しぇしぇしぇ
そのアパートの歩くごとに悲鳴のような音をたてる階段を上った2階にあかりの部屋はあった。そして、その部屋の薄汚いドアの前に立ちカギをバッグの中からごそごそ探し出す彼女の一歩ほどそばにぼくはいて、不思議な気分でそれを眺めていた。
あった、と呟いたあかりはすぐさま取り出した鍵でドアを開けて少し中に入り、入り口付近でなお佇んでいるぼくに向かって、「はやく入りなよ」と言ってぼくの手首を掴んで部屋の中へ入れた。
「狭くて汚いとこだけど、まあゆっくりしてってよ」
どうやら、彼女が言った汚いは謙遜のようだが狭いは事実のようだ。
キッチンも含めて5畳か6畳ほどだろうか。床はもちろん畳敷きで全然手入れはされていないらしく縫い目がボロボロであり、その上はまあ比較的整理されている。家具は少なく、小型のタンスと鏡台程度しかない。しかし、この狭い部屋はその少ない家具にスペースの半分あまりを削られていて、実際移動することができるのは、寝ることがやっと出来る程度のものだった。
そして当然、テレビもラジオも電話もその部屋にはなかった。
しかし、代わりに大量にあったのが、
「すごい本・・・」
とぼくが思わず呟かなくてはならないほど大量に積まれた文庫本だった。隅にどどーんと積まれたそれらは一つの山のように部屋にそびえているみたいで、ダンボール一つ二つ程度じゃ到底収まりきらないであろう分量だ。
「ブックオフとか行ったらさ、こういう文庫本って一冊百円とかで売ってるからね、だから暇なときは小説買って読むの」
なにしろテレビもケータイもないからね、とあかりは笑いながら言った。
・・・どうやら、ぼくは勘違いをしていたようだ。
彼女はうそをついたのではなく、今時めずらしく本当に携帯電話を持っていなかったのだ。
なんだか肩透かしを食らった気分だが、少し嬉しいと感じている自分がいる。
「ああ、なるほどねぇ」
と、とりあえずつぶやく。
それにしても、テレビもケータイもない生活、すごいな。
それから、あかりの煎れてくれた味の薄い緑茶をすすりながら、ぼくたちは小説について語り合った。
ぼく自身、それなりに本は好きで、現代文の科目はちょっと得意だったりする。
話すにつれて、小説に関するぼくたちの趣味はかなり違うことが分かってきたが、一点アメリカ文学がともに好きだということが分かって盛り上がった。
フィツジェラルドとO・ヘンリー、あとスティーブン・キングが好きなのだと彼女は言った。
ぼくも同感。大いに同感。
わかるわかる〜!と叫んだ。
特に、フィツジェラルドの『華麗なるギャツビー』を読んだことは、ぼくにとって高一の夏の最大にして最高の出来事だった。部活の先輩から告白を受けたのは、悪いけどその次だ。
みたいなことを言ってみると、彼女は驚いていた。
「え、あんた告白なんかされたことあるの?」
まあね、と若干得意げなぼく。
返事を待たせている間に、別の男になびかれてしまったという悲劇的結末を除いてそのことについて語ってやると、彼女は「へぇ」と一見感慨深そうな、別の見方からすると、何も考えていなさそうな響きのつぶやきをもらし、ぼくの顔をぼんやり見ていた。
窓から見える空はいつしかだいぶ明るくなっていた。
あかりの「へぇ」からなんとなく沈黙が続き、なんだか手持ち無沙汰になったぼくはぬるくなった味の薄い茶を口に持っていきながら、ここで彼女の身の上について訊いてみるのはやっぱりまずいかな、などとふと考えた。
実際、あかりがこの狭いぼろアパートに一人暮らししてしかもフーゾクで働いていることからして、訊かずともなんとなくその経緯は想像に易いものだったが、やっぱり自分からそのことを切り出すわけにもいかない。・・・訊かないままでいよう、その話は触れないままでいよう。ぼくは店の中での昔話に専念しようとするあかりのどこか焦ったような姿を思い出してそう思った。きっとそれが一番いいんだ。
しかし、お茶を飲み干す間に固めたこの決意はあっけなく無駄なものになった。
「あたしね・・・」
と突然彼女が語り始めたのだ。ぼくは片膝を立てて座りながらぽつりぽつりとつむがれていくあかりの言葉を黙って聞いた。
「幼稚園だったころに、お父さんとお母さんを交通事故でなくしておばあちゃんにずっと育てられてきたんだよね。だから参観日も運動会の日もいつもおばあちゃんが来てくれていた。卒業式の日もおばあちゃんが来てくれて、あっ一緒に写真とってもらったの覚えてる?」
ぼくは首を縦に振った。あのときのどぎまぎした感じは今もなお忘れていない。
「それでね」あかりは畳の目をほじくりながら言葉をつづけた、「もともとお父さんたちが生きていたころから家は貧乏でね、事業で失敗した借金が山のように積もっていて、二人の保険金は全部その借金の返済に回して、それと住んでいた家も売ってようやく借金が返せたの」
なんだかすごい内容である。テキトーな相槌もうてないような空気なのでぼくはうなづくだけである。
「そのあと、おばあちゃんは小学校の校区にある古いアパートを借りて、そこで二人で一緒に暮らし始めたの。おばあちゃんの年金だけが命綱なんて貧乏な生活だったけど、ちゃんと小学校にもいけたから良かった。だけど、中学校に入って2年くらいたったある日、朝おばあちゃんを起こそうとしても全く起きないのよ。いくら叫んで揺さぶっても。それで、119番してお医者さんに来てもらったら老衰だって言って、あたしは一人になった」
ぼくはいつかラーメン屋で昔の友だちが言ったことを思い出していた。
(山口がアイツ全然学校来なくなったんだよ。なんか不登校っぽい)
「それから」
とつなげられたあかりの声で、頭の中で再生されていた記憶の中の友だちの声はかき消された。
「それから、年齢をごまかしていろいろ働いた、学校に行かずに。それで17になったくらいからあのお仕事を始めた」
「・・・国の補助とかは受けられなかったのか?」
「まあね。色々あってね」
「・・・そっか」
寝不足の重い頭であまりに重すぎる話を聞いてしまったぼくはすっかりしょげかえった気分になった。少しの沈黙の後あかりは、あー、と大きく背伸びをした。
「まあ、こんなとこ!あー言ったらすっきりした。これで話してるとき気まずくならないで済む」
見ると、あかりはすっかり元の笑顔に戻っていた。
その顔をみたとたんほっとしている自分がいて、単純なやつめ、と心の中で自分にののしった。
まあいいや、とりあえず・・・
「ん?お茶?おかわり?」
「おかわり」