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5、譲らない人たち



 目覚めて一番に感じたことは、ベッドの硬さであった。背骨を真っ直ぐにする効能でもあるのだろうか、というほど弾力がない。爪先から首まで覆っていた毛布も、洗いざらしでゴワゴワとしていた。

 それでも、男爵邸での監禁生活に比べれば、王宮暮らしに戻ったような贅沢であった。


「おはよ、姫様」


 寝ぼけ眼のぼやけた視界に、世にも美しい男の顔が飛び込んできた。宮廷の婦人方がそろって熱を上げそうな、美男子である。

 僅かに残っていた、ユーリィが女性だという希望は潔く捨てた方が良さそうであった。

 彼は男物の服に着替えていた。高く結い上げていた髪も、うなじでくくるだけの簡単な髪形になっている。


「……はい、おはようございます」


 ティーゼはまだはっきりとしない頭のまま、軽く頭を下げた。


「昨日の昼から丸一日眠ってたんだよ」


 ベッドは窓際にあったため、ティーゼの体は燦々と太陽を浴びていたが、これは意識を失う前に浴びていたものとは違うらしい。

 鬱蒼とした山の麓のアジトであるのに、どうして日光を浴びられているのだろうと疑問に思ったが、ユーリィの次の言葉で氷解した。彼はティーゼの足元に腰掛けて、ぺらぺらと話し出した。


「唯一日当たりのいい部屋を提供させていただきました。ジジからのせめてもの詫びだってさ。『ユーリィの馬鹿がとんだ無礼を働いてたな、ガキとはいえ仮にも女に悪かった』だってさ。それで俺は罰として姫様の看病を言いつけられたってわけ。皆して変態って罵るんだよ、しっつれいしちゃうよねえ?」

「はい、そうですね」


 ティーゼは身を起こした。「ガキとはいえ仮にも女」という言い方も随分失礼なものであったが、ティーゼはそれには頓着しなかったし、ユーリィにいたっては自分が背負うことになった不名誉について文句を言うのに忙しかった。

 起き抜けだからだろうか、急に目眩が襲ってきて、瞼の裏に白い光が走る。


「モルザックの野郎、普通の囚人にするみたいに――といってもかなり手加減してたけど――扱ってたもんね。王宮住まいのお姫様には辛かったでしょ。無表情だからわかんなかったけど、疲れてたんだね。自分では気付いてた?」

「……はい」


 自分の体の限界くらいは分かっている。膝の上に力なく置かれた手首は三か月前より一回り細くなっていた。

 実を言えば、監禁生活が二週間に達した時点で、ティーゼの体ははやくも根を上げはじめていた。ベッドから動かなかったのではない、動けなかったのである。

 けれどそれを言ったところで、どうにもならないことを、ティーゼは幼いながらに悟っていた。

 その事実に絶望しなかったのは、諦めることに慣れ切っていたからであろう。

 優しく答えてくれる声や、労わりの手や、人の温かみというものを、ティーゼは与えられてこなかった。

 王宮で暮らす人々は、まるで鋼鉄の糸で繋がれているかのように、一定の距離を保ったまま決して歩み寄ろうとはしなかった。

 それでも、今よりもっと幼い頃のティーゼは、近くで仕える女官たちと親しくなろうと努めていた。例えばこの紅茶は以前のものより好きだとか、今の家庭教師が厳しすぎるとか、留学した兄は元気だろうかとか……。聞けば女官たちは応えてくれたけれど、それは機械のように温度のない対応であった。そして、ティーゼが歩み寄ろうとする度に、必ず人形姫の噂に尾ひれが加わるのを、もう飽きるほど経験してきた。


(子どもらしくない、なんて言われたって、どうしようもないのに)


 そうやって過去に浸っていたティーゼであったが、ユーリィが少女の銀の髪をもてあそびはじめたので、嫌でも引き戻された。


「あのさあ、もう少ししたら昼飯なんだけど、その前に風呂入ってきなよ。沸かしておいたから」

「お風呂、ですか」

「あれ? 『はい』ってすぐに頷かないんだ」


 ユーリィが面白そうに目を瞬かせたので、ティーゼは気まずい思いを味わった。どうにも、ユーリィがまだメイドとして振る舞っていた頃の癖が抜けない。あのうらぶれた監禁生活の中で、溌剌としたメイドの存在は救いであった。知らず知らずのうちに、心を開きかけていたのである。


「こんなところで風呂って思うかもしれないけど、結構立派なもんだよ。遠慮せず入って。ていうか姫様、相当臭うよ」


 ティーゼは縮こまって、こくりと首を縦に振った。表情には出なくとも、人並みの羞恥心は持っているつもりである。衛生的に恵まれた環境で暮らしてきたので、恥ずかしさは余計に募った。


