。でも…喜んでくれたなら良かった」

 それから俺は彼女の頭を撫でた。彼女はびっくりしたようで、少し震えていた。本当は抱きしめてあげたいけど、車椅子が邪魔でできなかった。

「俺…医者になってお前の病気を治したい」

 なぜだか分からない。自然と強い決意が生まれてきて、気が付くとそう言っていた。医者になるなんて、全然簡単なことじゃない。努力しても努力しても叶えられないかもしれないのに。

「無理、よ…。凉は頭がいいからお医者さんになれるかもしれない。でも、凉が医者になった時きっと私はいないもの…」

「そんなの、分からないだろ。医者が言う余命だって絶対じゃない。お前が生きたいって強く思えば、きっと神様が助けてくれる」

「神様が…?」

「あぁ。だから、もうちょっと頑張って生きろよ」

 俺は彼女の漆黒の瞳を見て彼女に「生きろ」と言った。さっきまで諦めかけていた彼女も、俺の熱意を感じ取ってくれたのか、涙をポロポロこぼしながら頷いた。

「えぇ…生きるわ。私、あなたを待っているわ…ありがとう」


 つづく

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