3セレナの話
3セレナの話
「貝ちゃぁーん!おっはー!あれ?なんか可愛くなった?」「私あんたと会う度に可愛くなってんの?」コアはいつも挨拶するように可愛い可愛いと言ってくる。私のどこが可愛いのか。
「うん。マジだって。」私ははいはいと言ってその場を流した。
コアと今日から始まる依頼に取りかかる。今回のターゲットは東政宗という名の者だ。依頼者は剣城忠信。
この案件は長丁場になりそうな予感がする。何を聞いて見てそう思ったかは分からない。今回だけはいつもと違う不安感がある。
通常の依頼は一週間足らずで終了する。今まで最長で十日間だ。それはただ場所が遠かったってだけで殺すのに時間はそこまで要していない。東京から福岡なんて遠すぎてゲロを吐きそうになった。そこの現地のやつに頼めよとも思ったが、お金稼ぎのために向かってやった。その時は、コアとハウステンボスに行ったり博多を満喫した。それはそれで楽しかった。
「東の情報が書いてある紙、まだ見てないんだわ。ちょいと見せて。」
この紙はジョセフから受け取ったホシに関する情報ペーパーだ。この紙はA4の通常サイズ。同時に、メイが集めた情報も含まれている。「昔いじめられてその恨みか。」「あと、右目に傷がある。」
東のこめかみから頬にかけて一直線の傷跡があるらしい。やはりジョセフの情報網は素晴らしい。
私はジョセフから貰った情報ペーパーを完全に信じている。今までも、この貴重な情報があるだけで殺すのが楽になれるからだ。
「ジョセフと東政宗は知り合いとかなんかな?」「確かに。」コアの言ってることも一理ある。傷があるなんて実際に確認しないと分からないものだ。
「つーかさ、貝ちゃんってなんで殺し屋やってんの?ジョセフとなんか繋がりでもあんの?」私は話すのがめんどくさくてフル無視した。コアは悲しい声で嘆いた。こいつはとことんめんどくさいヤツだな。コアは私の肩を人差し指でトントン叩きながら教えてよーと言っている。
「あぁもうめんどくせぇな!里子だよ!ジョセフの!そんで勧誘された。それだけ!」こうでも言わないとコアは納得してくれないと思った。「里子?もしかして家庭に縁が薄いのか?」私はコクリと頷いた。少なくとも普通の家族ではなかったし、血縁関係がある人も周りにいないし。
駄目だダメだ!父親のことを考えると動悸が止まらなくなってしまう。だから、考えないようにしないと。コアの奴め。あとで覚えてろよ。
あれ?いきなり視界がふらっとなった。一瞬、白い煙みたいなものが私の目の前に竜巻みたいに現れた。そして次の瞬間、世界は黒色に染められた。いきなり怖い雰囲気に包まれた。遠くから聞こえる太い男の人の声。そして、徐々に近づいてくる黒い人影。その男の人が私の目の前でピタリと止まった。次の瞬間、大きくて太い剛腕をあげて私に襲いかかってきた。誰?あなたは誰なの?なんなのこの人?
「やめて!やめてください!」
これは…父親だ!血は繋がっていないけれど、一緒に住んでいた父親に違いない!そして、次から次へと殴りかかってくる。
私はしゃがんで耳を塞いだ。あぁ、思い出してくるあの感覚。寒さで凍え死にそうになったあの真冬の夜。
「ごめんなさい。ごめんなさい!もう、やめてください!」妹の未子を殴る父親を見て泣き叫ぶしか出来なかった。まだ小学一年生にもなってない子供を殴る男が目の前にいるってだけで恐怖と憎しみが溢れ出てきそうになる。
すると、そばにいたコアが背中をさすってきた。その手でようやく動悸が収まり始めた。
「貝ちゃん。大丈夫。俺は貝ちゃんを苦しめたりしないよ。落ち着いて深呼吸して。」私はコアの少し甲高い声に落ち着きを覚え、深く深呼吸した。「ごめんなさい。だから、だからえっと、」私が言いかけたその時、コアは指を私の口に当てて、しぃーと言った。「そんな泣いてたら、可愛い顔がもったいないよ?無理に話す必要ない!ほら、立って立って!」そう言いながら、私の腕を引っ張ってきた。「ありがと。ごめん。ごめん。」
こんな惨めな姿を見せて、本当に恥ずかしい。しかも今は仕事中だぞ?何やってんだ藤沢貝。
そしてコアは再び私の腕を引っ張った。「ちょちょちょ!何すんの?仕事やろ!」「いいから!」
コアに引っ張られながら行き着いた場所は、一昨日行ったオムライス屋さんだった。これまたなんで?
