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帰り道だけ、少し長く

作者: 星渡リン

 駅の改札を出たところで、息が白くなった。

 冬の夜は、呼吸のかたちまで見せてくる。見せなくていいものまで、ちゃんと見えるようにしてしまう。


 ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面を見なくても、誰からかはわかる。恋人の名前は、振動だけでわかるくらい、生活の中心に根を張っていた。


 ――今日はどうだった?


 きっと、そんな文だ。

 私は画面を上に向けないまま、改札横の壁に肩を預けた。帰りたい。帰りたいのに、帰るのが怖い。家に着いた瞬間、今日が確定してしまう気がする。私は今日を、まだ確定させたくない。


 会社を出る直前、上司に呼び止められた。会議室の蛍光灯は冷たく、机の角は硬くて、そこに置かれた資料は、私の努力の形だったはずなのに、ただの欠点の一覧表みたいに見えた。


「これ、君が責任者だよね?」


 責任。

 その言葉が、最近やけに重い。


 言い訳を探しているうちに、口が乾いた。言い訳を探している時点で負けだと自分で思う。負けだと思うから余計に声が小さくなる。小さくなるからさらに追い込まれる。堂々巡りの時間だけが、勝手に増えていく。


 帰りの電車の中、窓に映る自分の顔は、他人みたいだった。目の下が暗くて、口角が落ちている。誰かに「大丈夫?」と聞かれたら、たぶん壊れる顔をしていた。


 だから、駅に着いたのに、家へ向かえない。

 私は、恋人の「おかえり」に耐えられる気がしなかった。


 耐える、という言い方が変なのはわかっている。

 恋人は責めない。怒鳴らない。私の失敗を笑わない。むしろ、何かあったら先に気づいて、湯を沸かして、毛布を掛けてくれるような人だ。


 それでも私は怖いのだ。

 優しさの前で、弱い自分がむき出しになるのが。


 改札を離れ、駅前の人波の端を歩く。いつもの道へ向かう足を、途中で曲げた。ほんの少しだけ、遠回りする方へ。


 ――帰り道だけ、少し長く。


 心の中で言ってみる。すると、それは逃げの言葉よりも、ずっとやわらかい。今日を引きずったまま帰る代わりに、今日を少し薄める時間を作る。溶かす、というほど強くなくていい。薄める、くらいでいい。


 商店街のシャッターはほとんど閉まっていた。閉店の匂いがする。揚げ物の油と、畳まれた暖簾の布と、どこかの店から漏れるストーブの灯油の匂い。街灯の光が、路面の小さな段差を長く影にする。


 コンビニの前で止まって、私はホットの缶を買った。いつもは買わない。いつもは、早く家に帰って恋人の淹れてくれるお茶を飲む。今日は、そういう「いつも」に頼りたくなかった。頼って崩れたくなかった。


 自販機のホットの列から、いちばん地味な缶を選ぶ。地味なものは、裏切らない気がする。

 取り出した缶は思ったより熱くて、掌にじんと来た。熱いのに、気持ちいい。熱さは、痛みの正体がわかるから。


 私は缶を握ったまま、川沿いの道へ出た。

 この道は、いつもの帰り道より少し遠い。街の音が薄くなり、川の水音が大きくなる。水は冷たいはずなのに、流れているせいか、どこか生きている音がする。


 歩きながら、私は何度も恋人の顔を思い出した。

 玄関で「おかえり」と笑う顔。

 キッチンで袖を捲る指。

 ソファの端に丸くなる背中。


 思い出すたび、胸が痛い。

 痛いのは、会いたいからだ。

 会いたいのに、会うのが怖い。

 怖いのに、会いたい。


 缶の口を開け、一口飲んだ。甘い。苦い。熱い。

 たった一口で、喉の奥がほどけた。私が今日ずっと、喉を締めていたことに気づく。締めていたのは、怒られないためでも、失敗しないためでもなく、泣かないためだったのかもしれない。


 川沿いの道の途中で、私は小さなものが落ちているのを見つけた。

 手袋だ。片方だけ。子どものものか、大人のものか迷うくらい、小さくて柔らかい。指先に反射材のテープがついている。


 私は立ち止まり、周りを見回した。

 少し先に、犬の散歩をしている人がいる。ベビーカーを押している人はいない。走っている子どももいない。手袋の持ち主は、もうここにはいない。


 拾って、どうする。

 拾っても、届ける場所がない。

 交番は遠いし、今夜の私は、余計なことを抱える余裕がない。


 そう思ったのに、身体は勝手にしゃがみこんでいた。

 手袋を拾い、軽く振る。湿っていない。落としたばかりかもしれない。私は手袋を持ったまま、少し歩いた。次の街灯の根元に、小さな柵がある。そこに、手袋をそっと掛けた。風で飛ばないように、指の部分を絡める。


 誰かが戻ってきたとき、見つけやすいように。

 それだけ。


 それだけの行為が、なぜだか胸の奥を温めた。

 今日の私は、何もできなかったわけじゃない。

 そう言ってもらえる気がした。自分に。


 私はまた歩き出した。

 川の向こうの住宅街は、窓の灯りが点々と続いている。家族の灯り。独りの灯り。誰かが食器を洗う灯り。誰かがテレビを見る灯り。誰かが眠る灯り。


 その灯りの中に、私の家もある。

 恋人が待っている灯りがある。


 私はスマートフォンを取り出した。

 ポケットの中で何度か震えていたらしい。画面には、恋人からの短いメッセージが二つ並んでいる。


『おつかれさま。帰り道寒い?』

『スープあるよ。無理しないでね』


 喉の奥がまた、熱くなった。

 こういう優しさに、私は何度も救われている。救われているのに、同時に怖い。これに見合う自分でいられる気がしない夜がある。


 私は返信欄を開き、長い文章を書きかけた。

 今日の会議のこと。上司の言葉。悔しさ。情けなさ。将来の不安。自分が自分を嫌いになりそうな感じ。


 書いては消し、書いては消し、最後に残ったのは、短い文だった。


『帰り道、少し遠回りして帰る。ちょっとだけ時間ちょうだい』


 送信ボタンを押す指が、少し震えた。

 「時間ちょうだい」という言葉は、逃げにも聞こえる。甘えにも聞こえる。でも、今の私にはそれが必要だった。必要なものを必要だと言えることが、たぶん、小さな勇気なのだ。