「食事の場には、綺麗な格好で入ってきてよね。着替えは風呂の外に置いておくから。王宮のドレスみたいに高級品じゃないけど、まあ我慢してよね」


 歯に衣着せぬ物言いでずけずけと言って、ユーリィはにこりと微笑んだ。その笑顔に、ちくりとした棘を感じた。男爵邸の地下室にいた頃には確かに向けられていたはずの親愛の情が、みじんも感じられなくなっている。気絶する前のあの破廉恥な行いだって、男爵邸の頃のユーリィならば決してやらなかったはずである。

 率直に尋ねた。


「ユーリィは、私が嫌いですか」


 男は寸の間瞠目したが、悪びれる様子もなく、滑らかに笑みを酷薄なものに切り替えた。がらりと雰囲気が変わっても、美しさには曇りは見られなかった。


「姫様は俺には結構話しかけてくるね。他の人の前だと人形姫そのものだけど、俺の前だと口数の少ない女の子みたいだ。もしかして、俺のこと結構好きだった? だったらごめんね」


 ユーリィとの間にあった分厚い氷の壁に、鼻の頭をぶつけたような感覚がした。

 ティーゼの心は突き放されたわけではなかった。最初から、ユーリィとティーゼの心の距離は、縮まってなどいなかったのである。ユーリィが歩み寄る演技をしていたから、ティーゼが勝手に錯覚しただけであって。


「俺自身はね、姫様のことそれほど嫌いじゃないよ。ちっちゃい女の子だし、とびきり可愛いしね。性格はあまり可愛げがないけど、男みたいにぎゃーぎゃーうるさいよりはマシかな」


 ユーリィはティーゼの銀の毛先をくるくると指に巻きつけた。軽く引っ張られ、頭皮に鋭い痛みが走った。

 ユーリィの海のように青い目が、凍てつき、ナイフのような鋭さを持ってティーゼを貫いた。


「でもね、アンタが王女さまで、ジジと関わっている限り、俺はアンタを嫌いだ」

「……理由を、お尋ねしても?」

「簡単な事さ。ジジがアンタを受け入れるだろうから。俺はアイツの右腕だから、アイツが余計な事に首を突っ込むのをなるべく阻止しなきゃならない。お節介でお人よしなアイツと、なるべく対立しなきゃならない。姫様は、これまで出会った中でも最悪の部類の厄介事だ。だから俺はアンタを歓迎しない。どう? 簡単だろ?」

「はい、ですが、ジジさんは私に失望されていました。受け入れて下さるというのは、考えすぎではないでしょうか」


 ユーリィの表情に、嘲るような色が混じった。


「ジジはアンタを受け入れるよ。付き合いの長い俺の予想の方が正しいって、分かるよね?」

「……はい」


 無意識下で、ティーゼの心が冷えていった。

 愚かなことを言ったものだと悔いた。


「ほら、早くしないと風呂のお湯がさめちまう。場所は家の裏手だから、さっさと入って来な。終わったらさっきの居間に来て」

「はい、お気遣いありがとうございます」

「気にしないで。さっきは俺も女の子相手に失礼なことしたし、もうやらないよ」


 ひらひらと手を振って、ユーリィは立ち上がって去っていった。





 ユーリィの言った通り、アジトの裏手には風呂専用の小屋が建てられていた。付属した脱衣所で、もたつきながらメイド服を脱ぎ、薄っぺらなタオル一枚を手に風呂場へ足を踏み入れる。

 熱い湯気が全身を包み込んだ。

 視界が晴れてようやく掴んだ風呂場の全貌は、驚くほどに立派なものであった。

 壁一面に磨かれた白いタイルが張り巡らされ、天井には美しい緑の森とそこで戯れる動物たちが、床には白鳥の泳ぐ湖がモザイクアートで描かれている。両側には銀製の蛇口が三つずつ並び、蛇口の上には鏡がはめ込まれていた。

 意匠を凝らした空間であった。王宮の贅を尽くしたものとは比べるべくもないが、こんな山中にあるとはとても思えないほどである。

 もしかして、ジジはかなりのお風呂好きなのだろうか。

 盗賊なのに、不思議な事である。アジトの中もいたって清潔にしてあった。

 何となく、王宮にいる姉たちのことが思い出された。聞いたところによると彼女たちの宮には金箔を貼って薔薇を浮かべた風呂があるらしい。


(姉上たちがここを見たら、質素なあばら家だと嫌がりそうだわ)


 着飾った二人の姉が顔を寄せ合って顔をしかめる様子が目に浮かんだ。

 といっても、姉二人とティーゼはあまり仲が良くなかった。彼女たちは毛色の違う妹を毛嫌いしているようであったので、ティーゼの方からは近寄らないようにしていた。年の離れた兄たちとも疎遠で、家族らしい交流はほとんどなかった。

