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10、いつか見た夢の終わり



「お父様」と呼んだことは、数えるほどにしかなかった。

 物心ついた頃には「陛下」と呼ばわるように刷り込まれていて、ティーゼはそれを当然のように受け入れていた。

 いつも背中ばかりを見ていた。

 とても大きくて、きらきらしている人。

 私のお父様、だけどこの国の王様。

 いつも笑ってるのに、こちらを振り向いてくれたことなんて一度もなくて、それが何だかつまらなかった。

 お父様という言葉だけが、ふわふわと宙に浮いたまま、ティーゼの周りを漂っていた。


 その日は国の創立記念の式典が開かれていたと思う。

 ティーゼはバルコニーの奥に隠れて、立派に挨拶する兄たちを眺めていた。バルコニーの手すりは高すぎて、ティーゼの身長では全身が隠れてしまうのである。

 空に昇った黄色い太陽が、ちかちかとティーゼの瞼を攻撃してきたので、無表情の下でちょっとムッとして、日光と戦ってみたりもしたけれど、すぐに白旗を上げた。

 勝者から目を背けるように俯くと、長く伸びた影に気付いた。根元まで辿って、それが父王のものであると知った。お父様は、影も大きいのね。

 何気なく思い立って、ティーゼは陛下の黒い影をこっそり踏んでみた。兄たちが一所懸命挨拶している後ろで、影ふみ遊びをするのは、悪戯をしているみたいで妙に心が浮き立った。

 陛下の影は大きくて、黒くて。ずらりと並んだ衛兵たちの影と変わりないはずなのに、しげしげと観察して小さな発見をしては喜んだ。

 ふと視線を感じてぎくりとした。

 どうしよう、大臣に見咎められてしまったのだろうか。

 怒られるのは嫌だな。姉上や兄上に呆れられてしまうから、良い子にしていないといけないのに。

 恐る恐る顔を上げた。

 びっくりした。

 ティーゼに影を踏まれている当人が、まじまじとこちらを見ていたから。

 四番目の兄上と同じ色の視線が、ティーゼに注がれている。

 何故だか分からないが、急激に恥ずかしくなった。

 慌てて影の上から退いて、暗がりに入った。金の房がついたえんじ色のカーテンをすがるように握りしめた。


 ――大事な式典の日に遊んでたなんて、きっと怒っていらっしゃるんだ。


 恥ずかしくて、情けなくて、俯けていた顔をさらに俯けた。両肩がきゅっとすぼまる。

 陛下の穏やかな視線がそらされたのを感じて、やっぱり呆れられたのだと悲しくなった。名残惜しげにカーテンの端から覗き見て、生じた違和感にティーゼは「あれ?」と小首を傾げた。

 影の形が変わっている。

 先程まで下がっていた陛下の左手が、わずかに上がっていた。不思議に思ってティーゼは陛下の影を眺めた。

 そのうちに気が付いた。

 最初はきっと気のせいだと思って、勘違いも甚だしいと思ったけれど、陛下の腕は上がったままでじっと動かないから、だから。


 ――手を、繋いでもいいのだろうか。


 ティーゼはそっと前方に歩み寄って、右手を上げた。

 小さいティーゼの影と、大きな陛下の影が一点で重なる。

 実際に手を繋いだわけでもないのに、そこからは温もりが伝わってくるようであった。

 躊躇って躊躇って、勇気を振り絞った末、


「お父様」


 蚊の鳴くような声で呼びかけたならば、陛下の左手の指が動いて、ティーゼの手を握りしめる仕草をした。影がそれを忠実に写し取ってティーゼの黒い分身の手を握ってくれる。

 小さな胸がきゅうっと音を立てて、それから、ティーゼの体の周囲をふわふわ浮いていた言葉がするすると入り込んできた。


 ――本当に、お父様なんだ。


 間抜けなことに、ティーゼはこの時実感したのであった。


(この国の王様だけど、私のお父様)


