居酒屋かわずの寝床
「アレは驚きましたねぇ。」
僕の対面に座った、高校の同級生である
鵜飼博嗣が麦酒のジョッキを手にそういった。鵜飼君は面長な顔で、ひょろりとした体躯と合間って、ヘチマに手足が生えてきたように見える。 博嗣という厳めしい武士のような名前からは、想像できない容姿である。名は体を表してはいない、生きた標本である。
アレとはもちろん、トナカイ先生の葬儀に現れて涙を流した彼女のことだ。あの涙が場に与えた影響は凄まじく、僕は最後までなんだか尻をくすぐられているような、落ち着きのなさを味わった。帰ろうか、と考えていたときに、鵜飼君から一杯やりませう、と誘われたのだ。
僕たちは葬儀場の裏手の山を上がった所にある居酒屋かわずの寝床にやって来た。畳敷きの店内は古民家を、店主自ら改築した木の温もりが落ち着いた風情を醸す。中年の夫婦が、店を切り盛りしていて自宅のようにくつろげる僕のお気に入りの居酒屋である。
何故、山にあるのにかわずの寝床なのかは、常連になった今も寡黙なオヤジさんから聞き出せない。福々しい愛想の良いおかみさんも、その件になるとひどく曖昧でのらりくらりとはぐらかされていた。何か隠された驚きの真実が、潜んでいるのかと僕はなんとはなしに妄想したりする。
とはいえ、素朴な料理が美味いし、看板を店の前に掲げているだけなので、店の存在自体知らない人が多いだろう。そのおかげで馬鹿騒ぎする客も少なく、騒々しい場が苦手な僕には有り難い居酒屋であった。
ただ葬儀場の裏手の山という立地なので、店前ではちょうど葬儀場の看板が目線と同じ高さになる。赤い電飾の三文字が、ひたすら自己主張をしていて、なんだか落ち着かない気分になることがある。知人はこれを見る度に、断固撤去するべきだと憤慨する。
本人曰く、店を思えばこそ言っているのだ、これは我らが安息の場に対する冒涜に他ならない、そうだ。僕からすると、その知人が私心からそう言っていることは明白なのだが。
「うひゃぁ、これはまた蛙の国のような有り様ですねぇ。」
鵜飼君が素っ頓狂な歓声を上げた。幾分、大袈裟に思われるかもしれないけれど、彼の言葉は間違っていない。店内の至るところに、蛙の置物や鳥獣戯画の蛙と兎の相撲の図の掛け軸、柱に組みついた手足の長い擬人化されたファンキーな姿の蛙などが、ところ狭しと棲息しているのが、かわずの寝床である。
ちなみに店の入り口には小槌に福袋を担ぎ、赤い頭巾で草鞋を履いた恰幅の良い陶製の蛙が、客を歓送迎してくれる。なんとも言えない愛嬌が滲み出している。いわゆる七福神の大黒天の格好である。僕はかわずのえべっさんと呼んでいる。商売繁盛の福の神に、僕はいつもかわずの寝床の安泰を祈っているのだった。
今日はどうやら、僕達の貸し切りのようだ。時折、子供連れが来ると、かわずのえべっさんの腹を撫で回したり、ぺしぺしと叩いたりするのだが、えべっさんがお怒りにならないかとハラハラしたりする。子供は怖いものしらずである。かわずのえべっさんが店に愛想を尽かさないように、そんなときは念入りに祈りを捧げる僕だった。ついでにお猪口に入れた酒とつまみを一品お供えするのが、習慣になっていた。そんな僕の様子に、おかみさんが苦笑するのだった。
「とりあえず乾杯しますか?」
「…そうだね。」
僕たちはジョッキを打ち合わせた。
我らが恩師に、と僕が言うと、
鵜飼君が、にかっと笑って、
悲しみなきように!
