第一章
晴天。九年にもわたる義務教育からの卒業。式を終えた私 木島 宏 は、友人たちと記念に写真を撮っていた。突然、トントンと肩を叩かれた。振り向けば、買いたてのスマートフォンを構えて立つ君がいて、何事かと考える間もなく、シャッター音が響いた。卒業式。別々の高校に行ってバラバラになるのだから、最後くらい一緒に写真を撮ればよかったじゃないか。私だけ写った写真を撮り、君 風見 香帆 は走っていく。
「おい、ちょっと待って。」
立ち止まることなく君は行く。何かを振り切るように。これが約十二年前、私と香帆、私たちの最後の瞬間であった。終わりは、その瞬間が終わりだと自覚できる前に訪れる。まさしくこのときがそれであった。
あんなにぶっとんだ女、今までの二十七年間の人生を振り返っても、あいつ以外にいないし、これから先も、あんなやつは絶対に出てこない。
約十五年前、時は平成真っ只中。待ちに待った中学生活が始まり、浮かれ気分であった私にとって、それは出鼻をくじかれるような出来事であった。入学後、一日か二日経ち、最初の給食の時間。四人一組で席をくっつけて食べる。私の正面二人は面識のない人たち。そのうち左斜め前に座っていたのが香帆であった。ほんの少し心細さはあったが、私の隣は小学生時代からの同級生で、同じ部活に入部予定の友人がいたため、談笑していた。入学してすぐであったこともあり、変なテンションであった私は、たしかににやついていたのだろう。香帆にとっては初対面であれ、それがよほど不快であったようだ。
「にやにやすんなよ。気持ち悪い。」
香帆が私に対して発した最初の言葉だ。初対面の相手にこれを言える度胸を私は持ち得ていない。私はただ友人と話していただけなのに。何も害を与えたつもりはないのに。笑顔が人を不快にすることがあるなんて知らなかった。大きな驚きとともに、社会の厳しさを知った気がした。これが私と香帆、私たちの最初の瞬間であった。もちろん、その後の空気が地獄であったことは言うまでもない。
私のいた小学校は人数が少なく、中学では違う小学校から来る生徒が多いことが分かっていた。しかし、何の不安もなく、大抵の人間とは友達になれるという根拠のない自信があった。厳しめな親の教育のもと、小学生の頃は、先生の言うことを守る、真面目な優等生という立ち位置にいたこともあってか、誰とでも仲良くする、優しくすることが普通という考えを刷り込まれてきた。そうすれば誰とでも上手くいくものだと。その教えは入学後、わずか一日二日でこの女にただの綺麗事だと理解させられた。
中学一年生。私はバスケットボール部に、香帆は美術部に入部した。同じクラスになった私たちは名前の順が 『か』ざみ と 『き』じま で並んでいることもあり、席が近かった。給食の班や移動教室の席も近く、最初は事あるごとに対立し、口喧嘩ばかりの日々であった。もちろん私から手を出すことはなかったが、香帆からは時々蹴りが飛んでくることもあった。しかし、喧嘩するほど仲がいいという言葉は思いのほか真実で、授業中はノートの端に落書きや他愛もないやり取りをするようになった。先生にばれないようにひそひそ声で世間話をしては、結局先生に見つかり、注意されていた。三者面談ではこれでもかと言うほど注意された。しかし、中学一年当時、成績はお互い上位でいたこともあり、授業を聞かずに話し合った時間を後悔も反省もしていなかった。休み時間は好きなアニメや漫画、そして、中学生とは思えない下ネタを話しては馬鹿笑いをしていた。二人とも、社会に対してどこか斜に構えていて、そんなところも二人の距離を近づけたのかもしれない。そして、私を惹きつけたのは何よりも彼女の考え、思考、センスである。何気なく発した言葉の節々から、香帆のセンスの良さを感じざるを得なかった。その絶妙なセンスはどこか色気さえ感じさせた。この世で唯一無二の存在。このときから私は香帆に恋をしていたのかもしれない。
いつしか私は香帆に絶対的な信頼を置いていた。そして、きっと、香帆も同じように信頼してくれていると私は思えた。周りからの
「お前ら、付き合ってるだろ。」
との冷やかしは日常茶飯事であったが、そんなものはどうでも良かった。二人で馬鹿をやって笑っていられる時間がこの上なく心地よかった。この時間がいつまでも続くと、私は信じていた。信じて疑わなかった。彼女といる時間だけが、私が私である理由であり、私を照らす希望であった。
