1、王宮の人形姫
魔法等のファンタジー要素はありませんが、舞台は架空の国です。
銃については初歩的な知識しかございません。ご容赦ください。
陛下が寝所においでになった。
月は中天を過ぎ、四角く切り取られた夜空から光を降り注いでいた。
柳の枝で編んだ編みかごの中で、おくるみに包まれた赤子が眠っていた。生後三日の姫であった。
――ようよう生まれたなあ。
陛下の目尻に小じわが刻まれた。姫はかすかに寝息を立てていらっしゃった。
――余の三番目の姫も、まこと愛くるしい。髪は銀色か? 母親に似て美しい。年頃になれば男共が狂ったように押しかけるのが目に浮かぶようだ……。なあ、姫よ。
さやかな月光の粒が姫の瞼をやわらかく刺激した。
陛下の呼びかけに答えるように、白い瞼がぱかりと開く。凍てついた冬の湖を思わせる水色の瞳が、尊き身である父親を恐れることなく見据えていた。
――ひとつ、知恵を授けよう。お前がこの世で最初に受ける知恵だ。よいか、姫。
――これからお前に与えられるありとあらゆる言葉の一切を、否定してはならぬ。いかなる言葉であろうと、それが裏に侮辱の意味を含んでいようと、お前は頷かなけらばならない。愛くるしい声で「はい」と言い、首を縦に振りなさい。思考などしなくて良い、ただひたすら聖母のようでありなさい。それがお前のため、父のためとなる。
まだ言葉を解さぬ姫は答えることもなかったが、陛下は満足なされたようであった。踵を返し、寝所を立ち去っていかれた。護衛も付けない夜の一人歩きであったようで、その晩の父子のひそやかな邂逅は、陛下の胸の内にしまいこまれてしまったのである。
姫は健やかにお育ちになった。
あの夜のことを記憶されていたはずはないのだが、お言いつけ通りどのような言葉にも色好い返事しかなさらなかった。鈴を転がしたような愛らしいお声で「はい」と健気に頷く様子に、臣下の心象も良い方に傾いていたと思われる。
ただ、姫の母君だけは、「薄気味悪い姫だこと……」と自分の子を嫌厭された。実の母親に「薄気味悪い」と面と向かって罵られても、姫は顔色ひとつ変えずに「はい」と首を縦に振られた。母君はそれきり口を閉ざし、宮に閉じこもってしまわれた。臣下たちは母親に嫌われた幼い姫君を哀れに思い、ある女官は「お可哀想に」と、年老いた侍従は「異国の踊り子風情が」と憎々しげに呟いた。
その母君が亡くなられた。姫が六つの時分である。
かつては寵姫と名高かったその人が、見るも無残なありさまで首をくくっていらした。本心はどうだか分らぬが、臣下たちはさめざめと嘆き袖を濡らして、陛下の下へと馳せ参じた。
――傾城の美姫として名を馳せた女だ。年老いる己の姿に耐えきれなかったのだろう。可哀想なことをしたが、余には姫が残されておる。
――まこと、姫さまはあの方の生き写しでございます。
陛下が形見である姫を殊更可愛がっておられるという噂が立つと、人々は今度はこぞって姫への拝謁を求めた。
――本当においたわしいことでございます。まだこのようにお小さいのに、母君をあのように亡くされて……。
――はい。ほんとうに、おかわいそうなことだと思っております。陛下もお気のどくに。
姫はいたって普通にご返事をなされた。少なくとも、姫自身はそのつもりであらせられた。
言葉を失くしたのは、それを聞いた臣下たちである。おそばに使えていた女官たちも、凍りついたように動きを止めた。
姫のご返事には何らおかしな点はない。王権の人間が取るべきご立派な態度とも言えた。
しかし、この時の姫はたったの六つであらせられる。
取り乱し、泣きわめき、錯乱されてもおかしくないと考えていた人々にとっては、姫の平静な態度はひどく奇妙で、いっそ恐ろしくさえあった。
彼らは揃って、何か言い知れぬ、おかしなものを感じ取った。
一同の耳元で、生前の彼の人の言葉が真実味を帯びて蘇った。
『薄気味の悪い姫だこと……』
その印象は月日が過ぎても消えることなく、より一層王宮の中に広まった。
結果、いつしか姫は「人形姫」と呼ばれるようになった。にこりともしない能面のようなご様子が、そう呼ばせたのかもしれなかった。ご尊称とも一種の皮肉とも受け取れる呼称を、姫はいつものように「はい」と受け止め、そのまま砂塵のように受け流してしまわれた。