「コア、何でこんなとこ連れてくるの?」
「だって、お前、オムライス好きっしょ?」
「私、朝ごはん食べたよ?」
「そんなに細っそいんだからもっと食べなきゃ。」
いや、オムライスは好きだけど。仕事は?ジョセフになんか言われないかな?依頼者は?
腕時計を確認すると、依頼者との接触まではあと二時間半ある。私は、コアに甘えてオムライスを食べることにした。一昨日通りすんなりと席に通してくれた。「こちらメニューになります。ごゆっくりしていってください。」
「デミグラスにすんの?」私は首を振って今日はカニクリームコロッケが乗ってるオムライスにすると言った。コアはそっかぁと言ってニヤニヤしながら私の方を見据えた。何を企んでいるコイツは。「コアは頼んだの?」コアはうんと頷いてドリンクバーを取りに行った。
「お待たせしました!デミグラスオムライスとカニクリームオムライスです!」「ありがとうございます。」
コアが頼んだのはデミグラスオムライスだった。確かコアはデミグラスが苦手と聞いた。なのに何で頼んでるんだ?
「お待たせー。もうきてんじゃん!食べよー。」私は気になってしまい、コアに聞いてみた。
「直ってデミグラス苦手じゃないの?」コアはあぁと言ってスプーンに乗ったデミグラスオムライスを私の口にあーんと言いながら運んできた。「え、あ、ありがとう。」コアはご満悦な表情をして私に一言放った。
「貝ちゃん、これ好きでしょ?」
私はコクリと頷き、もう一口頂戴と言った。コアは喜んで私にデミグラスオムライスをくれた。
「俺さぁ、こんな不器用な事しか出来ねぇけどさ。貝ちゃん、落ち込んでたからさぁ。」落ち込んでた?私が?何でコアはそんな事が分かるの?
「うん、落ち込んでた。」
それより、コアは私のことを元気付けたかったのか?落ち込んでるのと逆接を考えたらそうなる。
だとしたら、凄い元気が出た。コアってめんどくさくてうざいヤツだけど、人の目を見る力があって気遣いができていい人。
私はコアの方を見てふふっと笑った。するとコアは照れたような顔をした。コアの照れた顔は好きだ。
「あのね、直。話してもいい?すんごい重いんだけどさ。なんか、話したらスッキリすると思って。」
コアはおっけーと言って頬杖をついた。
「私がね、ジョセフと出会ったのは‥」
私の家は本当に複雑そのものだった。
まず、私は本当の両親を見たことがない。覚えもない。会ったこともない。私の物心がついた時から知っているのは偽物の母親だった。偽母は毎日のように違う男を連れてきては寝室に入り込んだ。そしてしばらくすると、下着姿の偽母がお前は邪魔だからといつも私を家の外に放り出していた。真冬の空の下で裸足で出されることもあった。感覚がない自分の足を見て、私はなぜ生きてるのだろうと考えるようになった。考えても分からない答えをひたすら考えたって意味がなかった。その答えを教えてくれる人もいなけりゃ相談する相手すらいない。
私の兄弟は一部しか血が繋がっていない。一応、六人兄弟だった。兄、私、妹、妹、弟、弟の順だ。私は兄としか血が繋がっていない。他の下の子はみんなバラバラの父親、母親だ。父親の連れ子がほとんどだった。お互いの認識はほとんどなく、兄と九つ下の未子としか話したことがなかった。
ある日、学校から帰ってくると、傷だらけになった未子の姿があった。血だらけで、無言で、正座をしていた。周りに父親と母親がいる雰囲気は感じられなかった。『未子?!』私は慌てて救急箱を取りに行き、箱から包帯とマキロンを取り出した。『また?』未子は小さく頷き、そして大声で泣き出した。私は落ち着かせようとしたけれど、泣き止まず、未子は少しずつ言葉を発していった。
『すごく怖かった。逃げたい。ここにいたくない。お兄ちゃんもやられた。』曖昧にしか聞こえなかったけど、確かにそう言っていた。
『お兄ちゃんもやられた?』兄は普段学校には行かずに、家にいる。というより、居させられている。父親のストレス発散の道具にされていると兄自身から言われた。あのクソ、マジでぶっ殺すぞ。
私は咄嗟に立ち上がり、家の中を探し始めた。台所、居間、庭、トイレ。家の中をほとんど探したはずなのに、なぜか兄の姿はどこにもなかった。この時間には家にいるはずなのに。
『あの人の部屋は?』未子は私の服をちょこんと摘まみながらそう言った。そうだ。唯一見ていない場所があった。
一度も入ったことがなかった父親の部屋。