 思い出らしい思い出なんてないに等しい、と思い、いやと思い直した。


 一度だけ、まるで普通の兄妹のように過ごした日があった。


 一番上の兄が鷹狩りに出掛けた際のことであった。鷹狩りに行った帰り、兄が仕留めた得物をそのままぶら下げて王宮の姉たちの前にやって来たものだから、その場はしばらく阿鼻叫喚の騒ぎとなった。やれ汚らわしい、やれ生臭い、と女官も姉たちも兄を遠巻きにした。偶々居合わせたティーゼは、こっそりと事態を見守っていた。

 憮然とした一番目の兄であったが、女たちがあまりに怖がるので申し訳なく思ったらしい、獲物を従者に預けて服を取り換えると、気を取り直して鷹狩りの武勇伝を披露しはじめた。これには姉も女官たちも興味津々で、知らず知らずのうちに兄を中心に輪を作って話に聞き入っていた。

 そのうち騒ぎを聞きつけた他の兄たちもやって来て話に加わった。王家の兄妹が集まって団らんするなど、はじめての事態であった。

 ティーゼも興味を引かれたが、気後れして話の輪に入れないでいると、二番目の兄が手招いた。


『ティーゼ』


 その名前に他の兄姉たちが顔を上げ、なんだ、早く来ればいいのに、という顔つきで見てきた。ティーゼは虚を突かれた。あからさまに邪険にされなかったのは、はじめてかもしれなかった。

 談笑は、一番目の兄がひとしきり満足するまでつづいた。兄妹も、女官も、従者も、皆ほがらかな笑みを浮かべて心底楽しそうに過ごした、たったの数時間。

 次の日には元の味気ない関係に戻ってしまったけれど、あの日の記憶は、ティーゼの心の宝箱に大切に仕舞いこまれている。


(王宮で誘拐された時のことを話したら、皆面白がってくれるかしら。そうしたら、またあの日のような時間を過ごせるかしら……)


 とりとめのないことを考えながら、ティーゼは体を洗った。黒かった肌が、みるみるうちに元の白さを取り戻していく。

 長い髪を丸洗いするのには、なかなかに苦戦させられた。王宮では三人ほどの女官がついて流れるような動作で全身を隈なく洗ってくれるので、髪の毛を洗うことがこんなにも困難だとは知らなかった。どうにかこうにか洗い終えて、後頭部で簡単に結わえた。

 王宮のように香油を垂らしたり薔薇を浮かべた風呂ではないが、ティーゼはひさびさの入浴を存分に楽しむことにした。

 湯船の中で膝を抱え、お湯をすくっては戻し、すくっては戻しながらぽつぽつとここまでの成り行きを思い返した。


 随分と、慌ただしい三か月であった。


 ジジたちはティーゼの万事肯定主義に何度も呆れていたけれど、それはティーゼも同じことである。顔には出さなかっただけで、ジジやユーリィの破天荒さには幾度心臓が止まりかけた知れない。モルザック男爵のもとでの生活も過酷で苦しかったけれど、あの頃の方がまだ事態を静観できていた。

 いろいろと予定外ではあったものの、自分を連れ出してくれたジジには感謝していた。たとえそれがジジ自身の事情によるものであったとしても。


(でも、私は彼を失望させてしまった。ユーリィにも嫌われた)


 お湯をぎゅっと掴み拳をつくった。水は留まることなく、手中を逃れていく。

 ユーリィのことは仕方ないと思う。王女という立場は、彼らのような自由人には重すぎるのであろう。

 けれど、ジジは。


(何が気に障ったのかは分かっている。分かっているけれど……)


 それを改善するためには、どうしたらいいのか分からないのだ。

 生まれてからずっと、ティーゼは肯定主義を頑なに貫き通してきた。すっかり板についた性格を咎められていると分かってはいても、直し方が分からない。

 そこまで考えて、はたと気づいた。お湯に映ったティーゼの水色の目が見開かれている。


(私は少しでも直したいと思ったのかしら。この性格を)


 世紀の大事件に思えた。

 出会って間もない、それも自分をさらった男に、どうしてここまで考えさせられるのか。

 顔を膝にうずめると、なだれ落ちた髪の一房が水面に浮いてぷかぷかと漂う様子が目に入った。


 ――理由は分からなかったが、ジジの側は安心する。


 あんなにも大胆不敵で、ふてぶてしくて、呆れるような行動ばかり繰り返す男なのに、ともすれば王宮よりも居心地がいいと感じる瞬間が確かに存在した。

 でも、ティーゼにはこの肯定的な性格を直すことなど不可能である。意地を張っているわけではなく、本能と理性の両方で悟っていた。

 だから、ジジも、ティーゼを受け入れてなどくれないはず。

 だから、ティーゼもいつも通りに諦めよう。

 ジジの側は確かに心が安らぐけれど、少女にも決して譲れないものがあった。




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