2. 君の秘密
「誰かっ、助けてくれ!!」
俺は桜田を抱きかかえ、必死に叫んでいた。
腕の中の彼女はひどくグッタリしていて、小さな呼吸しかしていなかった。俺自身冷や汗をかきすぎて気分が悪くなってきた時、担任の佐々木先生が駆けつけてくれて、救急車を呼び、彼女を病院に送った。
桜田の身に一体何が起こってしまったのか…。
意識を失う前に呟かれた「神崎」という彼女の声がいつまでも頭の中で反芻していた……。
それから30分後、
「神崎」
と佐々木先生に呼ばれ、俺は我に返った。
「はい…」
「さっき病院に連絡したんだけどな、桜田は病院に着くと意識が戻ったそうだ。まぁ一週間は入院するみたいだが」
その言葉を聞いて少し安堵する。
「お前はもう帰れ。もうすぐ試験だからな」
先生の言う通り、中間考査は3日後だ。桜田と勝負するつもりだったが、これではテストどころじゃないだろう。
「…分かりました」
彼女のことが気になったが、俺は桜田の家族でも親しい友人でも、まして恋人でもないので諦めて真っ直ぐ家に帰ることにした。
そして3日後。
テストが終わり放課後になった。教室ではテストが終わった解放感からか、高校生だというのに皆騒ぎ出していた。
「神崎、行こうぜ」
サッカー部の友達から部活に誘われたが、俺は
「悪い、今日用事あるからさ、休むって顧問に言っといてくれ」
と、矢継ぎ早にそう言って学校を出た。
「なんだあいつ、デートかぁ?」
背後でそんな声が聞こえたが無視した。
彼女の入院している病院は、町からバスで20分ぐらいのところにある坂上病院だと佐々木先生が教えてくれた。俺は坂上病院に着くと彼女のいる病室を訪れた。なぜか彼女のことが気になって仕方がなかったのだ。
「失礼…します」
そう言いながら部屋の扉を開けた。彼女は個室の中で俺を見ると、目をぱちぱちさせて驚いていた。
「神崎…」
ポツリと、彼女は呟いた。心なしか、以前より声に力がないように思われた。
「お、おっす。元気か?」
まぁ、元気じゃないからここにいるわけだが、一応ね。
すると彼女はこっくり頷いた。
「今日さ、テスト終わったんだけど、勝負できなかったからまた今度な」
「うん」
そう言ったきり、俺は何を話せばいいか分からなくなって、ただただ黙ったままだった。
彼女も口を結び、何も言わず窓の外を眺めていた。
窓から橙色の光が差し込み、日も沈みかけた頃、ようやく彼女がボソリと言った。
「ねぇ神崎…、一か月だけ、私と付き合わない?」
彼女は俺の方を見ようともせず、そっぽを向いていた。
突然の爆弾発言に、俺は言いようもないほど驚いていた。
付き合うってなんだ…。大体俺たちは今年同じクラスになったばっかりでほとんど話したこともないんだぞ。
そう思いながらも、その”ほとんど話したこともない人”のお見舞いに来ている自分に苦笑した。俺はあまり乗り気にはなれず、呆然とするばかりだった。
「で、でもさ…俺たちそこまで…」
親しくないじゃないか、と言おうとしたが、いつの間にか俺の方をじっと見ていた桜田の澄んだ漆黒の瞳に射すくめられ、何も言い返せなくなった。
「お願い、一か月だけでいいから」
その言葉に、もう頷くしかなかった。
「ありがとう」
翌日、名前も知らない黄色い花を持って病院へ行くと、桜田はあまり感情のこもっていない声でお礼を言った。その無機質な声に、内心少し腹が立った。
本当に桜田は俺のことが好きなんだろうか?もしかして、ただ弄んでいるだけじゃないのか。もしそうだとしたら、こんなことはやめた方がいい。
「あのさ…」
俺がそう切り出すと、桜田は
「なに?」
と首をかしげて言った。
「体、大丈夫か」
少しでも会話をしようと必死にそう言った。
「多分…」
それでも、そっけない返事しか返ってこなかった。
「そ、それならいいんだけどな」
なんかすごくぎこちない…。
こいつ、本当に俺と恋人になったつもりなんだろうか。ていうかそもそも俺は桜田に恋しているわけでもないしな。そう、ただちょっと付き合っているだけだ。
一か月経てば戻る関係だ。
そう自分に言い聞かせていた。
でも、俺は知らなかった。
彼女のことを、何一つ知らなかった。
あの日までは――。
それは彼女が入院して6日目のことだった。
その日、俺は部活で夜遅くなり、午後8時前という面会時間ぎりぎりに病院に向かった。辺りはもう真っ暗で、病院に近づくにつれて家も少なくなっていった。
