18灰の証明2
『今夜ですか‥。』
富美子は分かっていた。勘助はもう助からないと。
勘助は富美子の全てだった。
『お子さんも連れてきてはどうでしょうか。』医者は悲しい声で言った。
富美子は、はい、とだけ言ってその場を離れた。
勘助の病室まで歩くのは辛い。もう死ぬことが決まっている旦那の所に行くほど辛いものはない。
富美子は何度も何度も立ち止まった。
『勘助さん。』
泣きながら彼の名前を呼ぶことしか出来なかった。
もう彼女には何もできないのだ。
ガチャ
『勘助さん。』
富美子は病室にいる勘助の元に行った。枕元に座り顔と顔を近づけた。
富美子は自身の肌で勘助を感じようとしていた。
『勘助さんと私が出会ったのは二年前でしたね。雪の降る日にあなたが傘を貸してくれた。あなたは何も言わずに走ってどこかへ行ってしまいましたよね。初めから最後までずっと紳士だった。大好きな人。あなたが天国に行くなら私も行くわ。だって誓い合った夫婦だもの。でもね、私にはあなたと同じくらい愛してやまない人がいるの。その子のためにも私は生きるわ。勘助さんはいつでも見守っててね。』
富美子の瞼に涙が溜まることはなかった。
富美子は目を瞑り、勘助の傍で寝てしまった。
富美子は夢を見た。勘助と手を繋いで産婦人科に向かっている夢だ。
二人は笑顔で話している。お腹にいる子を撫でながら。ゆっくりと歩いている。
勘助と富美子の薬指には銀色に光る指輪がついていた。外から見ても本当に幸せそうに見えた。
『富美子?富美子!』
次に富美子が目を覚ましたのは危篤を告げられた夜のことだった。富美子の母親と総がパイプ椅子に座っていた。
『勘助さん、どんどん脈が弱くなってるのよ。あと一時間持つかどうかだって。』
富美子は総のことを抱き上げた。
そして、勘助の顔に総を近づけた。
『総?パパだよ。』
二人は二年しか共生できなかった。
『ぱぱぁ!ぱっぱ!』
ピー、ピー、ピーーーーーーーー
『10時43分、ご臨終です。』
1991.3.24
『それじゃあ行ってくるよ。』
勘助が急死して十六年が経った。
総は十八歳になった。
『いってらっしゃい。嫌になったらいつでも戻ってきていいからね。』
総は刑事になることを志した。父親のような刑事になりたいと。
総が刑事になりたいと言った時、富美子は反対をしなかった。普通は勘助のようになってほしくないと反対するはずだ。しかし、富美子は決して総の意見に反対することはなかった。しないようにしていたのだ。
『ありがとう。また連絡する。』
総は警察学校の寮に住むことになったのだ。
『初めまして。多田総と申します。よろしくお願いします。』
多田の部屋には多田ともう一人の相部屋だった。
『よろしく!俺は剣城忠信だ!』
剣城はとりあえず明るく、気を遣わない相手だった。
警察学校の一日は鬼であった。
六時半、点呼
七時、自由時間ならぬトレーニング
七時半、朝食
八時半、国旗掲揚
八時四十五分、一限目(刑法)
十時二十分、二限目(教練)
これが午前中のスケジュールだ。体力に自信のある多田でもヘトヘトになる。
十二時四十分、三限目(逮捕術)
多田にとってこの時間が一番楽しかった。
幼い頃から父親に柔道を教えてもらっており、技だけは何度も決められる。
十七時十五分、国旗降納
警察学校では一ミリたりともの遅刻を許さなかった。
少しでも遅刻すれば雑巾掛けだ。
幼い頃から遅刻癖があった剣城は雑巾掛けのプロになっていた。
『剣城はいつも雑巾掛けしてるよな。』
『しょうがないじゃーん!いずれ治るって!』
剣城は教官に嫌味や愚痴を言われても次の日にはパッと忘れてしまっていた。
多田が警察学校に入り二ヶ月が経った。
この頃、剣城が部屋長になり、多田を見下すようになった。多田の布団が少しでもズレてると酷く怒鳴ったのだ。
『お前は甘い!もっと自分に厳しくなれ!』
これは、剣城の口癖だった。
多田は徐々に剣城と距離を置くようになった。ご飯も朝昼晩と一緒に食べていたのも、今では別々に食べるようになった。
『剣城と多田って仲悪くなったよなー。』
みんな口を揃えてそう言うようになった。剣城はそんなことないよと気にしていなかったものの、多田はそんなことを言われるのが辛くてたまらなかった。
『嫌になったらいつでも戻ってきていいからね。』多田は富美子の言葉を思い出した。
そして、教官に辞める意思を伝えた。
『‥やめるのか。剣城が原因か?』
多田は少し間をおいて、“いいえ″と答えた。
教官は少し驚いたが、そうか、と言って多田にあることを伝えた。
『いいか、多田。これからお前の人生は苦しいことしかない。楽しみなんてないと思え。ただ、死ぬことだけは微塵も考えるな。今日頑張った自分は明日の自分、明日頑張った自分は明後日の自分になる。そうやって自分自身を築いていくんだ。絶対に死ぬことだけは考えるな。いいな。』
多田は少しだけ涙を流した。声を荒げて泣くことはせず、ただ静かに泣いた。
1998.12.5
雪の降る日だった。多田は母親を車で家まで送り、自身の道場に戻っていた。多田は道場教室を経営していた。なかなか繁盛しており、たくさんの子供に術を教えていた。
『お子さんとっても上手になりましたよー!』
『多田先生の教え方が上手なんですよー!うちの子、毎日多田先生の話ばっかりしてるんですよねー。』
多田は性格もよく、将来性のある子を確実に育てていた。
多田は、毎日が明るく見えるような気がした。
しかし、稽古をしている途中、近くの病院から連絡があった。
『もしもし、多田富美子さんの息子さんの多田総さんで間違いないでしょうか?』
多田は何か嫌な予感がした。
『富美子さんが、意識不明の重体です。』
ガチャン!
多田は黒電話の受話器を落とした。
『みんなごめんな。先生急用が出来たから親御さんたに迎えに来たらもう。ごめんな。』
子供達は口を揃えて“えー!“と言った。
多田は急いで各家庭の家電に電話をかけた。
最後の一人の子供の母親が迎えに来た。それと同時に多田は車に乗り込んだ。
ガタンゴトン!
多田は運転を荒げて富美子のいる病院にたどり着いた。
『母さん!母さんはどこだ?!』
近くにいた看護師が慌てた様子で多田の方に来た。
『落ち着いてください!お名前を!』
『多田です!多田富美子の息子です!』
『富美子さん‥落ち着いてください!こちらです。』
看護師は少し動揺した。
多田は冷静になることがどうしてもできなかった。
ガチャ
部屋の中には医者と看護師がいた。
『多田、総さんですか?』
『はい。』
『実は富美子さん、通り魔と遭遇してしまったそうです。そこに来た警察官に誤射で撃たれてしまいました。富美子さん、即死でした。』
多田は信じられなかった。通り魔とか、誤射とか。
『母さん‥母さん?』
ベッドには真っ白になった富美子がいた。血管の流れが全て止まり、死んでいた。