もし入ろうとしたらどんな仕打ちを受けるか。
昔、兄が父親の部屋に向かおうとした瞬間に、父親が兄の背中を蹴ったことがある。そして、父親は兄に向かってこう言った。
『これ以上蹴られたくなかったらこの部屋には近づくな。近づいたら殺す。』そう言って父親は自分の部屋に入って行った。私はその父親を見て恐怖を覚えた。
『お兄ちゃん。』私は兄の腕に緊急処置を行った。骨折したと思われる箇所を添え木で固定し、無理に戻そうとはせず兄を安全な場所に移動させた。
『ごめんなぁ、貝。どこで覚えてんだよ。』私は兄が苦しむ姿を見たくない。見たいとも思わない。だから保健室の先生に聞いて、いろいろ教えてもらったの。お兄ちゃんが苦しむのは嫌だからせめても処置できるようにしたい。
こう言いたかったけど、なかなか言葉にできなかった。
怪我した時の応急処置。
先生はいろんなことを教えてくれた。傘や枝で固定する方法とか、傷口を水ですすいで細菌を徹底的に取り除いたり。別に覚えたくて覚えたわけじゃない。
先生は何でそんなこと聞くの?と言った。私はお兄ちゃんがよく怪我をするからとなんとなく誤魔化していた。
それは、嫌でも代々受け継がれていってしまった。未子も私を見て学んだのか、なぜか処置方法を知っていた。
『未子、もしもの事があったら、電話していいからね?』未子は私の服をギュッと摘まんでコクンとうなずいた。
ガチャ。
父親の部屋は案外綺麗で、枕元の隙間にビール缶が大量に置いてある以外は清潔に保たれていた。しかし、一つ気になる点としては、ビールと煙草の匂いがぷんぷん漂っていたことだ。その匂いに耐えきれなくて反射的に鼻をつまんだ。
きつい匂いに耐えつつ、キョロキョロと二人で兄を捜索していると、未子がクローゼットを指差した。『ここじゃない?』その小さな体から発せられる声は、とても震えていて、聞くに堪えなかった。
『開けてみるね。』左手に未子の手を握り、右手に力を込めて扉を開けた。
私は絶句した。
中から現れたのは、血に染まった兄だった。傷だらけで今にも息絶えそうな兄が寝転んでいた。もしかしたら、もうすでに息絶えているかもしれない。
手首を触って脈を確認すると、ゆっくりトクントクンと脈を打っていた。まだ、兄は生きている。生きようとしている。
『お兄ちゃん?!お兄ちゃん!未子!119番に電話して!』未子は泣きながら受話器に手を伸ばし、119番に電話をかけた。私は少し反応がある兄に声をかけ続けた。
『はい、こちら119番です。』
『お兄ちゃんが倒れてる!早く来て!えっとえっと住所は‥』未子は慣れた手つきで救急に電話をかけ、用件を伝えた。兄はいつ何があるか分からないからと言って救急車に電話する方法や救急箱を用意しておくなど緊急対応の処置を教えてくれていた。
しかし、いざそのような状況になると、ただただ胸がきつくて苦しくなるだけだった。何でこんな事になるの?私たちは普通の家族として生活したいだけなのに。
私は救急隊の人が来るまで、ひたすら兄に声をかけ続けた。『お兄ちゃん。お兄ちゃん。』兄の体のありとあらゆるところから血が出ていた。どんどん血だらけになる自分の手を見て、今何が起きているのかをやっと理解した。今、自分はどんな立場にいるのか。
お兄ちゃんは戦争に行ってないし、戦争のない時代に生きている。なのに、まるで撃たれたように血だらけになっていく。
これが、生き地獄というものだろう。
未子は外に出て救急隊が来るのを待っていた。それはワクワクした姿のように見えた。救急車が来るのを楽しみに待つなんて、なんて妹になってしまったんだろう。
スマホでこっそり繋いだ父親の位置情報を見てみると、なんともうこちらに戻ってきている様子だった。あいつは外で飲んだ後、家に戻ってきてまた暴力を振るう。まずい、これがバレたら命はない。殺される、殺されてしまう!未子も私も!お願い。早く来て。願って願って願いまくった。どちらが早く来るのか。お願いだから父親より救急隊が先に来て。
そう願っているとピンポーンとインターホンが鳴った。私は手の震えが止まらなかった。手に付着している兄の血を見ると余計震えが止まらなくなった。
その時、未子が走って玄関の方まで行った。『未子!待って!』
『あ!来た!』
そう言って目の前に現れたのは、警察だった。
『へ?』私は困惑した。なんで?通報もしていないのに。なんでここに警察がいるの?誰かが通報した?
