第2章 6
「今のお父さんってどんな人?」
凌空との帰り道、不意に尋ねられた悠希は、それとなく耳鼻科の一件を打ち明けてみた。
「やばいな。アダルトチルドレンやん」
苦虫を噛み潰したような顔で凌空は言った。
「背中の痣もお父さんから?」
数秒の沈黙の後、悠希は小さく頷いた。気遣わしげな視線が横顔に刺さる。
「しょっちゅう暴力受けてるん?」
「……お酒飲むと酷くってさ」
なんと答えようか迷った末、悠希は表現をぼかした。
「まぁ普段は、殆ど勉強のことで叱られてるかな」
仕方がないという風に笑ってみせた。凌空は不服そうだ。
更衣室で見えた痣のことを、今も気にしているんだろうか。口を尖らせて黙り込む様子に、悠希は思った。ひやりとした反面、浮かんだのは、驚きとは別の感情だった。
「志望校はもう決まってんの?」
悠希は曖昧に首を傾げた。
「まだ迷い中。家から遠ければどこでもいいんだけどね」
受かる自信は皆無なものの、第一志望は関西の国公立にしていた。
「遠く行きたいんか」
訊かれて、悠希は大きく頷いた。
早くこの町を出たい。その一心だった。
幼少期から住んでいる町を、悠希はいつまでも好きになれなかった。年に一、二回、夏休みや正月に訪れるだけの大阪の町のほうが、断然好きだった。
おばあちゃん家に引っ越したい、とせがんでは、母に叱られたことを覚えている。
「やから京都のことあんなに羨ましがってたんやな」
「うん、それもある」
たまに行くから理想郷のようなバイアスがかかっている、というだけではなく、体が馴染まなかったのだ。ここを故郷と呼ぶことを、ずっとどこかで拒んでいた。
「田舎だから、父さんの病院わりと有名でさ。家族のことも何故か知られてて。母さんとは再婚だってことも、僕が連れ子で、父さんとは血が繋がってないことまで」
だからどこへ行っても、「永井医院のとこのお子さん」という色眼鏡で見られた。
悠希はそれが窮屈でたまらなかった。永井医院の子供と分かると、大人たちは、特に年配の人ほど、掌を返したように突然、媚び諂う態度を見せてくる。
そこには肯定的な意味合いだけでなく、どこか嘲笑じみた空気も含まれていた。町議会にも顔が広い父には、同じくらい敵も多かったのだ。
凌空は唸った。
「プライバシー緩いもんなぁ、田舎町って特に」
「ほんとに。だから嫌いなんよ」
誰も自分を知らない場所に行きたかった。一切のしがらみを断ち切って、自由になりたかった。
でも、今までそれを誰かに話したことは無かった。
「……本当言うとさ」
少しの逡巡のあと、悠希は遠慮がちに打ち明けてみた。凌空になら、と、心が頷いた気がしたのだ。
「たまに、絵名のことが羨ましくなる。同じ兄妹のはずなのに、なんで向こうだけあんなに可愛がられるのかなって……」
気恥ずかしさを感じて自虐気味に笑った。
「子供っぽいのは分かってるけど」
「そんなことない」
凌空はすぐさま否定した。
「全然子供っぽくない」
有無を言わさぬ口調に、悠希は黙って俯いた。心臓が小さく跳ねるのを感じた。
その後の悠希は、いつもに似合わず口数が多かった。成績が伸び悩んでいて憂鬱なこと。塾の先生の期待に感じてしまうプレッシャー。最近母がよく煙草を吸っていること。キッチンで見かけた新しいライター。自分と真逆で甘え上手な絵名。
流れに任せるようにとりとめなく、自分の話を続けた。
凌空は終始、そんな悠希の声に静かに耳を傾けていた。真摯な表情で相槌を繰り返す。
駅に着くのが、いつもより数十分も早く感じた。次第に遅くなった足取りは、やがてホームに続く階段の下で止まった。いつもの二人はここで手を振って別れるのだ。
立ち話を続けながら、悠希は不思議だった。
正直な思いを言葉にするなんて、普段の自分なら決して、あり得ないことだ。それも誰かの前で。
悠希の声が途切れた。ふと気がついた。
そもそも、今までの自分には、こんな風に話をする相手が一人もいなかったのだ。「友達」と呼べるような存在が、一人も。居なかったのだ。
唐突に思い至った事実が痛くて、悠希は口をつぐんで項垂れた。
凌空はまだ黙っていた。ちらりと盗み見ると、何か考え込むように俯いている。その表情はあまり見ないほど暗く影っていた。
呆れられたかな。悠希は肩を落とした。
「……ごめん、足止めて。じゃあまたね」
悠希が背を向けかけた時、ようやく凌空が口を開いた。
「はる、暴力されたら言うんやで」
悠希の肩を掴んで、その目を正面からじっと見つめる。アーモンド型の瞳が強い光を宿している。
「なんかされた時はちゃんと話してな。理由が何であろうと。一人で抱えてたらあかんで」
思いがけない言葉に面食らった。射抜くような視線を受けて、悠希はドキドキしながら頷いた。
「ありがとう」
また明日、と手を振る一秒前まで、凌空の手は悠希の肩から離れなかった。
最後まで何か言いたげに、訴えるように、じっと瞳を見据えていた。思わず悠希から先に目を逸らしてしまったほどだった。
一人で電車に揺られながら、悠希は瞼を閉じた。裏側に残影が蘇る。どうしてあんなに綺麗な瞳をしているんだろう。
それから胸に手を当てて、凌空の言葉を反芻した。
『一人で抱えてたらあかんで』
愚直なほどの優しさだった。生きてきた中でそんな言葉をかけられたのは、今日が初めてだった。
西陽が車両をいっぱいに染めていた。黄昏に抱かれるように、再び目を閉じた。
数十分経ってみても、まだ胸は温かかった。
凌空って優しいな、としみじみ思った。大人っぽいだけじゃなくて、優しくて、強い人なんだな。
けれどもこの時の悠希はまだ、凌空の強さのほんの一部しか知らなかったのだ。