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一章

 それは、私達が生まれるはるか昔からあった。

 それは時に人や物資を運び、挑戦の対象となり、戦争の道具となってきた。

 さまざまな場面でそれが活躍してきたのは、ひとえに人の願いのためであった。

 より高く。より速く。より遠くまで。

 その願いを忠実に叶えるように、それは高く、速く、遠くまで行けるよう進化してきた。

 そんな願いのもとに人々が乗り込んだそれを動かすのもまた、人であった。

 時に数百人の願いを背に受け、それに乗り込む人の中で唯一前面を見渡すことができる人。

 彼らはまさに、その人だった。

 


 前田弘人から見た新川健はこうだ。

 基本的に真面目。

 基本的に努力家。

 基本的に常識人。

 故郷に帰りたがらない。

 金に無頓着。

 自身に対しても無頓着。

 それでいて人間に対しては割と頓着。

 飛行機の操縦センス、抜群。


 「トウキョウ・コントロール、こちらアビエーションスクール099、降下を要求する」

 〈アビエーションスクール099、こちらトウキョウ・コントロール、1万5000フィートへ降下を許可、維持せよ〉

 空電特有の軽いノイズ交じりの声が、ヘッドホンから流れこんでくる。

 「了解(ラジャ)。1万5000フィートに降下、維持する。アビエーションスクール099」

 ボーイング社製737‐800型機のコクピット。二つある座席の右側の席、副操縦士席に座る前田弘人が管制と交信している。その間、左側の座席。機長席の新川健はNDディスプレイの画面隅へ移動しつつある、なんの変哲もない丸い印を惜しそうに見つめていた。その丸印が最も経済的な降下開始地点である、TODポイントであることを意味していたからだ。この空域は通過機が多く、思い通りの降下許可がなかなか出ないことがよくあった。

 「健、降下、1万5千まで」

 「うん。ラジャ。1万5千まで降下」

 さっきの無線交信は健のヘッドホンにも聞こえていて、内容は当然知っているが彼は復唱する。復唱はこの世界での大原則だ。

 健は右手を高度セレクター・ノブに伸ばし、1万5000の値まで左に回した。それに的確に呼応し、彼らの十数メートル後方にある主翼の下に吊り下げられている二基のエンジンは推力を弱め、重量約70トンの機体はゆっくりと降下を始めた。コクピット中央のディスプレイには、絞られるエンジン推力、それにより変化する高度と速度が、千分の一秒単位で刻々とデジタル表示になって表れる。

現在の速度はマッハ0.76。音速の76パーセントで、健と弘人は移動している。

 「健。さっきの雲、どう?」

 降下を始める前、北海道の南西部には横に広く背の低い十二月特有の積乱雲があった。降下を始め、雲中を飛行している今はもう目視することはできない。健は気象レーダーのレンジを切り替えた。白銀の世界を作っているであろうその雲は、レーダー上に黄と赤の鮮やかな色で表れた。

機上の気象レーダーにおいて黄色は厄介、赤は最悪の部類である。

 健はNDディスプレイ上の目的地の西側にあるその鮮やかな色の塊を、恨めしそうに見ながら答えた。

 「良くない。ちょうどアプローチする頃にかかりそうだ。今の視程は?」

 先ほどACARS(対地デジタル通信装置)でプリントアウトしておいた英字文面をちらっと見て、弘人は答えた。

 「今は1200。着く頃にはもっと悪くなるか」

 目的地である新千歳空港は昼前から断続的な雪で、現在の視程は1200メートル。おまけに先ほどから吹雪き始めているようだった。

出発前の予報では風雪が強くなる前に到着できそうな見込みであったのだが、このままではそうもいかないようである。しかし、いかんせん相手は大自然。予定通りいかないことなんてしょっちゅうだった。それに、着陸可能な気象条件を下回ってしまった場合は羽田に引き返せばいいだけ。

 だけなのだが―

 「なるったけ急ぐぞ。もたもたしていると、降りられなくなるかもしれない」

 強く、健が言う。

 今回のフライトは事情が違っていた。健の着ているジャージのポケットに入っている一枚の封書の文面が、二人とも頭から離れないのだ。

 『何があっても新千歳に降りてください。理由は国家機密なので内緒です』

 クルーズ、所謂『巡航高度』まで到達したら上空で開けるように、と森教官から渡された封書には、教官の綺麗な楷書体でそう書かれていた。

 3万5千フィートの高空で、二人は首をかしげた。

 すぐにスクールラジオで羽田校に問い合わせだが、「文面以上のことは申し上げられない」の一点張り。

 飛行中のシップの全権限はPIC(パイロット・イン・コマンド、第一指揮順位)、である左席に機長として座っている健にある。機体がどの空港に着陸しようが、健の判断で決定して構わないのだ。しかし、彼らは国から雇われている国家公務員の身分でもあった。国家機密と言われれば従うほかない。

