第2章 7
梅雨入りが宣言される頃、東高では、例のアパートでの肝試しが流行していた。
夜中に、二階の空室から子供の啜り泣きが聞こえる。声のする部屋に入ると、畳の上にはおかっぱ頭の子供がぽつりと座っていて、入ってきた人間に血だらけの腕を伸ばしてくる……誰が作ったのか、そんな怪談が広まり、わざわざ心霊写真を撮りに行くような生徒まで出てきた。
「夜一時。二階のいっちゃん奥の部屋やって」
凌空もクラスの男子から誘われたらしい。
塾のない月曜日の放課後、悠希は再び凌空のマンションに上がっていた。
古文の課題を教えてもらう、と聞いていたのに、机の上には、をかしの影も、あはれの形も無かった。代わりに、海賊王になる少年の冒険漫画が数冊、カラフルな彩りを添えている。
「行くの?」
「まさか」
ポッキーを咥えたまま、凌空は鼻を鳴らした。
「あいつら精神年齢低過ぎて笑うわ」
白川先輩に殺されかけた赤ちゃんが、水子霊になって出るのだとかなんとか。化学の実験中、悠希の班の男子たちもふざけて騒いでいた。
実際は赤子はまだ生きているのだから、その時点で支離滅裂な作り話だったが、高校生にとっては真相どうこうより、いかに楽しめるかが重要なのだろう。凌空は軽蔑したように吐き捨てる。
「事件のこと口実にして騒ぎたいだけやん。しょうもない」
コインロッカーの赤ちゃんは無事だった。それは奇跡的なことだった。
置き去られて数時間以内に、通行人が泣き声に気づいたのだという。そこからすぐに保護に繋げられたことで、新生児は一命を取り留めた。
ニュースは白川先輩の出頭から二日後に報じられた。アナウンサーもいくらか晴れた表情で語っていた。
「逞ましい子だね。将来大物になりそう」
報道を眺めて、母は呑気に感嘆していた。そんな様子を尻目に、悠希は複雑な気持ちだった。
命は救われたけど。命は救われたけど、それでめでたし、では済まないのが人生だ。
赤子がこの先成長していけば、いつかきっと、母親のことを知りたいと思う日が来る。悠希のように学校の課題として、名前の由来や産まれた時のエピソードを調べる機会があるかもしれない。
産まれてすぐに母親から棄てられた、そんな過去を知れば、誰だって深く傷つくはずだ。知ってしまったことを後悔するはずだ。その傷は、一生涯消えない痛みとなるはずだ。
どうか隠し通されますように。悠希は願わずにはいられなかった。世間は報道を祝福したけれど、どうかこれ以上は、あの子が人目に晒されることがありませんように。
言葉は思う以上に残酷に、深く強く、癒えない傷を残すことがあるから。
課題がひと段落ついて、気分転換をしようと悠希は尋ねた。
「レコード聴いていい?」
「いいよ」
レトロなジャケットが飾られたラックを前に、数秒間悩んでみる。
やがて、中から白黒の一枚を選び取った。以前凌空から教わった手順を思い出しながら、まだ不慣れな手つきでレコード盤をセットする。
そっと針を下ろすと、スピーカーからやわらかな音が流れてきた。少しハスキーな、あたたかく透き通った歌声だった。
バイオリンの音だろうか、もの悲しい旋律が後ろで響く。それに乗せて歌われる短い歌詞にも、独特の哀愁がこもっていた。
初めてレコードを聴いたのは、凌空と出会ったあの日だった。悠希は思わず感動の声を上げ、凌空に笑われたものだ。
イヤホンで聴くデジタル音源とは全く違っていた。音のあたたかみというのか、色彩というのか、難しい表現は出来なかったけれど、全然違う、というのは悠希にも分かった。
ソファに体を預けて、回るレコード盤を眺める。
ふと気づけば空っぽの頭だった。日々の憂鬱や忙しなさが遠のいて、穏やかな心になっていた。海辺で寄せ返す波を眺めているようだ。
瞼がひとりでに閉じていった。
不意に、肘のあたりに指が触れた。驚いて目を開けると、いつの間にか、凌空が足元に座っていた。
「……凌空?」
凌空は物憂げな表情で悠希の腕を見つめている。そこにはまだ新しい痣が青々と広がっていた。
悠希はとっさにシャツの裾を下ろそうとしたが、その手は遮るように掴まれた。
凌空は黙ったまま、その長い人差し指で痣をなぞった。悠希は戸惑うばかりだ。
細くて綺麗で、少し冷たい指だった。皮膚の上を滑る慣れない感覚に、ぴくりと腕が震える。
レコードが止まった。見計らったように凌空が尋ねた。
「お父さんのこと憎いとか思わへんの?」
切れ長の瞳がこちらを見上げる。いつかの帰り道と同じ、真っ直ぐな眼差しだ。
「腹立つなとか、鬱陶しいなとか」
「思わん……ことは無いけど、もちろん」
悠希は口ごもりながら首を捻った。怒りや憎悪という表現は、少しピントが外れている気がした。
「腹立つっていうより、なんだろ」
凌空の腕をそっと解いて、ソファに座り直した。
父に対して抱いている感情の、その名前を探してみる。出てきた答えは一つだった。
「恐怖心、かな」
あの人を前にして、前にせずとも頭に浮かべるだけで、勝手に脳が、体が反応する。刷り込まれた本能のように、プログラムされた神経反射のように。
その一つに長年拘束されて、支配されて、身動きが取れないでいる。
「言い返したらもっと酷いことされるだろうし、そういうの考えたら何にも言えないんだよね。母さんも多分おんなじだと思う」
「だって間違ってるやん」
凌空は口を尖らせた。両腕をソファに乗せて、不貞腐れたようにそこに顎を埋める。
「なんぼ理由があっても、暴力でコントロールしようとするのは間違ってるやん」
その通りだ。でもそんな正論があの人に通じるわけがない。
「俺やったら絶対グレてるけどな」
頬杖をついてツンと鼻を反らす。悠希は弱々しく笑った。
そんな風に強くなれなかった。ごめんなさいが挨拶のようになっていて、それを免罪符のようにして、家庭に居場所を許されている毎日だ。
理不尽でも言いがかりでも、八つ当たりとわかっていても、真っ向から反抗する勇気が自分には無い。そんな自分が自分でも情けないし、嫌いだ。
「いいな、凌空は」
心の底から湧き出た呟きだった。凌空の強さが羨ましかった。
すると凌空は、何かを決心したように顔をあげた。
「兄としての責任を感じるわ。ほっといたら酷くなる気がする」
悠希の隣に腰を下ろすと、使命感に満ちた表情で瞳を覗きこんだ。
「これからは出来るだけうちおいでよ、ほとんど一人やしさ。勉強も教えてもらえるし」
最後の言葉に、悠希は思わず机の上の漫画に目をやった。
「そういえば方丈記は」
「ポテチ開けようか?」
凌空ははぐらかしてキッチンへ逃げた。
その背中を見送りながら、悠希は一人微笑んだ。
胸の内はまた、じんわりと和んでいた。あの日の黄昏の温もりが蘇るようだった。