私のいた中学では、給食の時間に音楽が流れていた。特によく流れていた曲がRADWIMPSの「me me she」という曲である。私はこの曲が気に入った。特に繊細な歌詞が私の心に響いた。私は休み時間、掃除の時間などに鼻歌でこの曲を歌っていたが、香帆に見つかるたびに、
「お前にはまだ早い。」
と言われた。お前も同い年だろうと思いながら聞き流していたが、大人になってようやく、その言葉の意味が分かるようになった気がする。良くも悪くもだが、今の自分を造ってくれたのは君 香帆 のおかげでした。この場で感謝を言いたい。ありがとう。
私が入ったバスケットボール部は、当時、三年生がおらず、二年生八人だけであった。そこに、私を含めた十三人の一年生が入部し、二十一人の集団となった。このバスケットボール部、なんとも陽キャ軍団で、とにかく面白いやつが絶対のような暗黙のルールがあり、ここで生き延びなければいけないと思った私は、何を思ったか、とにかくふざけまくった。すぐにやばいやつとして名を馳せた。小学生の頃にあった真面目な優等生というレッテルは完全になくなってしまった。ただ、思いのほか生きやすかった。枠にはまって生きることが辛かったのだと思う。漫画家を志していたこともあり、『面白い』には敏感で、常に、何をすれば笑わせえることができるかを考えることは苦ではなかった。その後、女性タレントのローラさんの物真似や、一発ギャグをやっては沈黙を作り出すということを繰り返し経験したため、とりあえず前に飛び出す勇気、メンタルはここで鍛えられた気がする。その度胸を認めてもらってか、中学三年間、部内でも学年内でも『何か企んでいるやばいやつ』という独自の立ち位置を築き、交友関係は広い方であったと思う。孤立することなく、友人にも恵まれ、楽しく過ごせた。ここで出会った友人の一人 航大 とは、バスケットボール部の二人組で行う練習のペアであり、クラスこそ一緒にはなったことはなかったが、漫画論も語り合える良い仲間である。しかし、私の未熟さ故に、中学三年次には、情緒不安定な時期もあった。その時期を知っている数少ない友人である。相当迷惑をかけた。だが、中学卒業後も、度々連絡を取り、社会人になった今でも、数か月に一度であるが、顔を合わせる仲である。後述する、私の部活動の活躍からの転落や、学業の成績の急降下も間近で見ていた、良き理解者の一人である。私が漫画のプロットを作成する度に見てもらい、意見をもらっていた。こんな私に香帆以外にも理解者がいた。彼も比較的、社会に対して斜に構えているところがあったように思える。だからこそ、良い友人でいられるのかもしれない。ただ彼みたいな人はごく一部で、多くの人間は、私の漫画道を半笑いでの応援をしてくれた。
「俺が漫画家になったら、お前は俺のアシスタントな。」
中学一年の秋、私が香帆に放った言葉である。香帆には会って早々に漫画家になりたいという夢を語っていた。自分に酔っていた部分は大いにあるのかもしれない。中学生で大きな夢を持ってそれを語る自分は周りの人よりも特別と思いたかったのかもしれない。とにかく漫画家になりたかった。会社員として社会の歯車になる生活が想像できなかった。小学生時代、私は毎年絵画で何かしらの賞を取っていたため、絵を描くことには自信があった。また、物語を作ることも好きで、プロットを作成しては香帆に読ませ、助言をもらっていた。今思えば、痛い中学生である。しかし、当時の私にとっては、それも香帆との大事なコミュニケーションでもあった。また、香帆も絵が上手かった。そして、誰よりも自分を理解してくれ、誰よりも自分の語る夢にまっすぐに向きあってくれた香帆に、ずっと側に居てほしかった。そのかたちとしての漫画家とアシスタントという提案である。実際は、ただ香帆に側に居てほしいという思いが大きかっただけかもしれない。ただ、実際になれると思い込んでいた。漫画家になった私の側になら、香帆はずっと居てくれるのではないかと考えていた。本心はきっと違うのに。どんなかたちであれ、側に居てほしかった。それだけ。今になって分かる。この言葉は自分にとって呪いにしかならないことを。しかし、当時の私はそんなことも露知らず、素直に側に居てほしいと言えないまま、漫画家になるという雲を掴むようなことを宣言したのだ。なぜか、このときもなぜか漫画家になれるという根拠のない自信があった。