 〈アビエーションスクール099、サッポロ・コントロールにコンタクトしてください〉

 東京コントロールから管制移行が伝えられた。弘人は無線機の周波数を札幌コントロールに合わせ、1万6千フィートを通過中の旨を伝えた。

 〈アビエーションスクール099、そのまま7000フィートまで降下してください〉

 それを聞いた健は、すかさず高度セレクターを7000にセットする。先行機との距離は大分あるから、制限値いっぱいの速度と降下率を使うことかできる。さっきのレーダーの様子だと、吹雪が強くなるまであと十数分かそこらだ。1マイルも1ノットも無駄にはできない。

 健は、思考をこの先の空域へと向けた。

 降下開始ポイントを過ぎての降下、まだ処理しきれていない高度、千歳までの残り距離、維持すべき降下率、これらを総合的に判断すると、この先の高度1万フィートからの操縦次第で天候悪化までに到着できるかが決まると、そう判断した。

 高度1万フィート以下は、250ノットの速度制限がある。公道の自動車のように、飛行機にも法律で定められた制限速度というものがあるのだ。

 「オートパイロットに、国家機密までインプットできりゃあ便利なんだけどな」

 機体の垂直方向の演算装置である「V・NAV」では、高度1万フィートで法定制限速度の250ノットまで減速するようにプログラムされている。しかし、その命令を受け取ったオートパイロットは機体のピッチを上げることで減速させようと試みる。ピッチを上げた機体は降下率が減少してしまうので、思うように高度を消化できなくなることを健は危惧していた。

 〈アビエーションスクール099、機首方位0度まで左旋回、高度3000フィートまで降下してください〉

 着陸予定の新千歳空港の滑走路01Rへの最後の左旋回の指示とともに、進入高度3000フィートが指示される。立て続けに降下指示が出ているということは、目的地までの距離がもうあまり残されていないことを意味していた。

 高度1万フィートが近づいてきている。

 V・NAVがプログラムされた通り、制限速度250ノットまで減速すべくオートパイロットに指示を送る。

 機首が上がり始めた。

 加えて高度一万フィート以下では、着陸灯を点けなくてはいけない。

 健の指示が出る。

 「ランディングライト、オン」

 「ラジャ。ランディングライト、オン」

 白い。

 着陸灯に照らされた前方は白一色だった。

 これ以上縦方向に大回りをしたくない。最終進入に間に合わせるにはこの旋回が終わるまでに一気に高度を殺すしかない。

 健がそう思考したのと、オートパイロットが残りの距離と現在の高度から計算を終えたのはほとんど同時だった。健がスピードブレーキ・レバーに手をかけた瞬間、オートパイロットはまさにそれの使用を要求してきた。コンピューターのお望み通り、健はレバーを思い切り引く。

 空気抵抗を増やした機体の降下率は毎分3000フィートに達した。そのまま25度のバンクで左に旋回する。降下率を増した機体は適正な降下パスに近づきつつある。

 いける。

 健は確信した。

 このままのスピードでいけば最終進入までに必ず高度を消化することができる。

 健は身震いした。ジャージの袖で隠れてしまっているが、彼の両腕には鳥肌が立っていた。自分の思い通りに機体をコントロールしているこの瞬間こそが至高だ。これだから飛行機はやめられない。と、調子づいている場合でもなかった、着陸に備えてさらに減速しないといけない。

 「フラップ1!」

 指を一本立てて、右隣にオーダーを出す健。それを見て、弘人はニヤリとして復唱する。

 「ラジャ。フラップ1」

 手振りを入れてオーダーを出すのは誤操作を防ぐために推奨されていることだ。でも、健はテンションが上がった時くらいしかこれをやらない。そしてそれを知っているのは、同期生の中でも弘人だけだった。