あと何回、この道を歩けばいいのだろう。先生は一週間は入院すると言っていたが、もうすぐ退院するというようなことを彼女の口からは聞いていない。
どうして俺は、あいつと付き合っているんだろうな…。
最初は人生初の彼女に心が躍ることもあったが、だんだんとこの関係にも飽き始めていた。愛情のない人と付き合っても、ただいらいらするだけだと。
そもそも、桜田はなぜ俺に好意を持ったのだろうか。そんなことを考えているうちに病院に着いた。夜の病院は不気味で、できれば早く立ち去りたかった。
コツコツと靴音を鳴らしながら、桜田時衣とプレートに書かれた病室の前までやって来た。いつものようにノックをして扉に手を伸ばした時。
「…うっく…怖い…っく…うぅ…」
”怖い”
嗚咽と共に、そんな言葉が聞こえた。
「お、おい…」
思わず扉を開けると、桜田の肩がビクッと震えて慌てて涙を拭うのが分かった。室内は月の光に照らされて、不気味に輝いていた。
「…神崎…」
ドキリとするほどか弱げな声に俺は身震いした。
「お前…どうしたんだ?」
俺は思いきって訊いた。桜田はとても躊躇っている様子だった。眉を下げ、唇は堅く結ばれていた。何度か下唇を噛み、何か決心したようにそっと口を開いた。
「私…死ぬの」
そう言われた時、時間が止まったようだった。
彼女の場違いなほど美しい声は、周りの闇を奪い、月の光を強調させる。
俺は彼女の言ったことの意味が分からず、聞き返した。
「死ぬって…なんで…」
そう言う自分の声がかなり震えていることに気づいてはっとした。
「私心臓が弱いの…子供の頃から。最近はだいぶ良かったはずなのに…この前また倒れちゃって…」
彼女の言うことは、俺には全然関係ないことのように聞き慣れないことだった。
心臓が弱い…つまり、病気なんだろう。
何だよそれ…聞いてないぞ…。
本当は受け入れたくなかっただけなのかもしれないが、この時の俺には理不尽なことに思えて仕方なかったのだ。
「お母さんも同じ病気だったの…。お母さんは手術をしたがらなくて、それで普通の日々を送りながら死んだわ…。手術しても、助かる確率は…5%よ」
何度も目を伏せながら、辛い事実を静かに語る桜田。
俺は桜田のことなんか、好きでも何でもない。
でも…今までに彼女が時折見せた寂しそうな表情が、胸を締め付けた。
「何でだよ…先生はこの前俺に、一週間で退院できるって言ってたんだぞ…。明日で一週間だろう…?」
なぜこんなにも胸が疼くのか。心が痛くてたまらないのか。
「…一週間で退院できたらいいのに…」
先生がわざとついた嘘。
彼女が、不治の病だったこと。
頭の中でぐるぐると渦を巻くように巡る言葉…。
一か月だけ、私と付き合わない?
彼女言った台詞の意味を、ようやく理解した。
「あと一か月も…生きられないって…」
扉を開く前に見た、彼女の涙。
「怖い」とはっきり言った。
普段はめちゃくちゃ頭が良くて容姿端麗で、他人なんて目じゃないって感じで。
彼女が持っていないものなど、ないと思っていた。誰もが彼女に憧れていた。だけど、彼女の心はきっと空っぽだったのだ。いつ途切れるか分からない命に怯えながら…。
「ごめんなさい…。私って迷惑だよね…。今まで私のわがままに付き合ってくれてありがとう。でも、もういいわ…」
彼女は哀しげにそう告げた。「もういい」と言って、俺との縁を切ろうとしている。
「…そんなのありかよ。あんだけお願いしたくせに。もういいなんて、そんなこと二度と言うな」
「え…?」
彼女は驚いて俺を見た。その表情は普段教室で見せている聡明な彼女の姿ではなく、ただのもろく弱い一人の女の子だった。
「…私と一緒にいたら、神崎が辛いだけだよ…。それに、部活も勉強もしないといけないのに…。私がいなかったら、あなたは学年でトップになれるんでしょう…?ずっと1位になりたかったんじゃないの…?」
儚い声色で、桜田は言葉を紡いでいた。
「バーカ。そんな理由でお前を見捨てるわけないだろ。それに、部活も勉強もちゃんとやるって。お前が学校に戻って来たって、お前を負かして1位になってやる」
俺は笑って彼女の頭をわしゃわしゃ撫でた。彼女はやはり驚きながらも、頬を染めてはにかんでいた。
「私に勝とうなんて、100年早いよ」
そう悪態をつく彼女を、初めて愛おしいと思った。
つづく