 その響きを気に入って何度も何度も繰り返して、その日の夜をまんじりともせずに過ごして、ティーゼは陛下が大好きになった。




*****




 ジジ一行はいったん王都を離れ、北にある小高い山の中腹に位置する宿屋で、一晩の宿をとることにした。

 王都の近くの宿が都から逃げ出した人々でひしめいていたのもあったが、ジジが警戒の色を色濃く見せたためでもあった。

 山の中腹にあるにしては立派な造りをした宿屋であったが、人里離れているせいかジジたち一行が押しかけても部屋は十分に足りていた。裏手には川が流れ、林の中に隠れるようにして建っていて、人目に付きたくない者たち御用達の宿であった。

 ティーゼはルチルダと同じ部屋を割り当てられたが、傷心の少女を気遣ってか、ルチルダはティーゼを一人にしてくれた。

 北向きの部屋にしつらえられた窓からは、眩しいばかりの夕日が差し込んでいる。まるで燃えているようであった。

 ルチルダの気遣いをありがたく思う余裕もなく、ティーゼの心は立ちすくんでいた。力なくベッドに腰かけている。

 たった一夜で、少女の心身を形作っていた根幹部分が、笑えるほどにあっけなく消滅してしまったのである。

 悲しみを生み出す器官まで劫火に持っていかれてしまったようであった。

 そろそろと胸に手を伸ばし、ぎゅっと掴んだ。昨日までは確かにここにあったはずのものがなくなって、真っ暗な空洞で何かが渦巻いている。


 ――こんな、途方もない感情は知らない。


 やり場のない思いなど抱えたこともなかったから、どうすればこの空虚で巨大な穴を埋められるのか分からなかった。そのまま穴の中に自分の全部が吸い込まれて呆然自失としてしまった方が、いっそ楽なのかもしれなかった。


(呼吸は、こんなにしづらいものだったかしら……)


 山だから空気が薄いのだろうか。

 だから喉が妙な音を立てるのだろうか。

 とぐろを巻いた気持ちがどんどん沈殿していく。それに引きずりこまれて、ティーゼ自身も深い海底に溺れていった。


 ――もう、きっと元の自分には戻れないのだ。


 戻る方法など知らない。ティーゼの大切な人たちは、譲れなかったものは、跡形もない。もう、どこを探しても見つからない。


 突如、部屋の扉が蹴破られた。

 何故かユーリィに羽交い絞めにされたジジが、それを振り切って部屋に突入してきたのである。

 部屋の外へ連れ戻そうとするユーリィを引きはがしてぶん投げ、ジジは乱暴に扉を閉めた。

 しんとした沈黙が落ちた。

 けだるげにそちらを振り返ったティーゼを見て、ジジは舌打ちした。

 頭からつま先まで麻痺したようにぼうっとしていたティーゼは、いきなり頭を掴まれ、強制的にこげ茶色の目と視線を合わせられた。


「まだ泣いてねえのか」

「はい……」

「泣け」


 短く的確な命令であった。普段のティーゼであったなら、従おうと努力したかもしれなかった。しかし、今はその気力もない。

 無言の拒否を受け取っても、ジジは態度を変えなかった、


「泣け。ガキはガキらしくしてればいい」


 それでもティーゼが微動だにしないでいると、ジジは強制手段に出た。

 ティーゼの両の瞼を無理やりに開いて、瞬きできないように仕向けたのである。


「泣け。無理やりでも俺に泣かされたからでも何でもいい。とにかく泣いておけ。ここで泣かなかったら、てめえは一生泣けなくなる。

 いいか、てめえにとって今日が人生のどん底だ。一番悲しい日だ。

 てめえは家族は死んじまったと思ってるんだろう? だったらこれ以上、希望的観測は言わねえよ。

 だけどこれだけは、いくらしつこいと言われようが繰り返すぞ。泣いておけ。人生で一番悲しいときに泣かずに、いつ泣くっていうんだ。一生泣かないでいるなんて、そんな不健全なことがあるか」


 ティーゼの眼球が乾き、ひりひりとした痛みを訴えはじめた。


「お前は家族が好きだっただろ?」


 ティーゼは頷いた。


「大事な人が死んで悲しくない人間なんていないんだ。思いっきり泣け。そんで、この次にまた辛いことがあったときに、今日よりはマシだって、そうやって乗り越えていくんだ。ここで泣かなかったら、きっとてめえはいつか潰れちまう」


