第1章 9
「おいはる」
塾から帰宅するなり、低い声で名前を呼ばれた。
リビングに入れば焼酎の香りが鼻を抜ける。ダイニングテーブルに座る父の背中だけでも、不機嫌な様が見てとれた。
「ここ座れ」
父は正面のテーブルを叩いた。キッチンに立った母は、硬い表情でこちらを見守っている。
テーブルには模試の判定表が広げられていた。目に入った途端、悠希の身は竦んだ。
並んだアルファベットは悉くDだった。これがスロットゲームなら喜べるのに。
「なんやこの点数」
父はプリントが破れそうな勢いで指を突き立てた。
「毎晩毎晩、俺があんだけ付き合ってやってんのに、お前どういうことや? あ?」
すごむ声を前に体が萎縮する。
「この出来の悪さで恥ずかしいと思わんのか。どう考えてるんだ。説明しろや」
拳で激しく判定表を叩く。何度も、何度も。太鼓のように波動が体を伝わって、同じ強さで心臓を衝かれている錯覚に陥った。
時折煽る酒がエンジンとなり、罵倒を勢いづかせた。
クズ、能無し、出来損ない。降り続く言刃と止まない追及に、悠希はテーブルの一点を見つめて謝罪を繰り返した。ごめんなさい以外、出てくる言葉は無かった。
やっと解放されたのは夜中の一時過ぎだったか。
自室に戻り、くたびれた体を横たえた。
「死にたい」
無意識のうちに呟いていた。近頃は口癖のようになっていた。
ああもう、死にたい。消えたい。楽になりたい。この家から、町から、いなくなってしまいたい。
気慰みを求めるように、手元の画面に問いかけた。
『睡眠薬 致死量』
毎度お馴染みの緊急ダイヤルが上部に表示される。興醒めしてブラウザを閉じると、そのままスマートフォンを放り出した。目尻に涙が浮かんだ。
駅に向かう途中で、「悠希くん」と、聴き覚えのある声がした。振り返ると凌空が駆け寄ってきた。
「マック行かん?」
悠希は無念な表情を浮かべた。あいにく、これから塾なのだ。
「そっか。残念」
「でもっ」
引き下がろうとした凌空の腕を掴んだ。
「六時からだし、ちょっとは時間あるから」
すると凌空の顔が明るくなった。
「じゃ、近くの店にしよう」
家とは反対方向なのに、凌空はわざわざ塾の最寄りまでついて来てくれた。
「悠希くんさ、芸術の選択科目って何とってるん」
「美術。悠希でいいよ」
「じゃあ俺も、凌空でいいよ。美術かぁ」
凌空は残念がった。
「俺音楽にしちゃった」
芸術の授業は、普通科も特進科も合同で受けることになっている。同じ科目にしていれば、一緒に授業を受けられたのに。
「いいじゃん音楽。でも歌唱テストあるらしいよ」
「げっ、取り消そかな」
凌空は顔を顰めた。
シェイクを飲んでいる間に、ようやく誕生日を聞けた。凌空は一昨日で、悠希は十一月だから、凌空の方が七ヶ月お兄ちゃんということだ。
「えっ、一昨日?」
悠希は頓狂な声を上げた。初めて会った日じゃないか。
「知ってたらお菓子ぐらい渡したのに」
口を尖らせる悠希に、凌空は爽やかな笑顔を向けた。
「悠希と知り合えたことが一番のプレゼントやで」
「うわ」
キザな台詞にのけぞる。そんな悠希を軽やかに笑うと、凌空は不意に表情を引き締めた。
「知らんかったんやけど、特進コースってめっちゃ賢いねんな。悠希すごいな」
羨望の眼差しをこちらに向ける。普通科と特進科は入試の段階で科目数も内容も違っていて、偏差値の差がそれなりにあるのだ。凌空は編入だから知らなかったのだろう。
「俺の頭でも受かるくらいやから、なんやちょろい学校やなって思ったのに」
その言い方に思わず苦笑しながら、悠希の頭には苦い記憶が蘇った。
「第一志望落ちたから東高に入ったんだけどね」
ストローを回しながら沈んだ声で呟く。凌空は目を丸くした。
あまり思い出したくない過去だった。本命の公立高校は、先生たちからもほぼ確実だと言われていて、模試の結果もA判定続きだった。だから、不合格はまさかの結果だったのだ。
自分が悔しい以上に、周囲の期待を裏切ったようで情けなかったし、父からも散々なじられた。「余計な金遣わせやがって」と、そこには凌空の伯母と同じような煩苛も含まれていた。
「特進が滑り止めとか言われたら、普通科の俺どうしたらいいねん」
凌空は嘆いた。
「不可触民やん」
悠希は笑いながらかぶりを振った。
「そんなことないって。勉強以外は逆に、何にも知らないもん」
学校が終われば塾、塾から帰れば父の特訓と、中学生の時から悠希は学習奴隷のようだった。恥ずかしい話、放課後に友達と店に寄るのだって、今回が初めてだったのだ。
まごつく悠希の隣で慣れたように注文をする凌空が、悠希の目にはとんでもなく眩しく映った。
凌空は反対に、悠希の賢さを羨んだ。勉強が大嫌いらしい。
「時間ある時、課題教えてな」
懇願するように言った凌空に、悠希はお安い御用だと請け負った。
内心、ほっとしていた。あの日の言葉通り、もう悠希への怨念は、目の前に座る凌空からはちっとも感じられなかった。