『お姉ちゃん、ごめんなさい。未子が電話したの。』未子が?一人で?やり方も教えていないのに?
『藤沢さん。外に救急隊が来ているので、お兄さんの方をこちらに。』そう言って私の腕を引き上げ、一人の警察の人が兄を担いだ。
私も兄について行くように外に飛び出た。
家の外には数え切ることができない救急隊と警察がいた。
未子は、笑顔だった。父親の前で笑う笑顔ではない。未子の意思で笑っているのだ。
あぁ、これが、救世主なのか。ヒーローっているんだな。
『心拍数が落ちている!急げ!』
私は緊急処置を受けている兄を見て涙が止まらなくなった。未子が私の手をギュッと握りしめる。私は未子の方を見て、どうしたのと聞くとどこかを指差してさらに私の手をギュッと握りしめた。
『あそこに、あの人が。』ふと指差す方向に視線をやると顔を真っ赤に染めた父親が怒号をあげた。
『おい!どうなってんだよ!』
私と未子は一歩後ろに下がった。
数分後には鬼の形相をした母親がこちらに向かってきた。
『おい!チビ共!こっち来い!』
私と未子は一歩前に出た。
そして、父親と母親の近くにいた警察が父親と母親を取り押さえ、生涯のうちに聞きたかった言葉を発した。
『午後五時四十三分、被疑者確保。』その言葉聞いた瞬間に腰が砕けたように崩れ落ちた。
終わった。痛みが終わった。
未子は慌てて私の腰に手をやった。『お姉ちゃん?どこか痛むの?』私は未子の困った顔を見て、ギュッとその小さな体を抱きしめた。
『ありがとう。ありがとうね。ごめんね。辛い思いたくさんさせて。ごめんね。ごめんね。』私がなんと言おうと未子の記憶からこの暴力がなくなることはない。それでも、謝り続けることしかできなかった。
『お姉ちゃん。泣かないで。』
未子に抱きしめ返されて、また大量の涙を流した。
「多分、一生分泣いたと思う。」
ちらりと机を見るとこれでもかと大量のティッシュがあった。「ちょちょちょ!何でこんな泣いてんの?!てか、何で箱ティッシュ持ち歩いてるんだよ。」
コアは辛かったなぁ、辛かったなぁと連呼するだけだった。「まだ話に続きが‥」「うんうん。」コアの真っ赤になった目を見てため息をついた。
その後、私たちは児童養護施設に預けられ、偽母親と偽父親は逮捕された。もう何年も出てらこれないらしい。
あれから兄は目を覚まし、リハビリに励んでいる。私の応急処置のおかげで治りが早いと告げられた。
たまに様子を見に行くと嬉しそうに手を振ってくれる。その笑顔も初めて見る笑顔だった。兄が笑っている。未子も笑って暮らしている。まともな食事を食べてる。楽しく運動できる。恐怖にも怯えずに暮らしている。
これこそ、私が夢見てた光景だ。私の人生、あの人に殴られるだけの人生かと思った。あの人に殺されるのかと思ってた。自分の腕に残った沢山の傷跡を見て何度もそう思う。けど、それは弱っていた時の私の思い込みであって、今はそんなことない。
暴力を受けていた頃、週に何回か兄と未子と公園に行っていた。そこでどんぐりを見つけ焼いて食べたことがある。
『貝とみーちゃんは何になりたい?』
『漫画の編集者かな。』
『最高やん!みーちゃんは?』
『しゃしょうさん!』
『似合いすぎっしょ!』
お焦げがこびりついたどんぐりには、私たち一人一人の願いがあった。
衣食住をすることが人生で一番の幸せなんだと気づいた。兄と未子がこの先、笑って生きてくれるなら、私は今死んでもいいと思っていた。
『貝ちゃん。ちょっとお話があるの。』
この施設での生活も一年が経とうとしていた、中学三年生の夏。受験勉強に追われながら息抜きに兄とお喋りをしていると、担当の先生に呼び出された。
『話?面倒くさいなぁ。』
『めんどくさがらずに行ってこい。』兄にそこまで言われると行かざるおえなくなり、渋々先生に着いて行った。『貝ちゃんてさ、将来何になりたいの?』行き先が分からないまま、急な質問に少々驚いたが、素直に答えた。