 目が痛い。空気の粒に眼球の表面が傷つけられて、突き刺すように痛い。


「悲しいんだろう。泣きたいんだろう? なあ」


 ティーゼは、かろうじて頷いたつもりであった。

 いつの間にか、膝が濡れていた。

 膝の上に置いた手の甲の上に、生ぬるい水滴がぱたぱたと落ちた。

 これまでに発したことのない、低くて、獣の唸り声のような、みっともない声が歯の隙間から漏れていった。

 下手にも程がある泣き方であった。赤子の方がよほどうまく泣くに違いなかった。


 ――全部夢だったら良かった。


 ティーゼの夢の中だったら、家族は無事で、母も生きていて、王宮もすぐに元通りになって、改革派とも和解して、それですべてが落ち着いてからジジたちと出会って、ちょっとだけさらわれてみたりして、それからジジたちを王宮に誘って皆でお茶会を開いて――そんな奇跡みたいな筋書きも叶うと言うのに、夢は夢でしかなかった。

 それならいっそ、夢なんて見ることのない本物の人形になりたかった。

 ジジの大きな手のひらが瞼から離れて、離れたかと思うと戻ってきて、目尻に溜まった涙を拭っていった。

 優しい慰め方を、彼はした。


「あのな、もし、本当にお前がどこにも行くところが無くなったんだったら、俺たちと一緒に来い。お前はガキにしては度胸があるし、覚えも悪くねえ。俺も、アイツらも、お前を気に入ってるんだ」


 ティーゼは壊れたように首を縦に振り続けた。

 悲しくて、嬉しくて、悲しくて……それでもジジの裏のない言葉が何より胸に染み渡って、また新たな涙の種が発芽した。

 ジジが柔らかい手つきでティーゼの頭を撫でた。


「俺さ、てめえに謝んなきゃいけねえことがある。前に、てめえは親父の木偶人形だって言ったろ。てめえが言いつけを守ってるって言った時も、ただの言いなりじゃねえかとしか思わなかった。

 だけど違ったんだな。お前は、お前の意思で親父の言いつけを守っていたんだな。――好きだったんだろう? 親父が。親父が好きで、褒めてほしくて、役に立ちたくて、頑なに言いつけを守ってたんだろう」

「……っはい」


 そう、その通りだ。でも、陛下の言う通りにすればするほど母にも、兄姉たちにも嫌われてティーゼはどうすれば良いのか分からなかった。一所懸命言いつけを守っているはずなのに、全てが空回りしていった。

 嫌われるのは悲しかった。

 もっとお話ししたかった。一緒に居たかった。

 でもこれ以上嫌われるのは耐えられなくて、唇を固く噛み締めることしかできなかった。

 母が死んだときも、本当は悲しくて悲しくてたまらなかった。でも泣いたりしたらみっともないから、嫌われたくないから、じっと一人で耐えていた。

 報われなくったって、「いつか」を夢見ることが、ティーゼのちっぽけでかけがえのない幸せであった。

 冷たくてそっけない母も、強くて厳しい兄も、美しくて病弱な兄たちも、凡庸で穏やかな兄も、着飾るのが好きな華やかな姉たちも、ティーゼは大好きだった。いつもいつも、陛下の背中ばかりを見て、母の背中から流れる豪奢なドレスを見つめて、兄や姉たちを盗み見るばかりであったけれど、何より愛していた。


「ガキだな。てめえの親父が望んだのは、もっと違うことだぜ。だけど、ガキはガキなりに必死だったんだな。馬鹿みたいな言いつけを馬鹿みたいに一途に守って、でも、誰もそれを馬鹿にする権利はないよな。悪かったよ、お前は人形なんかじゃない。家族が好きなくせに自己主張が下手なだけの普通のガキだよ」