 フラップレバーが1度のポジションまで引かれ、翼をさらに大きく広げた機体は、より多くの揚力を得ることができるようになり、同時に空気抵抗を増していく。

 適正な降下パスに乗ったのでスピードブレーキをたたむ。無線でATIS(航空気象情報)を聞いている弘人が不安そうに言う。

 「新しいウェザーがきた。天候は雪。ウインド315度から12ノット、ガスト(最大風速)16。視程は・・・・・・900!どうする」

 不安げなのは口調だけで、弘人の内心は期待満々である。口元は明らかに笑っていた。この程度の気象条件、健なら問題なく降ろすことができるからだ。健が応える。

 「もちろん進入続行。フラップ5。ワイパーオン」

 「進入続行。フラップ5。ワイパーオン」

 視程が下がり始めている。さっきの雲がかかり始めているようだが、ILSカテゴリーⅠの視程制限550メートル以下になるまでにはランディングできそうだ。ショートカットが効いている。

 〈アビエーションスクール099、滑走路01Rへの最終進入を許可する。千歳タワーにコンタクトせよ〉

 いよいよ最終進入だ。右席の弘人が千歳タワーに周波数を合わせ、3000フィートまで降下中の旨を伝える。その間に健は天井からHUD(ヘッドアップ・ディスプレイ)を降ろした。前方を見ながら、高度と速度と機体の姿勢をチェックできる優れものだ。

 健のオーダーが続く。

 「オートパイロット、ディスコネクト!」

 「ディスコネクト!」

 〈アビエーションスクール099、そのまま進入を継続、ローカライザー、及びグライドスロープ迎合まで3000フィートを維持してください〉

 ILS、着陸誘導電波のうち水平方向のものをローカライザーという。この電波に合わせるように飛ぶと飛行機は自動的に滑走路に正対することができる。新千歳空港の滑走路01の進入はストレートインなのでこの点は楽だ。健はHUDを覗き込んでローカライザーのポインターを中央に捕らえる。しかし覗き込む先、滑走路は白銀の幕に覆われていて未だ見ることができない。

 「ローカライザー、キャプチャ」

 誘導電波を捉えた旨を、弘人がコールする。 

 左前方からの風が小刻みに息継ぎし、機体はそれをなぞり小刻みに揺れる。ある程度は好きに揺らさせながら、HUDの右側、垂直方向の誘導電波であるグライドスロープのマーカーが降りてくるのを待ち構える。

 彼ら二人の頭上数メートルから徐々に近づいてきたそれは、計器に一つのマーカーとなって表れた。弘人のコールが続く。

 「グライドスロープ、キャプチャ」

 さらにそれに続き、健がギアダウンとファイナルフラップのセットを指示した。上下左右全て白、完全なホワイトアウトの中、時速約260kmという新幹線並の速さで70トンの機体は目に見えない電波だけを頼りに進入を続ける。滑走路はまだ見えない。

 「ランディングチェックリスト、コンプリート」

 弘人が着陸前のチェックリストを読み上げた。この先、弘人は高度をモニターしながら機体や周囲の監視を行う。彼は身を乗り出している、滑走路灯を見つけようとしているのだ。

 〈アビエーションスクール099、滑走路01R着陸支障なし。ウインド320度から11ノット。滑走路南端に地吹雪の通報あり、十分注意されたし。現在の視程は800メートル〉

 「ラジャ、着陸支障無し。サンキュウ。アビエーションスクール099。800だってよ、いけるか?」

 「行かなきゃ、次はなさそうだぞ。ワイパーフル。オートスラスト、ディスコネクト」

 「だな。ワイパーフル。オートスラスト、ディスコネクト」

 ワイパーを最大速度で動かしながら、健はオートスラストを解除し、スラスト・レバーに右手を乗せる。右手でパワーを、左手でピッチとバンクを、両脚で機首方位をコントロールする。これから先、この機体の制御は全て健の両手両脚だけで行われる。彼の一挙手一投足がそのまま、70トンの機体の挙動となるのだ。

 外気温は確かマイナス5℃のはずだが、健には上着のジャージとサッカーパンツが汗で湿っていくのがわかった。エアコンの設定温度を下げておけばよかったと思った。必要以上に風上に機首を向けないよう、そして風下に流されないようにフットサルシューズでラダーペダルの加減を伺う。

 地吹雪に入ったのか、目の前の白がより濃さを増し、ランディングライトに照らされ時折キラキラと銀色に光る。健は遠目で滑走路を探しつつ近目で誘導電波のマーカーも監視し、その他全ての感覚をフルに使って機体の姿勢の変化を感じ取った。1フィートでも、1ノットでも、1度でも予想と違う変化を感じたらすかさず計器で確認し、瞬時に誤差を修正する。

 いける。

 誘導電波を一瞬たりとも外さない。進入速度も安定している。完璧だ。彼ら二人がそう思った時、その時だった。

 ガクン!

