男女、三人、ヒツジヤギ
「ヒツジヤギを見に行こうよ」
よれよれの雑誌から端正な顔を上げた秋村が、コーヒーのマグを持ったままの左手で、朝食代わりのクラッカーを器用につまみながら提案をしたところで、また一日が始まる。
「秋村ってさ、同時に複数のタスクをこなすと、得した気分になるんでしょう。理系男の習性よね」
扉を開きっぱなしの冷蔵庫に腰掛けている水森がケチをつける。次は僕が喋る順番だと思うけれど、プレイ中のゲームが佳境なので、視線はテレビ画面に置いたままにする。
「確かに合理主義で、何だか表情も少なくてアンドロイドっぽいけど、秋村ほど情に厚い奴もいないんだぞ。知り合った日の内に金貸してくれたし」
「二千円ね。シンちゃん、お金ないのにご飯誘ってきたから」
秋村は目覚めた一分後には顔を洗って髪を整え、薄いひげを剃って、ボタンのシャツとチノパンに着替えて過ごしている。アンドロイドより正確なルーチンだ。
「違うって。あれは最初は金持ってたのに、あの会の奴らが冊子の代金だ何だって、まあいいや。ヒツジヤギっていうのは?」
「そのまま。羊と山羊の交配種だってさ。無理に掛け合わせなくても、勝手に交配することがあるらしい。動物園でもうすぐ二歳の誕生日だよ」
テーブルに広げた雑誌の記事を指でトントン叩きながら秋村は言うが、水森には気に入らない話題だろう。貞操観念は狂ってるくせに環境保全とか動物愛護とか、その手の話題にはキーキーと腹を立てる。
「ひどい話ね。同じ柵の中にいれば、そりゃ交配する事もあるでしょうに」
語尾が少しよどんだのは、ルームシェア中のこの三人の状況と重なるところがあるからか。
「家畜の話だろ」と、僕が言う。
「そうだとしても、よ。人のエゴは行き過ぎてる。動物園なんて必要ないわ」
「必要あるよ。僕は動物園の動物を見るとほっとするんだ。どんなにみじめな一週間だったとしても、檻の中で人参やキャベツをかじるだけの生活よりは大分ましだってね。甘いものだって好きに食べられる。冷凍庫にアイス残ってるか?」
ここ数日まともに寝ていないせいで頭が回らず、糖分を取れば少しはましになるかもしれない。
「残してないんだからあるわけないでしょ。コンビニ行くんなら炭酸水も買ってきて」
ソファとテレビは常に僕が占領し、テーブル椅子には秋村が座っている。冷蔵庫の水森と合わせて、その整わない三角形の距離感が、僕らには丁度しっくりと感じる。
「じゃあクイズで決めようか。負けた方が奢りで買い出しだ」
「いいわ。言っておくけど、私はクイズが得意なの。子供の頃にテレビ局のクイズ大会に出たこともある。本戦には出られなかったけど図書カードを貰ったわ」
「鉄腕アトムのな、百回聞いた。じゃあ出題。世の中に、家畜っていうものが何種類いるか知ってるか?」
水森はぶつぶつと自問自答を始め、やがて正解に思い当たったらしい。
「14種類。本で読んだことがあるの、残念ね」
「惜しい。正解は15種類でした。バニラのアイスとエクレアをよろしくな」
「14よ、間違いない。証明もできる」
冷蔵庫から立ち上がろうとするのを、手を伸ばして制する。
「部屋から『銃、病原菌、鉄』を持ってくる必要はない。君が学生時代にそれを読んだことは僕も知ってる。フェイスブックに感想を書いてたろ。原書ってところを強調したのは鼻についたけど、まあ若気の至りだよな」
水森と知り合ったのは社会人になってからだったが、SNSは全て読み返してある。承認欲求にまみれた文章と、男受けを狙うあざとい写真だらけのひどい記録だけど、疲れやストレスが溜まってくると如実に文章が乱れていくところが楽しめる。
「あんたは陰湿で、ぶくぶく太った自己管理のできない豚男で、そして家畜の数は14種類よ。絶対に正しい」