 ぼろぼろと一層泣きはじめたティーゼに目を細めて、ジジは立ち上がった。扉を開け放って、外で聞き耳を立てていたユーリィを引っ張り込む。


「おら、俺の仕事は終わった。あとはてめえが慰めておけ」

「はあ?! 何だそれ。仕事は最後までやり遂げろよ」


 ジジはユーリィに向き直って凄んだ。


「ユーリィ、まさかてめえ、まだこいつを気に入らねえって言うのか」

「そうじゃなくて……」


 ユーリィは困り果てたように頭を掻き毟り、「あー! もう」と叫んだ。


「分かったよ、あとは引き受けた」

「いいのか」


 片眉を上げたジジを、ユーリィは軽く睨んだ。


「俺はジジが厄介事に首を突っ込もうとするのには反対するけど、お前が一度抱え込むと決めたものは一緒に抱えるって決めてるんだ。知らなかったのかよ」

「いや、知ってた」

「てめえ……」


 眼光を鋭くした右腕の肩を叩いて、ジジは部屋を去っていった。

 置き去りにされたユーリィは、もう一度頭を掻き毟って、静かに涙するティーゼの足元に座り込んだ。少女の顔を覗き込んで、困った顔をしたあと、そっと手を伸ばして、泣き続ける少女の頭を抱き寄せた。

 ティーゼの喉からはひっきりなしに押しつぶしたような嗚咽が漏れていた。


「ほーら、姫様。思いっきり泣きな。傍にいるから」


 ユーリィはティーゼの丸まった背中をぽんぽんと叩き、あやした。


「………ユーリィは……」

「何?」

「……わ、私が、嫌いなのではないですか」

「うわあ、それを今持ち出すかあ?」


 参ったなと男は視線を泳がせた。


「意地悪言って悪かったよ。でも、ジジがさっき言ってたろ。俺たちと来いって。ジジが受け入れると決めたなら、俺はそれ以上何も言わない。一緒に引き受けるだけさ。それに、前も言ったじゃないか。俺は姫様のこと嫌いじゃないって」


 ティーゼの顔がくしゃくしゃになったのを見て、ユーリィは慌てて言い募った。


「ああ、そうだ! 俺はね、女の子には極力優しくするようにしてるんだ。俺が認めた女の子にはひとつだけ、どんな願い事も聞いてあげることにしてる。だから姫様もひとつだけなら何でも頼んでくれていいよ」


 ほら、と促されて、ティーゼは回らない頭で考えた。

 いくら考えても、ひとつの願い事しか浮かばなかった。


「………ないで」

「え?」

「死なないで、ユーリィ。私のこと嫌いなままでいいから、絶対死なないで……!」


 ユーリィは瞠目した。少女の背中を叩いていた手が、思わず止まる。ティーゼの声は震えていたが、見ているこちらまで苦しくなるほどに必死で痛切な面持ちであった。

 濡れそぼった真珠のような頬に自分の頬をすり寄せて、ユーリィは囁いた。


「いいよ、約束する。絶対に死なない。それからね、さっきも言ったけど、俺は姫様のこと嫌いじゃないよ」


 返事の代わりに、熱い涙が返ってきた。触れ合った頬からティーゼの涙がユーリィの頬に移って、二人一緒に泣いているように見えた。





 泣き疲れたティーゼが眠りについたのを見届けると、ユーリィは部屋を出た。宿の二階を歩いていると、階段を下りてきたジジとばったり会う。

 ジジを視界に認めたユーリィは、忽ちのうちにその胸倉を掴み上げた。


「おいこら。女子どもはてめえの担当じゃなかったのかよ、ジジ」

「俺に楯突く気か? ボス命令には大人しく従うもんだぜ」

「俺のボスは部下に面倒事を押し付けるような奴じゃないんでね。よってお前は俺に命令する権利はない」

「悪かったよ」


 素直な謝罪を受けたユーリィは、渋々胸倉から手を離した。


「俺があの子を慰めてた間に、とっくに今後の方針は決まったんだろうな。あの子を受け入れるのは分かったが、問題は山積みだぞ」

「ああ……今他の奴らと話してきた。王都の方はしばらく元には戻らねえだろう。この混乱に乗じて何かされると厄介だな」

「一度アジトに戻るか」


 副ボスとして、ユーリィは提案した。王都に連れてきたのは盗賊団員の三分の一である。ティーゼのことで何か行動を起こすにしても、残りの団員を放っておくわけにはいかなかった。