 瞬間――、機首が持ち上がった。健はすかさず機首を下げようと試みる。するとどうだ、今度は逆に機首はどんどん下がり始めた。慌てて操縦桿を引き、ピッチを上げようとする。

 「おい!なんだよこれ!?」

 計器を見ながら弘人が声を荒げる。エアスピードメーターをチェックしているようだ。

 「スピードが!エアスピードが落ちてるぞ!それに高度も!ウインドシアじゃないのか!?」

 一瞬のピッチアップの後の急降下はウインドシア、マイクロバーストに入った時に見られる現象だった。しかし、マスターウォーニングライトは点灯していない。警告音もない。なにより、マイクロバーストに入った時に発生する一時的なエアスピードの増大がなく、速度は減る一方なのだ。それはあり得ない。

 機体の両翼がバタバタと小刻みに振るえ始めた。それは翼から空気が剥離しかけている証拠だった。失速の前兆だ。振動で健の視界が震える。HUDの数値の光が読めなくなっていく。そのHUDの向こうに、違う輝きを見つけた。

 「くっ!と・・・・・・、アプローチライト、インサイト!」

 操縦している健は前方から目を離すことができない。弘人は計器をチェックしてどこに異常があるかを探している。進入灯は見えたものの降下率が過大になりつつある。スラストレバーを前に押し、パワーを上げる健を見て、弘人が叫んだ。

 「ピッチ!ピッチも!ピッチをもっと上げろよ!」

 「馬鹿野郎そんなことしてみろ一気にストールするぞ!そんなことより高度は!ミニマムまであとどれくらいだ!」

 「あ、アプローチング、ミニマムっ!」

 「チェック!」

 もうすぐ着陸決心高度だ。それまでに機体を安定させられなければ着陸復行しなければならない。だが復行するにしても、エアスピードが上がらなければ再上昇できず、滑走路に叩きつけられるだけだ。健の顔にも焦りの色が見え始める。くそっ!さっき増やしたのに、パワーはまだ効いてこないのか!

 と、憎しみをこめてちらと見たスラストレバーのその左隣。一本のレバーがありえない位置になっているのが目に入った。

 戻したはずのスピードブレーキ・レバーが、展開位置になっている。

 健が叫ぶ。

「お前がっ!癌か!!」

 彼はスピードブレーキ・レバーを前方に思い切り殴り叩き、スラストレバーを押し出しパワーを更に上げた。ヒューンという音とともに、二基のCMF56‐7Bエンジンが唸り立ち上がる。

 弘人が叫ぶ。

 「ミニマム!」

それに続けて健もさらに叫ぶ。

 「コンティニュー!」

 「マジで!?降りんの!?」

 「降ろさなきゃ、どのみち堕ちちまうだろうがっ!!」

 揚力は取り戻したものの70トンの慣性はすさまじく、機体は依然として沈降を続けている。彼らの眼前には過大な降下率によるのか、滑走路がいつもより大きく広がって見えていた。本能的に機首を上げたい衝動に駆られるが、エアスピードを失っている今、それだけは絶対にできない。失速してしまうからだ。

 弘人の叫び声が続く。

 「頭!頭上げろ!」

 「まだだ!まだ・・・・・・まだっ!パワー!パワー!」

 二人の足元に進入灯の光が線になって流れていくのが見える。高度はあといくつだ!?頼む!早くパワーが効いてくれ!

 そう祈った瞬間、二人は背中と尻に圧を感じた。パワーが効いた証拠だった。エアスピードが回復に転じる。

 今だ!

 健は操縦桿を引き、我慢していたピッチを上げる。墜落寸前だった機体は安定し始めたが、今度は降下率が過少になりつつある。慌ててパワーを絞り、ピッチを戻す。鹿皮の手袋を持ってきていないせいか、汗で操縦桿が滑る。

 『ワンハンドレット』

 電波高度計の人口音声が淡々と高度を読み上げる。

 『フィフティ』

 接地目標が足元を通り過ぎた。

 『サーティ』

 だが、どのみち降ろすしかない。

 『トゥエンティ』

 スラストを、アイドルまで下げる。

 『テン』

 ピッチを僅かに上げ、フレアーをかける。

 続いて足元から伝わった軽い振動は、機体が墜落ではなく安全に着陸した証拠だった。

だが。

 「おい!止まれるか!?」

 弘人が叫んだ。

 接地目標点を大幅に過ぎて着地したために滑走路が残り少ない。健はリバース(エンジンの逆噴射)とグラウンドスポイラーをすぐに展開するが、思うように速度が落ちない。オートブレーキはMAXにしておいたはずなのだが、最後に降下率を減らしすぎたせいで滑らかに接地したギアは、路面になかなか食いついてくれない。すぐにブレーキペダルを最大に踏む。