「本にはそう書いてたな。だけど人間が勘定に入ってなかったろ」
コントローラーを置いて、両手を広げてなるべく挑発的に語る。最近じゃ反応も薄くなったけれど、短気な水森を怒らせるのは僕にとって小さな喜びの一つだ。子供じみた口論に、秋村が同情するような視線を向けていようと関係ない。
「人は家畜なんかじゃないと、僕は強く思う。奴隷制度がジョージ・ワシントンの手で撤廃された世の中では特に」
「リンカーン」と、秋村の訂正が入る。
「リンカーン。だけど水森、君はよく自分を家畜に例えていただろう。私は家畜、私は家畜、会社に飼われて息をしてるだけ。つまり君の世界じゃ人間を加えて15種類が正解だ。Q.E.D。買い出しをよろしく」
水森は通販会社で広報の仕事をしている。飲み屋でバイトをしていた秋村と知り合って、この部屋に転がり込んできたのだが、その頃は精神的にも肌や髪の毛も荒れていて、愚痴ばかり話すろくでもない女だった。結局、会社に労基から調査が入って、残業は大幅に減ったし、休みも取れるようになり、今では冷蔵庫に座って休暇を消化する変な女だ。
「そんなどうしようもない屁理屈で私が納得してお使いに行くとでも思ってるわけ? 絶対に行かないから」
「買い出しなら俺が行くよ。丁度、煙草を切らしてた。シンちゃん、徹夜して疲れてるんだろ」
「常に愛してるぜ、秋村。一緒にエクレアをかじろう」
「行かなくていいわよ、秋村。あなたが甘やかすから、この豚がつけ上がるんだから」
「エクレアね。オーケー」
内部の人間を装って労基に告発状を提出したのは当然、秋村だ。博愛主義で、透き通るような綺麗な肌をしているこの男がゲイであることが、あらゆる女達にため息を吐かせた。別に積極的にカミングアウトしていたわけじゃないが、言い寄られれば正直にセクシャリティを打ち明けて断り、その内容はいつも翌日には周囲に広まっていた。奴らは揃ってクソだった。
「じゃあ、少し待っててね」
しんとした部屋で、水森はじっと秋村が出て行ったドアを見つめている。僕はゲームを続けながら、さあ始まるぞ、と呟く。
「私が付き合ってきた男達は」
秋村がいない時には特に饒舌になる。それも僕に対しては遠慮もなく、不平不満や同僚の悪口、性的嗜好やグロテスクな体験談まで、何でも明け透けにぶちまけた。
「ろくでもない男ばかりだったわ。できれば秋村みたいな人と恋愛がしたかった」
同居する僕らを除けば、水森には友達というものが一人もいない。男に媚びを売っているという理由で、思春期以降はずっと同性から嫌われて生きてきたという。学生時代は常にひどいあだ名がついて回り、低俗な噂話がいくつも流れた。そしてその全てが事実だった。
社会人になって、月に百四十時間の残業をこなしながらでも、既婚者を含む複数の男と関係を保ち続けトラブルもあって、さすがに心身ともに疲れ果て、唯一心配してくれた秋村の勧めでこの部屋に転がり込んで来た時には大人しくしていたが、数ヶ月かけて回復していくと、自然と色情狂としての本能も戻ってくる。だけど事情が違うのはその時にはもう、彼女は秋村と目を合わせたり少し肘が触れたとかで夜も眠れなくなるような、要するに普通の恋の中に落ちていた。
「なら本人にそう言えばいい。あいつは女と付き合ったことがないんだ。自覚してなかったけど実はバイでした、なんて可能性もゼロじゃないだろ」
「そんな単純な話じゃないの。ジェンダーの問題って、こう、とにかく複雑なのよ」
「そうかね。ピースはたった二つ、ゲイとヤリマンがいるだけだぜ」
秋村は工学部の大学院で、何度聞いてもピンとこないような内容の研究をしている。以前は軽く水商売のコミュニティに属していて、時々どこかの男と遊んでいたようだけれど、その手の話をこの部屋の中に持ち込まなかったし、今頃は飲みに行くことも少なくなった。