『今は、編集かな。漫画とか絵本とかの。お兄ちゃんと未子でよく色んなお話を考えてたんだよね。そうしているうちに、話のストーリを考えたり、コマ割りを考えたりするのが楽しくて。その時間が一番ワクワクしてた。』先生はそっかと言うだけであとは何も言わずに、二人の間に沈黙だけが流れた。
『あ!もう来てる!貝ちゃん走って!』私は小走りを強制され、玄関口にいる一人の男性と目が合った。体がすんごくデカかった。
『すみません。待たせてしまい。彼女が藤沢貝です。』先生に安易に名前を紹介され、ちょっと先生を恨んだ。
ていうか、この時間何?この時間に兄のリハビリの手助けをしたいんだけど。お兄ちゃん、何してるんだろう?そんな事をボヤボヤと考えていたら、先生の口から衝撃的な一言が発せられた。
『貝ちゃんね。貝ちゃんを預かってくれる、里親が現れたの。』
ん?え?里親?私の?なんで、どゆこと?理解が追いつかず、私は先生の方をポカーンと見ていた。その時の顔立ちは間抜けでアホ面だったと思う。てっきり私は永遠にこの施設にいるのかと思っていた。
『君の母親と父親みたいに貝ちゃんを苦しめたりしないよ。だから安心して。』
君の母親と父親?この男は何を知ってるの?これは私へのドッキリ?
『貝ちゃん、この方。』その男の顔をジロジロと見ると、凛々しい眉毛に、少しぷっくりとした唇、首と顔が真っ直ぐで鍛えているのが伺える。でも、何でこんな大男が私の里親に?何が目的で訪ねてきたの?その当時ははてなが沢山だった。
『藤沢貝ちゃんだよね?僕の名前は高野秀吉。君の父親になりたいと思ってね。昔、君の柔道を見たことがあってね。君は覚えてないかもしれないけど、君の母親君のことを俺の柔道教室に通わせていてね。貝ちゃん、物凄く上手だったんだよ。』
私の母親?僕の柔道教室?この人の言っていることが全部未知の世界の言語のように聞こえてきた。何を言われているのか把握できなかった。
『ほら、これが君のお母さん。』
そう言って見せてきたのは、茶色の帯を身に纏った小さな女の子と成人した女の人が笑ってピースをしていた。彼女は綺麗なネックレスを身に纏っていた。この写真は、一体何なの?私は何を見させられてるの?
私は物心ついた頃から暴力を受けていたから、本当の母親とは会ったことがなかった。どんな人なのかも、どんな見た目なのかも。何も知らなかった。
『君のお母さんは君が五歳ごろの時に病気で亡くなってしまったね。そして、彼女の知り合いの人が君を預かることになったんだよ。』
私は、必死に耐えていた涙を流した。何で?何で私は泣いているの?
『お母さん?私の?待って、私の母親は‥』思い出せば思い出すほど幸せな時の暮らしが脳裏に浮かんできた。それと同時に、悲しみかのか、嬉しみなのか、どんな感情の涙なのか知り得ない涙が流れ落ちた。母親と歩いて向かった柔道教室。母親と行ったお祭り。母親と一緒に寝た布団。母親が買い物帰りに買ってきてくれた寒天ゼリー。次から次に母親との生活がフラッシュバックしてくる。これは何?私の記憶にあるはずない母親との思い出。私は他人の記憶を見ているの?目と目を合わせた記憶のない人との記憶。
これは他人の脳内?
いや違う。
今、脳裏に浮かんでいるのは紛れもない私の母親の姿だった。痩せ細った体にいつも欠かさず付けていた綺麗なネックレス。言葉遣いが丁寧で周りから慕われていた。友達も多くて、私も仲良くさせてもらっていた。
『あなたは、私の父親?』そして、一番の疑問であった目の前にいる男ついて問いてみた。
『僕はね、君の父親ではない。すまない。君の母親と父親は君が生まれてくる前に離婚している。そして僕は久しぶりにかつての教え子に会いに行こうと思って。貝ちゃんが施設で暮らしていると聞きつけて、僕が預かろうと思ったんだ。』これは、信じていいのか?人間不信になりかけていた私を育ててくれるの?教え子?
