第2章 9
「みて。マメ」
昼休みの外階段で、凌空が手のひらを見せつけてきた。どこか誇らしげだ。
「これシャーペンのせいやと思わん?勉強しすぎのサインやで」
悠希は失笑した。都合の良すぎる解釈だ。
そんなことを言えば、自分は既にマメだらけだろうと右手を開いてみる。生憎、見事に平坦な手のひらだった。
隣から凌空が覗き込む。
「生命線ながいなあ」
感心した様子だ。悠希は手をグーに握って、凌空の視線から遮った。
「コンプレックスなんよ」
「え、なんで」
「だって」
目を逸らして呟いた。
「長生きしたっていい事ないじゃん」
「まあな。年金だって貰えるかわからんもんな」
凌空は肩をすくめた。
それからお箸を傍らに置くと、二人で手の大きさを比べ合った。身長の比率と同じくらい、凌空の指のほうが長かった。
ふと、凌空が指をずらす。ぎゅっ、と、悠希の手を握った。恋人繋ぎだ。
一瞬、きゅっと、心臓が掴まれた錯覚を覚えた。
突き出た骨のゴツゴツが男っぽかった。色白で軟弱な悠希の手とは対照的だ。この線の細さは母親譲りだった。
「凌空はお父さん似かな」
繋がれた手を見つめながら、独り言のように呟いた。すると凌空は首を捻った。
「じいちゃんばあちゃんには似てなかった。でも顔は母親似やって」
「じゃあ美人さんだったんだ、お母さん」
「幸薄の、男運のない、短命の、な」
そう笑った凌空は、ふと思い至ったように、繋いだ手をぐっと引き寄せた。悠希は思わず戸惑いの声を上げた。
凌空はそのままシャツの袖を肘まで捲り上げた。剥き出しになった腕をいろんな角度から眺める。続けて、右腕にも同じことを繰り返した。
「ど、どうしたん」
「ん。また痣増えてへんかなって」
悠希の肩の力が抜けた。残念ながら、それは杞憂だった。
その辺りの制御は上手い人間だったのだ。どれだけ酔っていても、外から見える場所には滅多に痕跡を遺さない。
「お客さん来てる時はすごく機嫌よく振る舞ってるし」
先日の憂鬱が蘇って、悠希はぼやいた。
「その反動で、あとから捌け口にされたりするんだけどさ」
「また殴られたん?」
凌空は機敏に反応した。
「ううん、でも危なかった」
経緯を軽く説明すると、不愉快そうに顔を顰めた。
「気短いなぁ。それでも父親か?」
悠希は諦めの苦笑をこぼした。そう、外面だけはとてもいい父親なのだ。
参観日や懇談会では人柄が別人のようだったし、周囲は揃って「教育熱心な、とってもいいお父さん」だという印象を抱いていた。
『羨ましいわあ、素敵な旦那さんで。奥さんも幸せでしょう。だからそんなにいつまでも若々しいのよねぇ』
ご近所さんに言われた母が、引き攣った笑顔を見せていたことも度々だった。
そんなだから、仮に酒乱や暴力の実態を打ち明けようとも、誰も信じてはくれなさそうだった。
凌空は嫌悪感を隠そうとしなかった。
「見えへんとこに痣つけるのが上手いとか、いっちゃんタチ悪いやん」
悠希を見つめて、憚らずに言った。
「お父さんのやってること、虐待やで」
虐待。
ストレートな表現が、ちくりと悠希の胸を刺した。目を背けてきた現実を突きつけられた時の痛みだった。
けれども同時に、どこか救われたようでもあった。
「理不尽に暴力振るわれるだけなら、こっちだって遠慮なく反抗できるけどさ。何かと理由つけてくるやろ?」
悠希の瞳を真っ直ぐに覗き込んで尋ねる。
「成績とか、態度が悪いとか。あとは気分で優しくしてくるやろ」
「うん」
悠希はこくりと頷いた。その通りだった。
「だからはるも、自分が悪いのかな、とか思っちゃうねん。そうやって罪悪感植え付けられてんの」
「うん」
「抵抗しづらくなる。そうやってコントロールされる」
「うん」
悠希は繰り返し頷いた。アーモンド型の澄んだ瞳に、凛とした眼差しに、自分にはないその強さに、魅せられたように見つめ返した。
握った手の力を強めて、凌空は諭すように言った。
「虐待やで。はるは悪くないねんからな。勘違いしたらあかんよ」
「うん」
悠希は目を瞬いた。不意に目頭が熱を帯びた気がして、急いで顔を背けた。
それに気づいてくれたのは、凌空が初めてだった。