「私はね、常に恋愛をしていたいの。絶え間なく愛情を注がれていたいの。その私が秋村のせいで、もうずっと我慢をしているの。心も、体もね。この苦しみがあんたにわかる?」
「おい、僕だって恋愛経験ゼロってわけじゃないんだぜ。ちゃんと性欲も生殖器もある、機能するかは別として。君の洗濯物に欲情したことも何度もある」
空気を和ませるつもりの冗談に、いちいち顔をしかめることもなくなって、最近じゃ眉一つも動かさない。
「ねえ、そのゲーム、私も子供の頃にやったわ。叔父の家に置いてたの」
テレビ画面で僕がプレイしているのは古いスクロールアクションの作品で、バランスの良いゲーム性が受けて、80年代にはけっこうヒットしたらしい。
「でも違う。同じような内容だけど、私の知っているゲームじゃない。何かが」
「多分、同じだよ。元はな」
プログラムを書き換えて、キャラクターや背景のデザインを好みのものに変更している。文章を多めに表示させることで全く別のストーリーを表現し、この三日間はBGMを入れ替えつつ短いボイスを仕込む作業に徹し、今は自分でプレイしながらバグが出ないか確認している。
「かわいそうに。あんたはもう、まともじゃないのね」
人間のヒーローがいなくなったゲーム画面の中で、吸血鬼にガイコツを救い出させた。敵役のトロールを尻目に手を取り合って脱出するのはいいが、そのあとは非情な太陽光を浴びて、灰と化す運命にある。
買い出しから戻った秋村にコーヒーを淹れてもらって、テーブルに着いた。甘いものを絶っている水森は、僕の体脂肪率についていくつか皮肉を言うだけで、冷蔵庫から動かない。僕らはプリンを食べながら、ヒツジヤギの話をする。
「関西の動物園だって。でも、他にもいるかも」
「そりゃあ、羊と山羊の掛け合わせってだけだろ、非公式であちこちにいるんじゃないの。その内に犬猫とか鳥ハムスターとか出てくるんだぜ、きっと」
「やめなさいよ、不謹慎」
「うん、それは冗談でもなくてさ、ライガーとかレオポンなんていうのはいるんだから、十分あり得る話だよ」
「だよな。人間だってもっと混血が増えればいいと思うね。誰が何人か、どこがどの国かもわからないくらいややこしくさ」
「人種差別はなくなるかもね。シンちゃん、動物園までの経路調べてもらっていい? 電車、得意だろ」
「模型はな。路線とかはまた別なんだよ。でもそんなに難しくない、新幹線で着いてからちょっと移動するだけ」
「そういえばあんた、電車オタクもやってたのよね」
「だから模型な。Nゲージっていうのがあってさ、マニアのじいさんが倉庫借りてコレクション飾ったり、ジオラマ作って走らせててさ。僕もちょっとスペース借りて作ってたんだ」
「だいぶ熱中してたよね。泊まり込んで作業してたでしょ」
「馬鹿みたい」
「あれもけっこう底なし沼の趣味で、金がかかってしょうがなくてさ。売れそうな物は端から売って、レンジも冷蔵庫もなくなって困って、それで秋村の部屋に入り浸るようになってな。これ、あるだろ」
スウェットの袖をまくって、右腕のケロイド痕を擦る。
「それは火傷したんでしょう」
「倉庫が火事になって、その現場でな。じいさんのコレクションごと全焼、他の人のとか僕のも全部ファイアー。それでもう踏ん切りがついたというか、続けようもないしな。ちょっと助かったよ」
あの光景を思い出すだけで身震いする。真夜中に上がった火柱がどうしても幻想的で、パチパチと火の粉が舞って祝祭みたいで、富める者の道楽が罰せられ、人の営みは簡単に踏みにじられて為す術なく、熱気を浴びながら炎の匂いを嗅いで、野次馬の喧噪と怒号とサイレンが頭にガンガン響いて、僕はよだれを垂らして立ち尽くしていた。トリップ。