 「っ・・・・・!止まれ!」

 「止まれ止まれ止まれ!!」

 弘人も一緒になってブレーキペダルを踏んで、足をつっぱりながら叫んでいる。目の前を流れる白い滑走路の奥から、末端を示す赤い灯りが迫ってくる。

 「「止まってくれえ!」」

 がくんっと、フルブレーキからの軽いゆり戻しの衝撃とともに機体は停止した。リバースで巻き上げられた雪煙で何も見えなかったが、やがて一面白の世界からうっすらと赤い灯りが見え始めた。新千歳空港の滑走路01Rの末端ギリギリ手前で、ボーイング737‐800型機は停止していた。


 「オーケー、そこまででいいですよ。お疲れ様でした」

 操縦席の後ろから労いの声が聞こえ、パッとフロントガラスの向こうが真っ暗になった。

 彼ら二人の後ろの座席にには、一人の初老の男性がいた。

 名を、森という。

 部長教官である森教官が、そのしわの刻まれた目尻をにっこりとさせながら微笑んだ。薄暗かったコクピット全体に灯りが点き、操縦席の二人の意識は北海道の新千歳から東京の羽田に戻された。

 「いやあお見事だよ。流石我が校の次席パイロットだ。前田君もよかったよ。きちんと機長との連携がとれているね」

 「・・・・・・どうも」

 「アリアトゴザマス」

 部長教官直々のほめ言葉も、彼ら二人の疲労を和らげるものにはならなかった。二人の身体はまだ、失速間近の機体と戦っていたときの緊張状態にあった。

 「先にブリーフィングルームに行っていてくれるかな」

 フル・フライト・シミュレーターにブリッジが架けられ、ドアが開いた。ブーン、という独特の機械音と無機質なにおいがするシミュレータールームを、ジャージにサッカーパンツの装いをした若者二人がとぼとぼと歩いて出て行く。フットサルシューズのソールが、ピカピカに磨き上げられた廊下の床に触れてキュッキュと鳴る。肩にかけたスポーツバッグが重い。ボールとタオルくらいしか入っていないはずのに。

 「あーもうっ!あんなのアリかよ!」

 ブリーフィングルームのソファにバッグごとダイブした弘人。弘人はそのままソファのスプリングを使ってぼよんぼよんと上下運動を続ける。それを「壊すなよ」という思いをこめ、健は一瞥した。

 「うるせえ弘人。疲れてるんだから静かにしてくれ」

 健はドア横のコート掛けの下にバッグを下ろし、テーブルを挟んで向かいのソファ――は、教官が座るから、仕方なくうつ伏せでソファを占領するオンの背中に座った。仕方なく、である。

 「ぶぁいぶぁいぎょうはオブだのに、だんであんだごぉとやらざれなぎゃ……」

 「データ取りたいんだってさ。森教官、本局の審議官も兼ねてるだろう。インシデント対策のデータ取りだろ」

 健は壁に掛けられた額縁入りの絵画に目をやりながら言った。あれ、また絵が変わっている。数ヶ月に一回くらいでブリーフィングルームの絵が変わるのは、この学校の七不思議の一つ。

 「その通り、おかげでいいのが取れたよ」

 両手を器用に使ってコーヒーカップを三つ持った森教官がニコニコしながら現れた。

 「お、お疲れ様です!」

 慌てて健を振り落し弘人はソファから飛び起きた。

 森教官はきさくな先生だからこんな醜態を見せても眉ひとつ動かすことはない。でもその実、業界で『モリカズヒト』の名を知らない者はいないくらいの、わが国で五本の指に入るほどの名パイロットだった。全生徒の憧れでもある。

 「リラックスしてくれてかまわないよ。正式な訓練じゃないからね。ああ、これは私の奢りだよ。前田君はブラック、新川君はミルク多目の砂糖無しだったね」

 シミュレーター訓練のときはいつもコーヒーを奢ってくれる森教官。本局でついたあだ名はバリスタキャプテンとかなんとか。この人のすごいところはその操縦技術や指導能力もさるとこながら生徒、教員全員のコーヒーの好みを完全に把握しているところにもある。

