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二人の「時間」

作者: 海山 里志

 雪のしんしんと降り積もる寒い日のことだった。今日は私の誕生日。結婚して一年目の妻、依子が私の為にボルシチを作ってくれていた。本当は依子は折角だから高級レストランにしようと言ってくれていた。しかし、お互いまだ若く稼ぎもない。それに私は、依子の手料理に勝るものはないと本気で思っていたので、彼女にとっておきの手料理をねだったのだ。

「あ、いけない!」

 ボルシチを煮込みながら思い出したように依子は叫んだ。

「ケーキを取りに行くのを忘れてたわ」

「私が行くよ」

「いいの。今日はあなたの誕生日なんだから。でも鍋をお願い」

 そう優しく笑いながら言って、依子は外套を身に纏い鞄を肩にかけ、小走りに家を出て行った。


     *    *     *


 遅い、と私は思った。依子が出て行ってからかれこれ一時間は経とうとしている。ケーキ屋は歩いて十分のところだというのに。それに先程から救急車やパトカーのサイレンがうるさい。私は首を横に振り、最悪の可能性を考えないようにした。

 ボルシチはもう出来上がり、食卓に上るのを待っていた。私は鍋をとろ火に掛けて保温した。

 やはり電話すべきだろうか――そう思った矢先、私のスマホが鳴る。見れば、見たこともない番号だ。私は恐る恐る通話ボタンを押す。

「西警察署の杉原です。桜田依子さんの旦那様のお電話でよろしいですか?」

 鼓動が早まる。スマホを持つ手が震えた。私はなんとか声を絞り出す。

「はい」

「身元確認をお願いしたいので、公立西東京病院に来ていただけますか?」

「公立西東京病院ですね。分かりました。向かいます」

 そう答えて私は電話を切り、雪降る夜道に車を急がせた。


      *    *     *


 病院の駐車場に車を停め、時間外通用口に着くと、刑事が待っていた。

「西警察署の杉原です。桜田さんですね? 桜田大樹さん?」

「はい。それで妻は……」

「どうか気を強く持ってください」

 そう言って彼は私を先導し歩き始めた。足が重たい。それでも私ははぐれないように杉原刑事の背中を追った。

 彼は病院の奥へ奥へと歩く。やがてたどり着いたその部屋の扉には、「霊安室」と書かれていた。私は生唾を呑む。部屋の真ん中、台の上に銀色の寝袋が横たえられていた。白い手袋をした警官が寝袋を開ける。そこには愛する妻、依子の顔があった。私は息を吞んだ。涙が溢れて止まらない。私は台に縋り付き、慟哭した。この時に一生分の涙を流し切ってしまったのだろう――そう思っていた。

 そこからは目まぐるしかった。喪主は依子の兄が務め、遺品整理は義実家総出でしてくれた。後に残された依子の遺品といえば、写真立てに収められた二人でのツーショットだけだった。その時からだ、私の時間が凍りついたのは……。


     *    *     *


 「時間が凍りついた」というのは、適切な表現じゃなかったかもしれない。より正確には、「時間が意味を持たなくなった」のだ。

 時間だけじゃない。あらゆるものが意味を持たなくなった。まず仕事が意味を持たなくなった。二人の生活、二人の将来――そんな仕事の意欲となるものが瓦解した。そのため、以前は九時に出社するという働き方だったのが、午後からオンラインで仕事するようになった。私の所属している会社は、幸いにも在宅可、コアタイムなしの会社だったので、表立ってとやかく言う人はいなかった。

 仕事は十三時に始めると休憩なしで二十一時までやるのがざらだった。それについて総務から「休憩をとれ」と指示を受けるのだが、正直とる気にはなれなかった。食事もまた意味を持たなくなっていたのだ。食欲がわかないし、食べても吐いてしまうのだ。

 また在宅での仕事ということで、身だしなみもまた意味を持たなくなった。よれよれの部屋着に、伸び放題の髪と髭。たまに会議で顔を合わせる上司や同僚に「身だしなみに気を遣え」と苦言を呈されるのだが、やはりそんな気になれなかった。

 外に出るのは億劫で、しかし心の空虚さは埋められず同期に相談したところ、風俗街に連れまわされた。お金もまた私にとっては意味を失っていたので、湯水のように使い倒した。ただ性風俗だけは、性欲を失っていたということで遠慮した。