周囲の評判をよそに、姫はすこぶる健やかにお育ちになった。
母君に生き写しという評価に偽りはなく、日を重ねるごとに、肌は真珠のように輝き、銀の髪は艶やかになり、美しさに拍車をかけた。姫の美貌が冴えれば冴えるほど、姫の評判が悪化するのは、何とも不思議な事であった。
姫の万事肯定主義は、貴賤を問わず老若男女の前で発揮なされた。
若い子爵のごますりにも「はい」。
商人のあからさまな押し売りにも「はい」。
城門前であわれそうにすすり泣く子連れ女の要求にも「はい」。
自分に仕える世話女たちにさえ「はい」、の繰り返し。
いい加減どちらが主なのか分からなくなると女官たちが嘆くほど、姫の態度は徹底しなさっていた。
そういうところからして、あの夜のことも、姫にとっては自明の行いであらせられたであろう。
姫の十三の誕生会から、間もなくのことであった。
深夜の穏やかならぬ侵入はすみやかに行われた。
王宮のほとんどが寝静まった中、音のない足音が着実に姫の寝室へと近づいていた。三日月は中天を過ぎ、王都の向こうの山にひっかかり、奇しくも姫が生まれて三日後の情景とそっくりであった。
――お初お目にかかります、ティーゼ姫さま。
慇懃無礼な声に眠りを妨げられた姫は、起きた瞬間ひやりとした悪寒に襲われた。視線を動かさずとも、首の皮一枚を隔てたところに、鋭い刃が待ち構えているとお分かりになった。後ろから羽交い絞めにされている状態であらせられたため、侵入者の顔を確かめることは叶わなかった。
――そうやってじっとしていていただけると、誠にありがたいですね。高貴な方に対し恐縮ですが。
侵入者の囁きが不快な吐息となってうなじを撫で上げた。しかし、姫は泰然としていらっしゃる。
――はい、大丈夫です、身じろぎなどいたしませんから。ご安心ください。
姫らしい気を遣った言葉に侵入者は棒を飲みかけたような顔つきになったが、すぐに立て直して、手元のナイフをぐっと握り込んだ。チリッとした痛みが姫の首筋に走る。
――声を出すな。
低く脅した。
――このまま俺たちと王都を抜ける。助けを呼ぼうなんて考えるなよ、アンタの首は俺たちにとっては紙のように軽いんだ。
切って捨てることなど造作もないと、誘拐犯の実に手前勝手な言い分であるが、悪人とはこういうものだと姫も心得ていらっしゃった。
虫の羽音すら拾えそうな、静かな夜である。
あまりに姫が無抵抗なので、誘拐犯も魔が差したらしい。熟練の手つきで縛り上げた女官を姫の代わりに仕立て上げ、姫に猿轡を噛ませ、両開きの窓を開けバルコニーに出たところで、胸元の姫の後頭部に喋りかけた。
――お手をどうぞ、姫君。
紳士的にお手をどうぞ、と誘われたところで、今の姫は両腕を縛り上げられきつく猿轡をかまされているため、手も口も出せない状態であらせられる。無力に打ちひしがれるしかない姫を嘲笑うための、侵入者の卑劣な手段であった。
さすがの姫もこれには応えたのか、だんまりになって俯いた。
と、思ったのは侵入者の全くの勘違いであり、姫は考えあぐねていらっしゃっただけであった。手も口も動かない、ならば――姫は淡々と結論をお出しになった。
侵入者がふざけて差し出した左手に(右手は姫の首にナイフを突きつけるために使われていた)、ぽんっと小さな顎をのせたのである。よくしつけられた犬が主人にするのとそっくり同じ仕草であった。さらに、そのままひとつ頷きさえしてみせられた。
誘いに乗るという、明らかな肯定の返事であった。
侵入者は今度こそ棒を飲んだようになった。
自分の武骨な手のひらにのった姫の顔を、あっけにとられて見つめていた。珍獣を見るような雰囲気であった。
――……随分と、協力的でいらっしゃる。ありがたいことだ。
全くありがたくなさそうな面持ちによる謝礼であったが、姫は殊勝にお受け取りになった。
侵入者は綱を伝って庭へと下り立った。難なく二重の鋸壁を越えて街に出ると、夜が明ける前に王都を脱出した。侵入者の小脇に抱えられた姫は、宣言通り身じろぎもせず従順な態度でいらした。生まれてこの方一度も王都の外にお出でになったことのなかった姫であるが、未知の外界に怯えるわけでもなく感動するわけでもなく、自分がこれから辿る道を静かに見据えていらした。遠ざかる王都を振り返ることはなさらなかった。