と応じた。悲しみなきように、か。それは葬儀の際に遺族に投げかけるられる、決まり文句である。なのに、今日はそんな慰めの言葉が、ひどく空々しく響いた。麦酒は変わらずほろ苦く、美味かった。
僕たちはしばらく、我らが恩師赤鼻のトナカイ先生や高校時代の愚行と栄光を、あれやこれやと話を弾ませて語り合った。そのうち注文した品々が、出来立てホヤホヤで運ばれてきた。
かわずの寝床の料理の中でも、特に美味いのが、揚げ出汁豆腐である。どっしりとしてきつね色の衣をまとった豆腐は、まさに横綱の如き貫禄を持ち、湯気の立つ香しい出汁の風呂に浸かっている。頭に乗っけた大根おろしとネギが、これまた憎い。油と出汁の染みた豆腐のまったりとした味わいを、さらに深める立役者が彼らだ。
「これはたまりませんねぇ。おかみさんは朗らかで楽しいし、料理も美味い。言うことなしに、三つ星ですよ。」
鵜飼君はあれこれと愛想良く、おかみさんやオヤジさんの料理を褒めちぎり、
いやぁ、君は美味い店を探すのだけは、昔から本当に上手いねぇ。嗅覚が鋭い。
そんな褒めているのか、貶しているのか、わからないことを言う。まるで僕が食い意地がはった犬のようじゃないか。まぁ、しかし美味いものに目がなく、学生時代は鵜飼君やあちらで出来た知人と食べ歩きをしていたのは事実ではあるが。
しかし、鵜飼君は相変わらず人と話すのが上手い。というより、相手の懐に潜り込むのが得意といった方が正しいか。非常に場の空気を読むのが、上手いのだ。僕はと言えば、人付き合いが苦手で、空気が読めない。不用意な言動で場を、ギクシャクさせたことは数知れない。そして、そんな自分を芯が強いのだと勘違いして、孤高を気取ろうとして、人恋しくなる。そんな学生時代であった。
鵜飼君は天性のフットワークの軽さと、話術で、無駄に生きることを目的としたような僕らに付き合いながら、他のグループにも出入りして、幅広い人脈を作り上げ、はては生徒会副会長に成り上がった。それが僕たちの目も当てられない愚行に繋がったときも、彼は上手くやり過ごした。まぁ、それはまた別の話である。そんな彼が羨ましくもあり、無性に腹が立つようでもあり、複雑な気持ちで彼と接していた。
今も縦横無尽に、言葉と身振りを交えておかみさんを笑わせ、ときには大袈裟に相槌を打ち、寡黙とは何かを体現しているオヤジさんから、多少なりとも言葉を引き出す様は、ある種見ていて清々しくさえある。
「鵜飼君は、こっちに戻って来ないのか?」
「俺ですか?そうですねぇ…」
「親父さんの病院をいずれは継ぐんだろ?」
鵜飼君の職業は医師である。実家は我が故郷の中でも、信頼の厚い鵜飼小児科院だ。
「うーん、実はあまり考えていないんですよねぇ。弟たちも医師になりますから、敢えて俺が跡を継ぐ必要があるのかどうか。それに父の跡を継げるほどの実力は、まだまだ。小児科は難しいですからねぇ。」
「クマ先生は、なんて言っているんだ?」
以外に謙虚な鵜飼君に、僕は尋ねる。
しかし、鵜飼君の二人の弟はまだ高校生のはずだが、医学部への入学は鵜飼君の中では確定しているようだ。医学部というのは、そんなに低いハードルだったか。まさか裏口から失礼します、とはいかないだろう。ならば鵜飼家の遺伝子が優良だと誇示しているのか?そう考えると、やはり謙虚とは言えない。
某先輩の言葉を借りるなら、鼻持ちならないヘチマタワシめ、である。
いや、話がそれてしまった。ちなみにクマ先生とは鵜飼君の父親で、我が町の小児医療の土台を築き上げた豪放磊落を絵に描いたような人物だ。ひょろりとした鵜飼君とは対照的に、まさに熊のような逞しい体格で、がはは、と見た目通りの笑い方をする。僕も幼い頃には、何度も世話になった。ゴツい顔つきの割に、剽軽な性格で、子どもに好かれていた。誰が呼んだかクマ先生という愛称で、親しまれている。
「父ですか。あの人は万事、やりたいようにやれ、ですからねぇ。自分が築き上げた物を、無理に子どもに継がせようとは思っていないんですよ。」
「そうかい?」
「そうですよ。誰か、他人であれそこにいる人がやればいいと思っているんですよ。僕もそう思います。僕にゃー荷が重い。」
「でもクマ先生も君が、跡を継ぐなら喜んでくれるんじゃないか。親なら…」
僕の一般論を遮り、鵜飼君は麦酒のおかわりを頼んだ。そして、卓上の端にちょこんと座っている陶器のアマガエルの背中を指先で撫でながら言った。
「僕にはね、子どもの患者は診れないですよねぇ。」
「…なんでさ。鵜飼君なら、誰が相手でも上手くやれるんじゃないか?それとも仕事、上手くいってないのかい。」
「はははは、まさか。僕は医局の期待のお星様ですよん。星の王子さまです。」
「そんな気色悪い王子さまは願い下げだ。」
僕はそう吐き捨てて、唐揚げを頬張った。アツアツの肉汁がじゅあっ、と口の中に広がる。口福とはこんな感じだと思う。
「とにかく、鵜飼君は空気を読むのが抜群に上手いじゃないか。」
「それです!」
「ふえ?くぁらはげはい?」
僕は唐揚げを頬張ったまま、唐揚げの皿を差し出した。
「違いますよ、だから空気を読むってやつですよ。君は相変わらず、やれやれですねぇ。おや、これは地鶏ですねぇ」
いや、きっちり食べてるじゃないか。しかも二つも。しかし空気を読むのが上手いのが、何か問題なのだろうか?僕からすれば、ぜひ欲しい技能なのだけれど。
「僕にはですね、自分というものがないんですよねぇ。あっちにホイホイ、こっちにホイホイ、上手く要領良く立ち回るだけなんです。空っぽだから、誰とでも上手くやれるんじゃないかと思うわけですよ。」
鵜飼君は長い溜息をついて、静かに語り出した。