夕顔の君
背中を押す祖父の手の温もり。
僕たち兄弟はその日、父母を失くした。
生きるワシラに
死ぬヤツら、生きているなら
踊りゃにゃ、損、損!
ほれ、お前も阿呆にならんか!
それ、それ、それ、それ!
冬空高く咲いた花火の下で、祖父はどんな顏をしていたのか?
僕は憶えていない。
阿呆の如く笑っていただろうか?
そして、自分はどんな顔をしていただろう?
僕は眠りに落ちる間際、
いつもあの時の事を考える。
彼女の涙を見た日から。
あれからもう一度、僕は彼女にあった。仕事帰りの初夏の夕方のことだった。夏の夕焼けは、青い空に長く伸びやかな橙の光がぼぅ、と滲んで混ざりこんでいた。
葬儀を終えたらしい人々の群れから、遠ざかるように歩く彼女の後ろ姿を見つけた。遠目ではあったが、なんとなく、彼女だとおもった。
後を追いかけ、呼び止めた僕を彼女は不思議そうに見つめた。ちょうど登り坂の半ばで、彼女は夕焼けを背負い、その影が方に伸びている。僕がなんと言おうか、迷っていると彼女は、傍らの屏に目を向けた。。つられて見ると、屏に蔓を這わせた緑の中に、一輪の白い花が咲いていた。
「黄昏草。夕顔。」
五つに分かれた花弁の輪郭をそっと指先で、なぞりながら彼女は、そういった。
夕顔…
源氏物語にそう呼ばれる女性が登場したはずだ。源氏の君と契ったばかりに、他の女性に嫉妬され、その生霊に憑かれて死んだ。儚く悲劇的な運命を辿ったのが、夕顔である。
それと…
「夕顔と言えば、実を干すとかんぴょうになるじゃなかったかな…。」
僕はそう言ってから、何故、よりによってそれを言うのかと、自分が恥ずかしくなった。花の話をしていて食べ物の話題にする。花より団子の見本みたいではないか…
「え、かんぴょう?かんぴょう巻きの?」
「えーと、鉄砲巻きとか言います。あ、これこれ。」
夕顔の蔓に覆われた屏の下の地面は、煉瓦で囲いをした花壇になっていた。その夕顔の根元にどっしりと丸いスイカ程の、緑色の実が出来ていた。
「これがかんぴょうになるの?」
「この実を削って干したのがかんぴょう。」
「ふ〜ん…」
彼女はそのそばにしゃがみ込んで、夕顔の実を指先で、とんとん、と突ついた。そういえば、名前も花の姿も朝顔に似ていて素適なのに、この大きな実が不格好でぶち壊しだ、と言う話もあったかな、と僕は彼女に言った。いや、違うだろう。僕は別にそんな話をするために、彼女を呼び止めたわけでは無いのだ。
「夕に咲き、朝には花閉じる。
夕闇のなかでひっそりと咲いているなんて、健気よね。」
「そう?僕は朝顔の方が好きだな。誰も見ていないのは寂しくない?」
「でも朝顔は萎んで閉じていく様子まで見られちゃうのよ? そんな所まで、見られるのはイヤよね。」
「まるで自分が花のようにいうんですね。」
彼女は柔らかな笑みを浮かべたまま、朗々と澄んだソプラノを響かせた。
「花の命は短くて苦しきことのみ
多かりき。」
「命短し、恋せよ乙女」
と、僕の口からそんな言葉がついてでた。
彼女はクスクス、笑いながらこちらを見る。
その様子は初めて見たときの、どこか陰をもった凛とした彼女ではなく、どこにでもいる普通の女性に見えた。
でも、彼女は涙を流せるのだ。
「どちらも女を花に例えてるでしょ。若さだけが女の価値みたい。」
「そうかな?」
「そうよ。もうこんな時間。行かなくちゃ」
さよなら、と踵を返した彼女に僕は慌てた。
聞かないと‥
焦った僕は普段なら絶対しなかったであろう行動にでた。
彼女の腕を掴んで引き留めたのだ。やってから、後悔が冷や汗の如く噴き出してきた。変質者扱いされても仕方ない行為だ。非紳士的行為で退場処分である。
「えぇ、と‥」
口ごもる僕を、嫌がる風もなく彼女の切れ長の瞳が見つめてきた。その静かな凪の海のような瞳を見つめ返した途端、言うべき言葉が零れだした。
「何故、涙が流せるのですか?」
それを聞いた彼女はにっこり笑って、
「だって私はナキ女だもの。」
まるで世界の真理を語るように、はっきりとそう言ったのだった。