 そして家事をする元気もなく、帰った私は着替えもせず泥のように眠った。


     *    *     *


 結果として手元に残ったのは、痩せこけ髪も髭も乱れた私と、散らかり放題の我が家、三桁になった預金通帳だけだった。私は家賃を滞納するようになり、ついには家を追い出されることとなった。

 その時思ったのだ――ああ、本当に意味がなかったのは私の人生だったのだ――と。

 私は生を終えることにした。雪のしんしんと降る寒い夜、私は凍死すべく公園へと向かった。足が重い。身体が震える。それを最近何も口にしていないせいだと言い聞かせて、ひたすら歩みを進めた。

 やがてある交差点にたどり着いた。信号は赤である。私はがたがた震えながら、しかし頭や肩に雪が降り積もるのも気にせず、ただひたすらに信号が変わるのを待ち続けた。

「あなた」

 唐突に優しく声が掛けられた。その方に目を向けて、思わず目を見開いた。

「……依子……」

 そこには最愛の妻、依子が、あの日の姿で、柔らかい笑顔を向けて立っていた。

「もう、あなたちゃんと食べてるの? すっかり瘦せてしまってるじゃない。それから身だしなみにも気を配る。髪も髭も整える。あなた折角カッコいいんだから。あ、そうそう。大事なことを忘れるところだったわ」

 そうしゃべるだけしゃべると、依子はおもむろに小さな白い箱を取り出し、両手で差し出した。

「はい、お誕生日おめでとう、あなた」

 その言葉を聞いて涙が溢れ、頬を伝った。そうか、私はあの日、この言葉を聞くはずだったんだ。

「依子は変わらないな」

「まだ一年しか経ってないからね。あなたはすっかり変わってしまったわね」

「もう一年も経ったからな」

 そう言って私たちは互いに歩み寄り、抱き合った。

「冷たいな」

「もう幽霊だからね。あなたこそ、冷たいわ」

「もうすぐ幽霊だからな」

「笑えないわよ」

「本気だからな」

 抱き合いながら思った。公園よりも私の死に相応しい場所があるじゃないか。妻の亡くなったこの交差点だ。同じところで死ぬことで、死後も私たちは結ばれる。それでいいじゃないか。私はゆっくり身を横たえた。


     *    *     *


 瞼の向こうに柔らかな光を感じた。私はゆっくり目を開ける。目に映り込んだのは、白い壁と木目調の床。私の知らないものだ。

「気が付きましたか?」

 聞き覚えのある声に身体を向ける。そこには私を心配そうに覗き込む女性の姿があった。

「雨宮さん?」

「よかった~、気が付いてくださって! 今、お粥お持ちしますね」

 彼女は立ち上がり、ぱたぱたと部屋を出て行った。彼女は私の会社の部下だ。

 私は身体を起こし、周りを見渡した。私に掛けられていたのは毛布と羽毛布団。さらにファンヒーターが私の身体に向けられていた。それだけで、彼女がどれだけ私を助けようとしてくれていたのかが見て取れた。

「お待たせしました! 食べられますか?」

 雨宮さんは片手鍋をファンヒーターの上に置き、茶碗にお粥をよそい、手渡した。私は茶碗とれんげを受け取り、一口ずつ口に運んだ。美味しい。食事とは、こんなにも美味しいものだったか。そんなことに感動している私を、雨宮さんは遠すぎもせず、かといって近過ぎもしない位置から座って見守っていた。そして優しく、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。

「係長、死んじゃだめです。係長が死んでも、きっと奥様は喜ばないと思うんです。奥様は誕生日のケーキを受け取りに行ってらしたんですよね? 係長が生きているのを、祝おうとしてらしたんですよね? だとしたら、死んだら奥様は悲しみます。奥様を喜ばせる唯一の方法は、係長が健康に生きていることだと思うんです」

 その言葉を聞いて、凍りついていた時間が融け始めた。融けた氷は涙となって、幾筋も頬を流れた。


     *    *     *


 次の日から私は会社に復帰した。家は社宅に住むことになった。自室はなるべく清潔に保つようにした。同僚との夜遊びは止め、再び貯金も始めた。

 私には日課ができた。それは、「いってきます」と「ただいま」の代わりにツーショットに手を合わせるというものだ。

 私は今日も写真に手を合わせて家を出る。昇りたての冬の朝日が、私の行く先を照らしていた。

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