『待って。妹は?お兄ちゃんもいる。他にも疑問がたくさんありすぎて。』男はスッと立ち上がって、眉をひそめながら悲しい声で言った。
『君の妹とお兄ちゃんは、このまま施設に居なきゃいけないんだ。君だけが、僕のところで生活して欲しいんだ。』え、マジでなんなのこの人?
私は未子と兄と離れて暮らすなら、この男の頼みは願い下げだ。私は、永遠に未子と兄の笑顔を見ていたいのだ。そのためにここまで逃げて、もがいてもがいてあの生き地獄から逃げ出してきたのだ。
『なんで私だけ?それなら私はあなたのところには行かない!ていうか女子泣かせといて僕と一緒に生活したい?あなた誰?私がすんなり一緒に暮らすとでも言うと思った?』
謎の涙の次は怒りへと変化した。私がヒートアップしているのを察したのか、隣にいた先生が背中を優しく撫でた。この先生も先生で何がしたいのか分からなくなった。
『そもそもいきなり現れて僕の里子にならないかって?信じて行くとでも思った?私の痛みとか、苦しみとか分かんないでしょ?未子は毎日泣いていた。痛い痛いって言って泣いていた。お兄ちゃんは私たち妹を庇ってたくさんの傷を負った。私自身もたくさん殴られた。ご飯もろくに食べてこなかった!あんたが私の母親のことを知っていたなら、なんでその時に引き取らなかったのよ。何で、何で。児相も、大人も、あんたもみんな大っ嫌い。子供助けてくんないし、見て見ぬふりしたし。みんな、何で幸せに暮らしてるの?』『貝ちゃん。』
バタン!
その後の記憶はあまりない。
次に目が覚めると医務室のベッドで寝ていた。ベッドのそばにある椅子に、兄が足を組んで目を瞑っていた。膝には未子が気持ち良さそうに寝転んでいた。私は思わず笑みが溢れた。
『お兄ちゃん?』
寝落ちしている兄を起こすと、兄はハッとしたような顔で私の顔を触ってきた。
『貝?貝?よかった、目が覚めて。未子!未子!お姉ちゃんが起きたぞ!』兄が私の膝の上で寝ていた未子を優しく起こした。未子はこれでもかと大きなあくびをして体をゆっくり起こした。
『わ!お姉ちゃん!』未子は泣きながら私に抱きついてきた。その上に覆い被さるように兄が抱きついた。暖かな温もりに包まれながら、涙を流した。
『二人とも、ごめんね。多分、倒れちゃったんだよね。ごめんね。ごめんね。』
『貝。秀吉さんには会った?』私はコクリと頷き、兄に全てを話そうとした。なぜか私だけが里子に出されるとか、あの男の話とか色々。話したいことだらけだった。
しかし、未子が小さな人差し指で私の口に当てて、しぃーと言った。
『お姉ちゃん。行って。秀吉さんのところに行って。私たちのことは大丈夫だから。』なんでこの二人までそんなこと言うの?私自身、理解が追いついていない状態なのに。まるで、兄と未子が全てを知っているみたいだ。
『なんで?私はここで二人と暮らしたいのに。』
『あの人ね、ずっと私たちを助けたかったんだって。だけどあの人がずっと父親に脅されてたんだって。』いやいや、そんなこと今知ったところで何の得があるわけ?全身の傷跡が全て消えて私の記憶から暴力の光景が消えるわけ?そんな事ないでしょ?