侵入者は一人ではなかったらしい。王都の正門を抜けたところで数人の仲間と合流した。しかしどう計算しても十人に満たない人数で堅牢な王宮を攻略するとは、恐れ入る実力である。
彼らは行商人の一団を装うと、休むことなく西へと進んだ。姫は麻布で簀巻きにされ荷物に紛れて運ばれた。食事はきちんと与えられていたものの、窮屈極まりない旅となった。はじめての長旅としては最低の部類であったが、文句のひとつも垂れない姫には、侵入者たちも呆れたように顔を見合すばかりであった。
四日後、一行は西の大領地ユークナに到着した。
追手がかかる様子はまだなかったが、侵入者たちは決して油断を怠らず、完璧な行商人の演技によって領主の館へと招待された。
どうやら、侵入者たちの裏にはさらなる黒幕がいたらしい。
それはどうやら、ユークナの領主、デイリッヒ伯爵のようであった。
館の客間でようやっと拘束を解かれた時には、姫は自分をさらった首謀者を特定するに至られていた。
デイリッヒ伯爵は偉ぶった態度でぞんざいに侵入者一行をねぎらうと、彼らをとっとと館から追い出した。十人弱の侵入者たちは、伯爵の手足として使われていただけのようである。
彼らの足音が遠ざかると、禿げ頭の伯爵は姫の対面に腰掛けた。
――さてさて、姫様。
でっぷりとした腹を膝の上に乗せて、デイリッヒ伯爵は丁寧に名乗り、あいさつした。
――遠いところをよくぞおいで下さいました。
一見物腰低くいたわっているように思えるが、姫が口を開かれる前からぺらぺらと喋りはじめたあたりに、王家を軽んじる思考が透けて見えた。姫をかどかわした侵入者も無礼であったが、この中年男の態度は一領主の態度としては大いに目に余るものがあった。
他の王族であれば激昂したであろう会話はじめも、あいにく姫の頭を沸騰させるには到底及ばなかった。
――はい、どうもお招きありがとう存じます。
優雅にソファーに腰掛けて、姫は色のない声でご返事をされた。
――ほう、ご評判通り立派な態度でございますな。
――はい、お褒めに預かり光栄です。
――長旅でさぞお疲れでしょう。
――はい、少し疲れました。
デイリッヒ伯爵の脂肪にまみれた口許が微かに引きつった。姫は一向に動じる様子をお見せにならない。彼は一計を案じ、別方向から攻めることにしてみた。
――姫様に、ぜひとも会っていただきたい者がいるのですよ。今後の御身のお世話も、その者に任せたいと思っております。
――はい、お会いしましょう。どうぞお連れになってください。
――ありがとう存じます。それではお言葉に甘えさせていただきましょう。
デイリッヒ伯爵は傍に控えていた老執事に何やら耳打ちした。執事は首肯し、部屋を出た。
間もなくして、客間に男がやって来た。顎の角ばった、鋭利な印象の偉丈夫である。黒縁の眼鏡をかけ理知的に見せているのだが、どこかこの場にそぐわない異質な雰囲気を持った男であった。
ここへ来て、姫の規則正しいまばたきの拍子がはじめて乱れた。かすかな動揺が走ったのを、領主が見逃すわけがない。いやらしさを押し隠した笑みを見せた。
――ご存知ですかな、この男を。
――ええ、はい……。モルザック男爵様と心得ております。
モルザック男爵は、武骨な会釈を見せた。
――ご記憶いただけて恐悦至極にございます。
――そなたの巨体はさしもの人形姫様にも印象深く写ったようだな。
太鼓腹を揺らしてデイリッヒ伯爵は笑った。声にまでたっぷり脂がのっていると見え、ぎとついた笑いであった。
――では姫様、我らが現在どのように呼ばれているかご存じで? 姫様のように洒落た呼称ではないのですが……。
――はい、改革派でいらっしゃると聞き及んでおります。
姫は淡々と答えたが、返答の内容は不穏な響きを孕んでいた。
現在、この国には二つの首都がある。
これだけでも尋常ならざる事態であるが、事はさらに深刻を極めた。
二つの首都にはそれぞれ中央政権が置かれている。