 ジジはすぐには頷かなかった。


「そうだな……アジトには戻らなきゃならねえが、もう少しほとぼりが冷めるまで待った方が良いだろう」

「そうか」


 ユーリィはあっさり承諾した。こういうことに関しては、彼は門外漢だと自覚していた。ジジの方が数倍鼻が利くし、頭も回る。

 思案に耽っていたジジは、それを一度中断した。


「とにかくは圧倒的に情報が足りねえ。昨晩の事件についてもっと探らせねえと……推測だけはいくらでもできるが、それじゃうかつに動くことも出来ねえからな」


 ジジの言葉に、ユーリィはにっと口角を上げた。胸元に手を突っ込んで、四角い紙片を目前の眉間に突き付けた。


「そー思って、優秀なユーリィくんはとっときの情報を手に入れといたよ」

「んなもんがあるなら、とっとと渡せ馬鹿野郎が」


 ジジは紙片を引ったくり、すばやく目を通した。


「あっ、ひっでーな。帰ってきたところを捕まえて無理やり引っ張っていったのはジジだろう。しかも傷ついてる女の子の部屋に乱入しようとするなんて……俺は必死に止めたのに」

「あのガキには荒療治が必要だと思っただけだ。俺が吐き出させて、優形(やさがた)のてめえが宥める。これ以上ねえ完璧な役割分担だ。てめえはあのガキを嫌厭してたみてえだが、アイツはてめえには心ひらいてたからな」


 ユーリィはふざけるのをやめて、苦笑とも困り顔ともつかない表情を見せた。幼い顔立ちが少し大人っぽさを帯びる。ティーゼが予想以上に懐いていたことは、彼にとっても計算外の出来事であった。


「確かにモルザックのとこじゃ優しくしたけど、そのあと結構きついこと言ったはずなんだけどねえ。なんでかな」

「そりゃ、それまでお前みたいに馬鹿丸出しで明るく話しかけてくるような奴なんていなかったんじゃねえの。立場が立場だし。しかもあんなひでえ環境下で優しくされたら、猿でもほだされるわ」

「あと五年経ったらベッドに誘おうかな」

「五年経つ前にてめえが女に刺されるのが先だと思うぜ」


 ジジはせせら笑った。普段のユーリィの節操のなさを見ていれば、もっともな言であった。


「それより、この情報は確かなものか」

「俺があやふやなもんジジに渡すわけないじゃん」

「いや、あまりにも時機が良すぎてな、きな臭く思えちまう。事が事だから慎重にならざるを得ねえ」

「ジジって生きづらい性格してるよね。いったん決めたら大胆だし、梃子でも動かないのに」

「てめえみたいな能天気は一人で十分だ」


 軽口を叩きながら、ジジはちらりと頭上を仰ぎ、燭台の蝋燭に紙片を放り込んだ。赤い炎が紙を黒々と飲み込んでいく。


「で、どうする。明日」

「行くさ。それが一番手っ取り早く情報を集められるからな」

「りょーかい。俺はジジについて行くとして、あの子を置いて行って大丈夫かな。今回は戦闘員ばかりじゃないし」

「一応、ここの宿は貸し切って、他の奴は入れないように言ってある。主人も滅多な事じゃ口は割らない。まあでも、そうだな、念には念を入れておくか……」


 ぶつぶつと計画を練るボスを横目に見て、ユーリィはひゅうっと口笛を吹いた。


「いやあ、まさに至れり尽くせり、お姫様扱いだね」


 ジジは答えず、ふと立ち止まって窓の方を向いた。

 空から降ってきた白っぽい何かが、ガラスに張り付いて透明に溶ける。滴り落ちてナメクジが這ったような筋を作った。

 降りだした雨は、瞬く間に叩きつけるような豪雨となった。

 裏手の川がみるみる表情を険しくして荒れはじめるのが見えたが、谷底に流れているため、よほどのことが無ければ洪水を起こす危険はなかった。

 ジジは雨の日が嫌いであった。

 家族を失ったのが、ちょうどこんな憂鬱な灰色の日であったから。

 山で遊んでいた途中、大ぶりの雨に驚いて、急いで家に帰ると、小さな居間で赤ら顔の大男たちが酒樽を片っ端からあけて大酒を浴びていた。


 ――父ちゃんは?


