第2章 8
いつも通り夜遅く、塾から帰宅した。
見知らぬ革靴が目に留まった。リビングから響いてきた男性の笑い声で、来客中だと察した。
先ほどまでの空腹感が嘘のように萎んでいった。夕飯は後にしよう。とはいえ黙って二階へ上がるのは御法度だ。あとから雷を落とされる末路が目に見えている。
悠希は小さくため息をついて、重たい足取りでリビングへ向かった。
「おう、おかえり」
父は上機嫌だった。既に酒が回っているようで、正面に座ったスーツ姿の中年の男性と、揃いの赤ら顔である。二人とも制御の効かなくなった声量で、尽きない話題に盛り上がっていた。
母はキッチンとテーブルを忙しなく行き来して、酒やつまみの世話を焼いていた。よそゆきの作り笑顔を張り付けている。
挨拶した悠希に、男性はにこにこと笑いかけた。禿げ上がった額に脂汗が光っている。
「悠希くんは偉いなあ、倅なんかずっとゲームだで。爪の垢を煎じて飲ませたいよ」
グラスを煽りながら、父は首を振った。
「いやいや、まだまだ安全圏には程遠い。なぁ悠希」
「いい跡継ぎに恵まれてるじゃんか。うらやましい限りだ」
「こいつには継がせんよ。二代目で潰されちゃあ堪らん」
相槌を求められ、悠希は引き攣った笑みを返した。二人の注目が逸れた隙に、そそくさと自室へ上がる。
しばらく経つと、大人たちの談笑が廊下に出てくる気配がした。
玄関で長い挨拶が交わされている。ようやく扉が閉まった。
家の中は静かになった。途端、一変して不機嫌な声が響いてきた。
「無愛想だなぁ、あの野郎」
悠希の心臓は跳ね上がった。シャーペンを動かす手が止まった。
階段を昇る足音が、だんだん大きくなる。こちらへ近づいてくる。
「生意気な奴にゃ、体でわからせるしかねえんだ」
「そうかもしれないけど」
母が慌てた様子で宥める。
「お風呂沸かした所だから。とりあえず先に入ったら?」
気配を押し殺していると、毒づく父の声は、次第に階下へ遠ざかっていった。
悠希は長いため息をついた。鼓動はまだドクドクと胸壁を打ち鳴らしていた。
数分後、スマートフォンには母からのメッセージが届いていた。
『もう大人なんだから、もうちょっと愛想よく出来ないの?』
心を鈍器で殴られたような痛みが生じた。続けて二通目が届く。
『あんまり刺激するような態度とらないでね。お母さんも疲れるんだから』
悠希はため息を繰り返した。ペンを放り出し、くしゃくしゃと乱暴に頭を掻いて天井を仰いだ。
挨拶もそこそこに部屋を出たのが気に食わなかったのだろう。満足のいくまで悠希を貶す前に、自分の前から立ち去ってしまったから。
もう少しあの酒臭い空間で我慢していれば、父に合わせて笑っていれば、
「……馬鹿みたい」
心の呟きが声になって漏れた。
馬鹿みたいだ。こんなに怯えて。
この家では、魂の抜けた人形みたいに振る舞わなければいけないんだろうか。何を言われても笑顔を返さないといけないんだろうか。だったら自分よりももっと賢いロボットでも買えばいいじゃないか。そいつの代わりに死ぬからさ。
荒んだ心の内で独りごちた。到底、面と向かって言えもしないことは分かっていた。
居場所のない家、息がしづらい部屋、心底嫌気がさす自分の臆病さ。もう何年も前から続いている環境。そのはずなのに、一向に馴染まないどころか、年を重ねるごとに虚無感は強まっていくばかりだ。
脇腹がきりりと疼く。空っぽの胃が場違いな泣き声をあげる。
ノートの上に突っ伏した。
逃げ出したい、此処ではない何処かへ。産まれ変わりたい、自分ではない誰かに。一度死んでみたい。
零れた数滴が沁みを作った。書きかけの数式が滲んだ。
明日までの課題は、しかしもう、これ以上進められそうになかった。