バスケットボール部の活動がある中、絵の練習と、授業の予習・復習をし、プロット作成も欠かさなかった。部活でも学年の中では一軍におり、成績も上位を保ち、中学生としてはエリート人生まっしぐらであった。香帆との関係も喧嘩はなくなり、ただただ楽しい二人の時間が流れた。そんな中学一年の冬、掃除の時間に、二年生になるにあたってのクラス替えの話をした。また同じクラスが良いねなんて話しているとき、香帆が急に真剣な顔で、
「宏は何があっても、宏のままでいてね。」
と言った。香帆のらしくない言葉に戸惑った。
「変われっこないさ。」
と簡単な返事で済ませた。私が私であることを求めてくれる人がいる。これがどれほど幸せなことか、当時の私には分からなかった。ただの会話の一部でしかなかった。しかし、この言葉はこの上なく奥深い愛の言葉であることを、年を重ねて知ることとなる。そして、この言葉もまた、自分にとって呪いとなることを、このときはまだ知らなかった。
あまりにもうるさかったせいか、中学二年で、香帆と私は別々のクラスとなった。自分ではクラスが別になっただけで何も変わらないと思っていたが、体は、心は、その変化を受け入れることができていなかったようだ。部活動のバスケットボールでは燃え尽きたかのようにやる気を失い、元は学年では一軍であった立ち位置は次第に落ちていき、応援席という居場所で落ち着いた。学業も成績を落とし、学年の中央値あたりで落ち着いた。この事実は自分でも受け入れがたいものであった。クラスが違うだけでこれほどまでの喪失感、絶望を感じるとは思いもしなかったのだ。しかし、クラスが違うだけである。時々香帆のクラスに行っては、ちょっかいを出したり、馬鹿話をしたりして、二人は笑っていた。バスケットボール部という陽キャ盛りだくさんみたいな部活にいたこともあり、楽しいことは尽きなかったため、部活動として練習しているときはひどく憂鬱であったが、それ以外は思いのほか楽しめていた。成績の低迷を知った親にはひどく怒られたが、こればっかりは自分が悪く、反論できるような要素はなかったため、黙って頷くしかなかった。しかし、成績問題については、勉強量が減ったことだと原因が明確であったため、勉強をするようになり、ある程度持ち直した。また、この時期に学習塾に入れさせられたことも大きな影響があったであろうと思う。親には感謝である。そんなこんなで、中学二年目は終わりを迎えた。
中学三年でも香帆と私は違うクラスであった。ありがたいことにここでもクラスに受け入れられ、ある程度心地のよい環境で過ごせた。ごく一部からは私の奔放さや痛さに嫌悪感を抱く人もいたようだが、受け入れてくれる人が多いおかげで、悩みは多くはなかった。言い方は悪いかもしれないが、部活動が六月の大会で負けたことで終わり、悩みは減った。出来の悪いというのは周りからしても迷惑かもしれないが、本人が一番くらいに悩んでいる。応援席からではあったが、最後の大会を終え、気づけば私の目には涙が浮かんでいた。この涙は果たして悔しさからの涙か、苦痛からの解放を祝う涙か。それはさておき、このときの悩みといえば、高校受験が迫ってくることや、香帆とまた違うクラスであることくらいだ。進路については、香帆と中学一年のときに話していた。同じくらいの偏差値、そして自由を好む性質、近辺でそんな高校は一か所しかない。当時、お互いに志望校は一緒であった。そのときから、私はその高校に行くことしか考えていなかった。香帆がいるなら、どんな環境でも、また、馬鹿笑いできる日々が続くと思っていた。そのため、受験勉強には思いのほかしっかり取り組んだ。理科と社会は成績の伸びが悪かったが、国語、数学、英語はそこそこできたので、一応合格できるだろうという位置にはいた。理科と社会が得意でないのは、自分が勉強する意味を見出せなかったことが大きいと思う。科学者になるわけでもなければ、経済学者になるわけでもない。いらないと思ってしまった。それなら、得意を伸ばそうと。これは、大人になった今、非常に後悔している。得意を伸ばそうという意識は大事だが、不得意をカバーできるまでに伸ばせないなら、不得意なことにもある程度取り組んだ方がいい。こうやって社会人になった今、ゆとり教育の産物と言わんばかりの世間知らずの怪物となってしまった。反省である。少なくとも社会については知らないと社会人をやっていられないと思い、今更ながら、中学で学ぶ社会科目について要約された本を読んでいる。