 無邪気にそう問いかけた幼いジジは、大男たちに連れられて行った村の広場で、山と積み上げられた死体を目にした。大男たちは笑いながら酒をかけ、火を放ち、人間の肉が焦げるにおいを肴に宴会を開いていた。

 ほんのわずかな間に、村は大男たちに占領されていた。

 暮らしていた場所ごと、ジジは全てを失って、天涯孤独の身となった。

 あの時のジジは泣けなかった。

 毎日毎日、夢と現実の荒野をさまよった。

 手足の痛みは峠を越してしびれるほどであったのに、ジジの涙は、発生源が根こそぎ奪われたかのように一粒もこぼれなかった。


 ――いっそ殺してくれ。


 泥にまみれて地べたに這いつくばりながらひび割れた声で叫んだ。

 そう叫んで、ふと、いくら叫んでも誰も答えてくれるわけがないと気付いた夜に、ジジは言葉をすっかり失った。息を吸って吐いても、かすかに喉奥が鳴るだけで、吠えることも出来ない獣以下になり下がった。


 ――あら、そんなにむっつりした顔して、怒ってるのかと思ってたら悲しんでいたのね。


 倒れて動けなくなり、死の接近に安堵するたびに、記憶の中の優しい誰かがジジを揺り起こした。


 ――ねえジジ、そんなに黙ってないで。もっとお話ししましょう。


 喋れなくなってから、ジジの名を呼ぶ者は誰もいなくなった。

 何度も自分の名前を忘れそうになって、その度に母と父の穏やかな声を思い出して、そうして自分の名前ばかりを繰り返すうちに、今度は失った大切な人たちの名前が手のひらからこぼれ落ちていった。ぽろぽろ、ぽろぽろと……。

 それが涙を流さぬ代償であったと後から知った。

 あれがジジの人生のどん底であった。


 ――雨の日ってのは、どうしてこんなに、灰色一色なんだろうな。


 雨雲の色を映した水滴の色は一様に濁っていて、ジジにあの日のことを思い出させる。

 口内で囁いた。


(泣いておけよガキ、そしたらいつか思い出として風化するさ)


 あの少女は、聞き分けよく頷いてきちんと涙を流すであろう。

 ジジは? と尋ねられたら、笑って誤魔化してやるしかないけれど。

 腹の奥には、腐敗しきって臭いも色もなくした幼き日の怨嗟の遺物がもくもくと雨雲を吐き出し、濁った雨粒を降らせていた。

 とくにこんな雨の夜には、ざあざあと胸がうるさい。


 