 送信すると、既読がすぐについた。

 恋人は、すぐに返してきた。


『うん。あったかいの用意して待ってる。気をつけてね』


 それだけだった。

 詮索も、説教も、焦らせる言葉もない。

 私はスマートフォンを胸に当て、息を吐いた。


 遠回りは、許された。

 私の今日の重さは、ちゃんと置き場所をもらえた。


 缶をもう一口飲む。底が見え始めた。

 底が見えると、終わりが来る。終わりが来ると、次が来る。次が来るのが怖いのに、今日は少しだけ大丈夫な気がした。手袋を街灯に掛けたこと。恋人に時間をもらったこと。缶の熱さ。川の音。


 全部が、今夜の私の支えになる。


 踏切が鳴った。

 カン、カン、という音が、遠回りのリズムに混ざる。

 遮断機が降り、私は立ち止まった。電車が通り過ぎる間だけ、時間が止まったみたいになる。こういう一瞬が、好きだ。世界が勝手に進む速度に、こちらの呼吸が追いつける。


 通り過ぎた電車の窓に、明かりが流れていった。

 その明かりの中にも、今日の誰かがいる。うまくいった人も、うまくいかなかった人も。帰る人も、帰れない人も。


 遮断機が上がり、私はまた歩き出す。

 もう遠回りの終わりが近い。見慣れた角が見える。見慣れた自販機。見慣れた公園のブランコ。見慣れたマンションの外灯。


 胸が少しだけ、ぎゅっとなる。

 帰りたくなかったのではない。帰ることに、今日の私が追いついていなかっただけだ。


 マンションのエントランスに入ると、暖気が頬に触れた。冷えた手が、ようやく自分のものに戻る。エレベーターの鏡に、私が映る。まだ疲れた顔をしている。でも、駅の窓に映った顔より少しだけ、ましだ。


 部屋の前に着き、鍵を回す。

 カチャリ、と小さな音。

 ドアを開けると、あたたかい匂いがした。スープの匂い。玉ねぎと、胡椒と、出汁の匂い。そこに、恋人の生活の匂いが混ざっている。


「おかえり」


 恋人はキッチンから顔を出した。エプロンの紐が背中で結ばれている。髪が少しだけ乱れている。目が笑っている。


「……ただいま」


 声が震えそうで、私は靴を脱ぐ動作に集中した。恋人は何も言わず、私のコートを受け取り、ハンガーに掛けてくれる。いつものことなのに、今日はやけにありがたい。


「遠回り、どうだった?」


 恋人は、問い詰めるのではなく、湯気みたいに聞いた。

 私は少しだけ考えて、答えた。


「……帰れた」


 恋人は「うん」とうなずき、鍋の火を弱めた。


「じゃあ、まずあったかいの飲も。話すのは、そのあとでいいよ」


 私はその言葉に、肩の力が抜けた。

 話さなければいけない。説明しなければいけない。ちゃんとしなければいけない。今日一日、私が抱えていた“しなければ”が、こたつ布団みたいにふわりと降りてくる。


 恋人がスープを器に注ぎ、私の前に置いた。

 湯気が上がる。

 私はスプーンを持ち、一口すくって口に入れた。


 あたたかい。

 それだけで、胸の奥がほどけた。


 私の今日の問題は、まだ解決していない。

 明日も、会議がある。資料も作らなければならない。将来の不安も、突然消えたりしない。


 それでも、帰り道だけ少し長くした分だけ、私は私に戻れた。

 戻ってきた私を、恋人は何も言わず受け取ってくれる。


 私はもう一口、スープを飲んだ。

 湯気の向こうで、恋人が小さく笑う。


「手、あったまってきた?」


「……うん」


「よかった」


 その「よかった」に、私はようやく、今日の自分を置ける気がした。

 遠回りは、逃げじゃなかった。

 帰るための道だった。


 スープの器を両手で包みながら、私は心の中で、もう一度だけ言った。


 帰り道だけ、少し長く。

 それでいい夜もある。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

しんどい夜ほど、帰る場所があるのに帰れない、という矛盾が起きます。帰りたいのに、帰った瞬間に「今日の自分」を見られるのが怖い。優しさに触れたとたん、我慢がほどけてしまいそうで怖い。だから、駅前で立ち尽くす――その感覚を、この短編の出発点にしました。


この物語の“遠回り”は、現実からの逃避ではなく、呼吸を取り戻すための手順です。温かい缶の熱、川の音、落とし物を街灯に掛ける小さな行為、そして「時間ちょうだい」と言える一言。大きな決断ではなく、最小単位の勇気が、帰宅を可能にする。そんな夜があってもいい、と書きたかった。


もしあなたにも、帰り道だけ少し長くしたい日があるなら、それは弱さではなく整える知恵かもしれません。遠回りの先に、ちゃんと戻れる場所があることを、そっと思い出せますように。

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