姫のいらした一の首都カラギスの王宮には国王陛下を筆頭に高位の貴族、豪商で構成された王権派が、二の首都オムエにはデイリッヒ伯爵を筆頭に中低位の貴族、農耕民を含めた低階層の平民で構成された改革派が陣取り、数年にわたり激しいにらみ合いを続けていた。
王権派は君主制の存続を、改革派は共和制を声高に叫び、国中が真っ二つに割れているのである。
権威と財力では勝る王権派であるが、改革派は支持者の数にものを言わせている。近頃では、あちこちで貴族邸襲撃事件が勃発し、王権派は苦戦を強いられていた。
そんな状況下での王家の姫の誘拐とくれば、赤子の手を捻るより簡単に答えが導き出せた。
九割九分の確立で当たっている答えであったが、姫は努めて無言に徹し、デイリッヒ伯爵のつづく言葉をお待ちになっていた。相手に隙を見せないよう気を張っているわけではなく、これが姫の自然体であらせられた。この姫、儚げな見かけには寄らず、毛の生えた心臓をお持ちなのである。
――姫様には今後、このモルザック男爵の邸宅で過ごしていただきたく存じます。王宮に比べれば粗末なところとは思いますが、ご不便のないようにと姫様専用の部屋をあつらえさせていただきました。
事実上の人質宣言であったが、姫は「はい、よろしくお願いいたします」と仰ってあっさりと受け入れてしまわれた。
姫の身柄は丁重に、そして厳重な警備のもと、モルザック男爵邸に運ばれた。
邸内に一歩踏み入った途端、モルザック男爵の態度はそれまでと一変した。胸元のクラバットを乱雑に引き抜き、黒縁眼鏡を鬱陶しげに放り出す。それをすかさず執事が受け取った。玄関扉の前で佇んでおられた姫を、くいっと顎を動かして招く。
――おい、こっちだ。さっさとついてこい。
領主館で感じた男爵の異質さは正しかったようである。デイリッヒ伯爵の前のため、精一杯貴族らしさを取り繕っていたのであろうが、それを取り払ってしまえば粗野で荒々しい部分が残るだけである。使用人に対する横柄な態度や、下品な大股歩き(一回の歩幅が姫の三倍はあった)、乱暴な言葉遣いから、男爵が生まれながらの貴族でないことは察せられた。
男爵は屋敷の一画の部屋に入ると、本棚から本を数冊抜き、手を突っ込んで隠れていた取っ手を三度回した。すると本棚が左に退き、後ろから隠し扉が現れた。扉を開けたところには、地下への階段が続いている。モルザック男爵は姫がついてきていることを確認すると、薄暗い地下階段をひたひたと下りて行った。
――ここが今日からお前の部屋だ。
そう言って放り込まれたのは、じめっとした地下室であった。当然ながら明り取りの窓さえなく、廊下の燭台に灯された炎が、扉の隙間から頼りなく光を送ってくるだけである。
室内には簡素なベッドと小さな机だけが置かれていた。床はむき出しの石畳ですっかり冷え切っていた。鉄格子のはまった地下牢でなかったことだけが、不幸中の幸いであろうか。壁に取り付けられた鉄枷を見る限り、牢と大して変わらないように思えた。
囚人の扱いには殊更慎重なモルザック男爵であるが、さすがに姫が自力で地下から抜け出すことは有り得ないと思っているらしい。姫のこれまでの犬のように従順な態度がそうさせたのかもしれない。とにかく、部屋に閉じ込めるだけで鉄枷をつけることはしなかった。
――どうだ、満足いただけたか? 貧乏貴族だからな、王宮には程遠いだろうが。
――はい、十分です。
男爵は盛大に舌打ちした。手を伸ばしたかと思うと、姫の顎を片手でつかみ上げる。ぐっと力を入れれば簡単にくだけそうであった。
――気色の悪い子どもだな。にこにこしていろとは言わんが、人質にされて恐ろしくないのか。
――はい。
――このモルザックも地に落ちたものだ。昔は名前を聞くだけで、赤子から大人まで震え上がったものだと言うのに。
――はい、存じております。住民を悩ませていた盗賊団を憲兵に突き出して、その功績をきっかけに貴族の養子になられたと。
モルザック男爵は顔を歪め、姫を突き飛ばした。振り向き様に唾を吐き捨て、地下室を去って行った。
床に尻もちをついた姫は、足音が消えるまで待った後、ようやくベッドに腰を下ろされた。
監禁生活の幕開けである。