 急に黙り込んで動かなくなったジジの隣で、同じく口を瞑っていたユーリィは、出し抜けにひょいとジジの顔を覗き込んだ。


「どうした? むっつりしちゃって」


 それでもジジが窓の外から目を離さないことを知ると、片腕をジジの肩に回して首を締め上げる勢いで自分に振り向かせた。ジジの意識がようやくユーリィに向き直った。


「何しやがる」

「いやあ、俺とあの子が仲良くなって妬いちゃったのかと思ってさあ。だいじょーぶ、俺の一番は昔から断トツ独走未来永劫ジジだから!」

「気色悪いこと抜かしてねえでさっさと離せ」


 危うく死の神にお目にかかりそうになったジジは、大きくもがいてユーリィの怪力から抜け出した。

 ほっとしたのも束の間、今度は襲ってきた突然の浮遊感に目を点にした。


「もうジジったら我がままだなあ、自分もお姫様扱いされたいなら、そりゃもう喜んでいくらでも」


 陰鬱な気分がものの見事に吹っ飛んでいった。

 ユーリィが何を勘違いしたのかは知らない。

 しかし、だがしかし、正直ジジは一生知りたくなかった。

 何故自分が、ユーリィに軽々と横抱きされているか――などというおぞましい事態の真相などは全力で渓流に放り込んで海の藻屑にしてしまいたかった。

 ユーリィは悪気の欠片もない顔で、


「ヤントンやルチルダさんたちにも伝えておくよ。きっと皆喜びいさんで下にも置かぬお姫様扱い……」

「あー! ユーリィさん何してんすか?!」


 噂をすれば陰とは言ったもので、ヤントン少年が兎のように跳ねながら駆け寄ってきた。

 ジジの悪鬼のような強烈な眼光にはまるで気付かず、ボスを慕ってやまない少年はボスを抱いた副ボスの周りで飛び跳ねた。


「ずるい! ユーリィさんずるい!」

「はっはっはー見たか少年。これが副ボスの特権かつ実力というものだよ」

「副ボスってそんな特権があったんですか?! オイラもいつかボスを抱き上げられるようなでっけー男になります」

「いい心がけだけど、その前に俺の屍を越えていけよ」


 得意げにそう宣言したユーリィの頭に特大の拳骨が落ちた。

 襟首を引っ掴まれ、腹を下にして廊下に叩きつけられる。ぐえっと潰れた蛙のような声を上げたユーリィを踏みつけ、ジジは爽やかに微笑んだ。


「ヤントン、俺は少しコイツと内密の話があるから、遠慮してくれるか」

「はいボス!」


 ティーゼ並みの聞き分けの良さを発揮したヤントンは、頬を上気させながら上機嫌で自分の部屋へと戻っていった。

 得物を前にした肉食獣のように、ジジは目を爛々と光らせ舌なめずりした。


「さーて、ユーリィ。かわいい手下のためにも、ここでてめえを屍にしておかねえとなあ?」

「うへえ、勘弁してよ」


 ユーリィはうつ伏せになったまま、ちらりとジジを見上げた。その瞳が予想外に真摯な色を宿していたので、ジジは少し毒気を抜かれてしまった。


「あのさ、ジジ」

「あ?」

「ジジはさ、俺が知ってる人間の中で一番優しいよ」

「……何だ、藪から棒に」


 ユーリィは目を細めた。雨の日になるとジジが何を思い出すのか、彼には分かっていた。


「馬鹿みたいに優しすぎるんだよ。そんなに気い遣って生きなくたって大丈夫だし、もっと気楽でいた方が良いと思う」

「別にあのガキに気を遣ったわけじゃねえ。俺は俺のやりたいようにしてる」

「うん、知ってる。でも、ジジの言う『やりたいようにする』って言うのは、必ず他人にとって都合の良いものになるんだってことも知ってる。放っておくと、ジジは損してばっかだ」


 ユーリィもティーゼも、他の手下たちも、その恩恵にあやかっている。そんな優しいボスだから、自分たちは慕ってやまないのだけれど、それでも、ユーリィはずっと考えていたことがあった。昔、ジジに救われたその時から、固く心に誓っていたことがあった。


「俺は考えるのは苦手だから、戦うことでしかお前の力にはなれない。けど、いつかさ、お前の度肝を抜くようなすげえ奴を見つけ出して、お前がなーんにも考えずにぼけっとしてても生きていけるようにしてやるよ」


 ユーリィが本気であることを悟って、ジジは眉間にしわを寄せた。


「……それは、ただのヒモ男じゃねえのか?」

「そうとも言うね。いいじゃん、ジジを養えるなんて最高に幸せ者だよ」


 雨風の音がますます酷くなってきた。カタカタと窓枠が震えている。吹き込んできた隙間風が、二人の肌から体温を奪っていった。早く部屋に戻った方が良い。

 よっこらせと立ち上がろうとしたユーリィの体は、衝撃と共に再び廊下に叩きつけられた。

 あれ? と背中に冷や汗を流しながら、ユーリィは笑顔を心掛けてボスを見上げた。


「……ちょっとジジ。今俺ちょー良いこと言ったじゃん? ここはさあ、感動に浸りながら二人で肩組んで帰るとこだよね、ね?」


 ジジはにっこり笑って、拳を固めた。


「それとこれとは、話が別だ」


 今更ながらおふざけがすぎたことを悟り、青くなったユーリィであったが、それはまさしく今更の話であった




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