天国まで未だ遠く
この敵で終わりではない。
他の部隊を壊滅させ、斥候を殺害した「透明な悪魔」は今も生きている。誰にでも理解できる形で根拠を示すことはできないが、私の脳が、感覚器が、心臓がそう確信してる。
「難なく勝利できた」と。
「弱すぎる」と。
目の前の敵の背から剣を引き抜くと同時に頭部を押さえつけていた手を放す。
膝の高さまで伸びる草の上に倒れこんだそれは、2分と保たないだろう。湿っぽい深い緑が広がる赤に侵食されていく。
死にゆく者の手から落ちた剣を背後の泥池に沈める。奪い取ったとて利はない劣悪な性能のものであっても、敵に回収されることは最低限避けるべきだ。
敵は素人だ。地の利があるだけの寄せ集めの民兵で、ろくな戦闘訓練を受けていないことは今の敵の様子からも明白だ。音もなく私の背後数メートルに忍び寄るところまでは見事と言っても良いが、慣れない武器の扱いにまごついているその一瞬で私に気付かれ、まともに振るえない剣を振り上げたその一秒で私に間合いを詰められ、簡単な視線誘導に引っ掛かり武器を取り落としたその刹那で背中を取られた。
新王の即位を機に本国は軍事力を高め領地を拡大していった。年月だけを無様に重ね政治的判断も軍隊も鈍かった北の国、内部での勢力争いの末に自滅した東の国を併合していった。
その本国に対して、このレベルの兵力しか残っていない南の小国がなおも戦線を維持している理由の一つが「透明な悪魔」である。姿形を見た者、声を聴いた者は誰もいない。少なくとも生存者の中には。
神出鬼没、出現パターンも予測不能。発見された死者の傷を調査するとすべて剣の一撃で絶命していたと判明している。
それが同一の人物であると断定するのは危険かもしれないが、それと出逢っていない私の部隊はこれまで順調に勝利を収めることができている。多少は骨のある相手がいたとしても、適切に行動すれば必ず排除できる程度の脅威でしかない。
しかし「透明な悪魔」の被害を受けた部隊は正規軍であり、一流の兵士達である。それにもかかわらず争った形跡がなく、また傷跡には一切の迷いなく「ただ殺すために殺した」という印象を受ける。
ふ、と気付く。私は今、一人だ。
そんなはずない。斥候を失ってもまだ隊長と四人の隊員がいて、行動を共にしていたはずだ。それなのにこの鬱蒼とした森の中、視界のどこにも他者の姿がない。
成程、急にすべての感覚が失われたような心地だ。同じ状況ならパニックになる者が出てもおかしくはない。
だが私の脳はすっと冷えるように、淡々とひとつの考えを導き出した。
誘われている。
敵のフィールドにいる。
密度の高い緑の中で、私は既に敵と対峙している。
他の隊員が同じ状況に置かれたら何をする?
闇雲に走り回る愚か者や慌てふためき立ち尽くす小心者がいたかもしれない。
あるいは「透明な悪魔」の出現を予測し、聴覚や嗅覚を研ぎ澄ませ、次に来る攻撃に備えたかもしれない。
近くの木陰に身を隠し、敵の出現を忍耐深く待ったかもしれない。
つまり、それをすれば負けるのだ。
当たり前だ。敵はここにいる。
私を殺そうとする相手はどこかからもう私を見ているのだ。
どう出てくるかではない。どこにいようが引きずり出さなければならない。
立っていたその場から、一歩踏み出す。
……踏み出すのを止めて足を下げる。
瞬間的に伏せる。
と、同時に剣の鞘を頭上に放り投げる。
「ちっ……!」
急に飛来したものの足先を掠めたそれは、あらぬ方向に飛んで行く。
そして目の前に現れたものは、地面に短剣を突き立てている。
「透明な悪魔」のお出ましだ。
泥だらけの汚らしい、どこにでもいる貧農といった出で立ち。仰々しく澄ました呼び名からは想像もつかない、殺意の籠った瞳。
ろくに肉のついていないそれは――彼女は、小さい子供だった。
成程、これなら近くまで迫っても森にいる猿や兎のような物音しか出せないだろう。強敵が大人だなんていう思い込みで、自分の腹よりも身長が低い子供に命を奪われてきた自軍の愚かさに辟易する。
おおかた相手が一人になったところに上から狙いをつけて、木の弦なんかの弾力を利用して、自分を矢のように射出してきたのだろう。その胆力と動体視力には敵ながら感心する。
私が身体を起こすのとほぼ同時に彼女も体勢を立て直している。不意打ちばかりを重ねてきた相手とはいえ、純粋な戦闘能力も馬鹿にはできない。
彼女がふ、と視界から姿を消す。
私が先程使った手と同じだ。なんてことはない、屈んだだけだ。しかし私と彼女では目的が違う。
私の場合、狙いを逸らすため。
彼女の場合、小さい体格を生かして隠れて私に接近するため。
悪くない選択だ。
相手が私でなければ。
バックステップすると同時に彼女の細い脚が見える。踏み込んだ足の逆の手に握られた刃が私の腹部に襲い掛かって来る。
あと少し身長があれば、あと少し速く飛び掛かれば私の腹部に命中していたはずのそれは、私が彼女の膝を蹴った衝撃で取り落とされ、草の合間に消えて行く。結末としてはあまりにも呆気ない。
痛みの中で狼狽する丸腰の相手。
何十人もの敵兵を一人で殺害した「透明な悪魔」。
彼女と出逢えた、彼女と戦えた、彼女に勝てた。
その幸運は、長く噛み締めていたいけどそんなことはしない。殺せる敵に猶予を与えてはいけない。訊き出すことなど特にない。対話の余地などない。
私が剣を振り下ろす瞬間、彼女はたどたどしく呟いた。
「神様どうか、あわれみを……」
……ああ。ああ。
殺すために殺人をして動かなくなった彼女。
勝つための行動をして勝った私。
似ていると思ったのに。今度こそ私と同じだと思ったのに。
致命傷を負ったら出血して、痙攣して、体温が下がって、例外なく死んで、それで終わりだ。それが真実だ。だから死んではいけないし、勝たなくてはいけないのだ。
「祖国に栄光あれ……」
陥落する北の国に思いを馳せた兵。
「せめて家族だけは……」
身内の安全に希望を持った東の国の兵。
そして、祈る神のいる目の前の彼女。
敵のくせに。負けたくせに。真実を知らないくせに。その先のことを知ることができないくせに。殺されたくせに。
死後に救済があるなんて、憎い。恨めしい。腹立たしい。
羨ましい!
国ですらない少数民族の血を引いて、生まれる前から負けていて、それでも身内の命と引き換えに生き残って、仇の国でいつ死んでもいいとでも言いたげな前線に送りこまれて、戦い続けるしかなくて!
当たり前に祖国が、家族が、信仰が守られると信じながら死んでいけるのが羨ましい!
今回もだめだった。この国も間もなく落ちる。
もっと戦うしかない。
戦い続けたら、殺し続けたら、私と同じような人間に出逢えるかもしれない。
人を殺してでも、何としてでも、自分が生きるために生き続けることを選べる人間がどこかにいるかもしれない。
今度こそ殺し合って、極限まで殺し合って、一緒に死んで。
死に場所こそ天国だと言って。
出逢えるまで私は勝ち続ける。生き続ける。
永遠に平穏など訪れないで。