第2章 5
父は昨夜からどこかに出掛けて帰ってきていない。大抵、夜を跨ぐ時は愛人との逢瀬と決まっていた。
夕飯後のリビングで、悠希は絵名の折り紙に付き合っていた。
「端と端、ちゃんと揃えないかんよ」
「絵名がやるっ」
手助けをしようとした兄の手を邪険に振り払う。手のひら全体を使って紙を折るため、まだ角を綺麗に揃えることができなかった。ほうぼうの折り目から裏の白地が覗いている。
「ほら、ここ」
「もおっ、じゃましないでよ」
なんでも自分でやりたいお年頃だ。悠希は仕方なく手を引っ込め、見守りに徹した。
しかし結局飽きてしまった絵名は、折りかけの数枚を机の上に放り出したまま、タブレットでアニメを見始めた。悠希は横目で絵名を睨んだ。
「絵名、お片付けまでやりん」
「はあい」
ソファの上に腹ばいになり、両足をぶらつかせている。返事だけはいつも満点の妹だ。
「絵名」
コップを手にした母がキッチンから呼びかけた。
「お薬飲もう。こっちおいで」
「えーやだぁ」
絵名はふざけて母の手を逃れた。その体を捕まえながら尋ねた。
「病院行ったの?」
「うん。春から中耳炎が長引いててね。新しく出来た耳鼻科行ってみたの」
と、母は隣町にオープンしたばかりのクリニックの名前を挙げた。
「あのね、ノンタンあったの」
絵名は兄の膝の上にちょこんと座り、その手をもてあそびながらはにかんだ。
「ねー。待合室で読んでたんだよね」
「びょういんの先生、やさしかった。絵名がね、いたいのいやですって言ったらね、いい子にはいたいのしないよーって。ねっ、ママ」
拙い説明に、悠希は口元を緩めた。絵名の小さな頭を撫でる。
「そっか。良かったね」
翌晩、悠希は自室で課題を片付けていた。時計を見上げると、日付が変わってとうに一時間を過ぎようとしていた。
大きなあくびと共に両腕を伸ばした。凝り固まった肩がポキポキと音を立てる。
その時突然、階下から怒鳴り声が響いてきた。悲鳴に近い泣き声が続く。悠希はそのままの姿勢で固まった。
それから間を置かずドスドスという足音が響き、玄関の扉が乱暴に開いた。
やがてあたりは静まった。
悠希は席を立った。カーテンを細く開け、窓の向こうを覗く。
赤い車が角を曲がるのを見届けた後、様子を伺いにリビングへ降りた。
残された母が一人、テーブルに突っ伏して啜り泣いていた。
「母さん? 大丈夫?」
そっと声をかける。母は涙に濡れた顔をこちらに向けた。
「ごめんね」
「どうしたの」
「勝手に他所の病院かかったのが、気に食わなかったみたい」
母の視線を追った。ゴミ箱から、ビニール袋ごと捨てられた薬が覗いていた。絵名が飲んでいた中耳炎の薬だ。
なるほど、自分に無断で隣町の耳鼻科を受診したことが癪に触ったんだ。悠希は半ば呆れた。近頃、父の地雷は、以前にも増して浅い所に埋まっているようだ。
「どっか行ったの」
「向こうのマンションかパチンコじゃない? 知らないけど」
母はティッシュを束ごと掴んで鼻をかんだ。
「もう寝なさい。ごめんね勉強の邪魔して」