「約束の地へ行くんだ」
と、秋村が言う。唐突で、非日常的な言い回しが、彼の口から聞くと不思議と噛み合っている。僕としては「そうか」と答えるだけだ。
「じゃあ今日が最後の旅行だ、楽しもう」
「シンちゃん。君のそういう所が好きさ。出会った時からずっと」
目を細めて笑えば、僕は何でヘテロセクシャルなんかに生まれたのだろうと思わざるを得ない。カルト団体に入ったのは大学一年生の時で、秋村とはそこの集会で知り合った。僕は宗教学に興味があったのだけれど、マルチの側面が強すぎるとわかってすぐに行かなくなった。秋村は僕をかばったせいで周囲と折り合いが悪くなって、結局いくらかの借金を背負ったまま退会した。
「ちょっと待ってよ。約束の地って、それは一体何なのよ。どこに行くの?」
「水森、こういう時は言葉少なに見送ってやるものさ。行き先なんてどこでもいいじゃないか。秋村の選択を信じよう」
「だって寂しいわ」
「もう会えないのか」と、僕が訊く。
「うん。一生、会えないと思う」
旅行の行き先は関西の動物園で、その道中に起こる事を知っている。水森は悲しいからと、そのまま冷蔵庫に座って居残る。新幹線では寝て過ごし、現地の人気店でたこ焼きを食べて、バスに乗って動物園へ行き、ヒツジヤギを見る。感慨はない。ほとんど羊か、もしくは山羊と変わらない。人工的で不完全な姿に見えるし、角度によっては愛嬌のあるただの動物だ。僕らはすぐに見飽きてしまい、また他の動物を見て回るのだろう。
「シンちゃんはさ、ゲームが終わったら次はどうするつもりなの?」
「そうなあ。写真とか絵とか、でも金があんまりないからな。読書でもいいな」
それは自分では選べない。ふいに始まれば他のことが手につかなくなり、食事やシャワーが後回しになって、かゆい頭をボリボリ掻きながら夢中で続けてしまう何か。対象は何でも良くて、ただ撫で回し、味わい尽くす。最高なのはやめる瞬間だ。ゲームに熱中して何十回クリアしても満たされず、とことんまで解析して改造して原型がなくなって、最後には手放すしかなくなる。そのどうしようもない、悶えるようなもどかしさを味わうために、生きている。
「きっと楽しい何かが見つかるね」
約束の地なんて存在しない。あのカルトが掲げていた適当なキャッチフレーズだ。団体はとっくに解散して、だけどその言葉やイメージが、今も折に触れて秋村のスイッチを入れてしまう。『悪魔を滅し、約束の地へ』。たった一人でそれを実行しようとしている秋村の誠実さが、僕も水森も大好きだ。でも救えない。
「動物園に行こう。手紙を書くから少し待ってくれよ。ヒツジヤギに会ったら渡すんだ」
「だけどシンちゃん、動物は字が読めないかもしれない」
「大丈夫、理論的に半分は食べられる。その方が気持ちが伝わりそうじゃないか」
「十分伝わるわね。あんたはまともじゃないって」
呆れて、笑い、救いようがない。三人で暮らす部屋に同じような日々を繰り返されて、いつまでも楽しくて、まるで永遠みたいだ。
目覚めに、秋村がコーヒーを飲んでいる。
「ヒツジヤギっていうのがいるんだって」
何それ、と冷蔵庫から水森が言う。テレビでは吸血鬼が「HELP」と声をあげる。僕はこの世界に呼ばれてくる全てのものを愛したいと思う。モンスターも、ゲイも色情狂も、羊と山羊の合いの子でも何でも。
ヒツジヤギには手紙を渡した。水森の部屋から持ち出した便せんには小さな花の絵が描いてあった。飼育員の隙を突いて柵の向こうに丸めて投げて、見向きもされなかったけど、そのあとできっと届いたと思う。
『こんにちは。ようこそ。楽しんでいるかい』