私は口をポカーンとさせて、兄の方を見つめた。
『貝が五歳の時に柔道大会出たの覚えてるか?試合を観に行ったのを俺は覚えてる。その時、俺らの母親は緊急入院していたらしい。俺だけでもと無理して行かされた。けど、行って試合を見たらまぁ勝つわ勝つわであっさり準優勝。貝は嬉しそうに若い頃の秀吉さんと抱き合っていたぞ。秀吉さんは貝を育てて柔道の術を上達させたいんじゃないか?ここから柔道教室は遠いって言うからさ、秀吉さんの家で面倒見てくれるっていうこと。俺は将来、貝が柔道で活躍する姿を見てみたい。そしたら三人でどんぐりを焼いて食べよう。』
兄の説明でようやく理解できた。
私は、自分自身が何の取り柄もない殴られるだけのおもちゃかと思っていた。けど、兄が言うなら間違いない。私は、努力すれば、いつかは柔道選手になれるかもしれない。兄はその未来を見据えて私を説得しているのかもしれない。未子も兄と同感のようだ。
私はどんなに苦しい生活でも、苦しみの中で私たちにしかない幸せをこの二人と過ごしてきた。苦しくて苦しくて何度も死にたいと思った。今、安楽死できる薬が目の前に現れたらそれを飲んで心中するのにとも思った。殴られるより死ぬ方が幸せ。苦しみから逃げることが一番の幸せだと思っていた。すなわち、それは死。
しかし、そんな思いを希望に変えたのは二人だった。私は兄弟の中で病みがちな性格だったからすぐに死にたいとか消えたいとかばかり考えていた。
無論、その思いも全て二人にぶつけていた。嫌だったに違いない。毎日妹と姉から死にたい死にたい言われて苦しかっただろう。
ごめんね。
そんな私を絶対に見捨てないで一緒に犠牲になってくれた。もし、私だけがあいつらと暮らしていたら?未子と兄がいなかったら?私が、誰にも見られてなくて助けられなかったら?もし、私があの時死んでいたら?もし、母親が死なないで生きていたら?
人生にもしもがあればよかったな。
たったその一言だけでどれだけの幸福人口が増えるのか。
少しでも苦痛を耐え抜くために二人は私と生きてくれた。
大好きな二人。
離れるのは辛い。だけどさ、二人の声があれば何でも出来ちゃう気がするの。
必ず、戻ってくるからね。その時まで、笑顔で暮らしててね。
『分かった。私、頑張ってみる。でも、やばいと思ったら戻ってくるから。その時は、どんぐりを焼いて食べよ。』
私たちは再び抱擁しあった。
この決断は間違っていない。間違ったと思っても、最後には良かったって思える決断にしよう。
『先生に言ってくるね。』
そう言って部屋を出た。
そこから歩き出した一歩は、苦しい記憶を消すためのピースにすぎなかった。
「なんか、長くなってごめん。」腕時計を確認すると十一時を回っていた。いつの間にか一時間も喋りっぱなしだった。コアは更にティッシュの量を増やしていた。驚きと動揺を隠せずにいた。早朝ということもあり周りに客がいなかったからいいけど、夕方の混みあっている時間にここでこの話をしたら、すんごく恥ずかしい。これも見越してコアは私をここに連れてきたのか?
「貝ちゃぁん!今度未子ちゃんとお兄さんに会いに行こうねぇ!」
「何で直が泣いてんだよ。」コアはだってぇと言いながら鼻をズルズルとすすった。
「お会計2150円になります。」コアははぁいと言いながらスローモーションのようにクレジットカードを渡した。一昨日の渡し方のスピードとはまるで逆だ。
お会計を済ませ、駐車場まで歩き出した。その間、私が一方的に話し始めてから言いたかった心境を、コアに伝えた。
「ありがとうございます。」
私はジョセフに挨拶した時よりも深くお辞儀をした。コアは大きく骨ばった手で私の頭をポンと優しく叩いた。
「元気出てよかった。辛いこと全部言ってくれて、こちらこそありがとうございます。」
コアは私の頭をくしゃくしゃと思い切り掻き回した。私はおい!と怒ったが、まるでそれを川に流すようにコアは仕事だー!と言い誤魔化した。
ずるい奴、けど、優しいヤツ。
「てかさ、あの人と会うのって何時だっけ?」私は剣城と会う時間をぽっかり忘れてしまっていた。
「えっとね‥十一時半、ってあと二十分やん!」私はガーンとなったが、なぜかコアは落ち込むことなく元気そうに歩き出している。
「まぁ、間に合うっしょ!」
依頼者と接触する場所は、あちらからの指定で井の頭公園近くの住宅街だ。メイとウメと接触した死体処理部隊のアジトに近い場所だ。
「今回は接触する場所が近くて良かったな。」私たちは必ず接触する時間より三十分早く到着し、周辺の見回りや、物色といったことをするのに。今回は間に合うかすら心配されている。
でもコアと私なら大丈夫。
コアの運転する車は警察指導ギリギリを攻める運転技術で依頼者との接触場所に向かった。