また、このときは、漫画のプロットにも、絵の練習にも手を付けておらず、ロックンロールかっこいい、バンドかっこいいという衝動からギターを買ってもらい、練習していた。ギターは数日で置物になったことは言うまでもないだろう。中学三年の夏、面白い出会いがあった。小学生時代、私は父親の影響で剣道をしていた。中学では剣道部がなかったため、小学校卒業とともに剣道からは離れたが、なんと通っていた塾でその頃の友人と再会した。数年ぶりの再会であったが、剣道を続けていたらしく、体格が良くなっていたのが印象的であった。そんな彼から紹介されたのが、彼の同じ中学の同級生 冬音 である。彼女との出会いもまた、私にとっては衝撃的であった。連絡先を教えてもらい、なんとなく話していただけだが、この女、面白い。面白いといっても私にとって面白いだけかもしれないが。兎にも角にも下ネタで馬鹿みたいに盛り上がれたのだ。私にとって、香帆以外に下ネタで盛り上がれる異性なんていなかった。私の同級生の女子は、清楚を気取っていた。下ネタで引くタイプの人しかいなかった。おそらく今では大体の同級生だった女子がビッチだと思っているが。私が当時話していた下ネタの比にならないくらいのことを裏でやっているのではないかと勝手に思い込んでいる。そんなこんなで、冬音とは中三の夏の間、下ネタを主に話していたが、話すことも尽き、秋頃にはメッセージのやり取りは終わっていた。塾で頭を下げる程度であった。しかし、こんなに面白い女、そういない。香帆の次に面白い女であった。時は流れ、中学三年秋の修学旅行になった。だが、正直、修学旅行の記憶はあまりない。修学旅行を経て、より一層、受験勉強への集中を強要される。私はどうしても音楽を聴くことが止められない。当時、Acid Black Cherryの音楽をただひたすらに聴き、その合間に勉強をするというスタイルであった。そんな勉強方法を変えることができないまま、時間が経ち、高校受験が始まった。決起集会のようなものだろうか。それとも説明会であっただろうか。記憶は確かではないが、受験を控えた三年生が一室に集められ、志望校ごとに分かれて座り、先生の話を聞いていた記憶がある。しかし、このとき、香帆の姿がどこにもなかった。元々、休みがちな香帆のことだから、面倒くさくていなかったのだろうと思った。そして、いよいよ高校受験当日。言うほど勉強をしてきた気がせず、受験としては不完全燃焼感があったが、ひとまず受験を終えた。思いのほか緊張せずに終わった。受験が終わり、解放感にあふれた私は、このときから一人カラオケというものを覚える。最初はとても勇気がいることであった。近くのカラオケ店まで自転車で一時間ほどかけて漕いでいき、一時間歌っては帰る。表現方法を漫画から歌に変えようという考えである。漫画家になると大切な人に宣言しておきながら、勝手に歌うたいを志す。どこまでも浅く、自分勝手で、夢見がちな男。しかし、それが私だ。当時、ボーカロイドや歌い手が流行っており、何を思ったかパソコンとマイクを購入した。ここで、歌い手を目指す生活が始まるが、これも数週間で挫折する。高校受験終了後、数日して絵文字だけのLINEが送られてきた。誰かと思えば香帆であった。知人から私の連絡先を聞いたのだろう。香帆らしい一言目だ。しかも真夜中に送ってきやがった。今までできなかった他愛もない話をしていた。二人の会話のテンポは軽快で、心地がよかった。数日してメッセージは終わったが、香帆との会話は、いつも心が通じ合えている気がして好きだ。そして数日後、またこれも何かしらの説明会だったかと思うが、志望校ごとに分かれて座り、先生の話を聞く機会があった。このとき、私が行く高校の列に香帆の姿はなかった。香帆とは別々の高校に通うこととなったことをこのとき知る。
結局、中学三年間で一作も漫画は描くことができなかった。卒業を迎えた。そして、二人は別々の高校へ進む。高校進学に伴い、香帆とは完全に離れ離れになった。あのとき繋ぎとめておくことができたら、こんな現在を迎えることはなかったのかもしれない。ただ「側に居てほしい」と。その言葉さえ言えていれば、どんな結末であれ、こんな現在は免れたのかもしれない。後悔してももう遅い。大切な人に『大切』って伝えることができなかった。それもまた私にとって呪いとなってしまった。