 「いつもありがとうございます」

 二人は立ち上がって森教官からコーヒーを受け取り、改めてソファに座り直した。「失礼」と言いながら森も向かいに腰掛け、脇に挟んだファイルから書類を取り出す。

 「まずはお疲れ様でした、オフの日に悪かったね。その格好、今日はクラブ活動があるんだろう」

 森教官は彼ら二人の服装を見て言う。彼ら二人は、どこからどうみてもコックピットに入るような格好ではない。今日は午後からフットサル部の活動があるので、朝からこの格好なのだ。どうせ後で汗をかくから、という理由で。

 「部活は午後からでしたから。でも、シミュレーターに乗るならそうと前もって仰っていただかないと。手袋が無いと困ります」

 健は軽く笑いながら答えた。フライトに必要な資料一式やヘッドセットは教官が予め用意してくれていたが、手袋だけは各自サイズが違うからそうはいかなかった。

 「事務に問い合わせたら、今朝から羽田にいてオフだったのは君たち二人だけだったからね。急ぎ取り次いでもらったんだよ」

 食堂で朝食を摂り終えた健と弘人は、午前中の体育館の利用割り当てが空いていないか事務室に尋ねに行った。丸一日オフなので、朝からボールでもいじって遊ぼうと思ったのだ。彼ら二人を見つけた事務屋のお姉さんは返事もそこそこに、森教官が来るからそのまま待つよう言い、シミュレーター担当の職員と何やら急がしそうに準備をしていた。そこへ現れた森教官に、羽田―新千歳の模擬操縦をやるよう言われ、二人はシミュレーターに放り込まれたのだった。

 森教官は取り出した書類にざっと目を通し、その中の数枚を机に置く。先ほどのフライトデータだった。

 「君たち二人のコンビは相変わらずいいね。キャプテンの飛ばしたい方法を、コパイがきちんと理解していなければああはいかないよ。ではまず、感想を聞こうか。どうだったかな?」

 「「なんで・・・・・」」

 「ん?」

 「「なんでスピードブレーキが勝手に開くんですかっ!!」」

 「ははは」

 唾を飛ばしつつ教官に迫る二人の挙動は全て揃っていた。何からなにまでハモってしまった。これが名コンビゆえんか。

 そしてこれは、「ははは」で済まされるような事態ではない。

 「それとこれです!」

 健はポケットから封書を取り出しテーブルに叩きつけた。件の『何があっても千歳に降りてください。理由は国家機密なので内緒です』の紙だ。

 「ダイバードも引き返しもできないなんてことがあるんですか?そうならせめて、ブリーフィングで言ってくださいよ。ホールディング(上空待機)できるだけの燃料、もっと積んでいったのに」

 「その手紙に特に意味は無かったんだよ。ただ、操縦する人間に少しだけプレッシャーをかけたくてね」

 ニコニコ笑いながら森教官はコーヒーをすすった。

 「君たちは非常に高度な訓練を積んできた優秀なパイロットです。大抵のトラブルには難なく対処できるだけの能力は十分に備わっています。すぐにラインに出しても恥ずかしくないくらいにね。でも、実際のラインでは様々な状況下でも適切な対処ができなければならない。複数のトラブルが重なる時、限定的な選択肢しか選べない時、そしてその両方が同時に起こることだってある」

 「それがこの手紙とうぅっぷ、スピードブレーキですか?」

 いつのまにかコーヒーを飲み干した弘人が、げっぷ混じりに尋ねた。

 「飛行中の不可解なスピードブレーキの展開は過去にも例がある、そうでしょう」

 森教官はちらと健の方を見て言う。答えてみろということだ。

 「確かに、過去にそういう事例はありました。でもそれはボーイング737でも1960年代、大昔の話です。現代の、それもNGシリーズの737で起こり得るとは思えません」

 「その通り、よく勉強しているね。現代の航空機ではまずそんなことは有り得ない。でもそれは、もしあれがトラブルでひとりでに展開したらの話、だろう?」

  森教官はコーヒーを置いた。

 「新川君は最終進入中、ずっとHUDを見ていたようだったけれど、スラストレバーに触るときに手元を確認したかい?誤って手前のスピードブレーキレバーにも触れた可能性は考えられないかな?」

 「それは・・・・・・」

 「確かに最終進入中は機体の姿勢と滑走路の視認に最大の注意を払うべきだけれども、ほんの一瞬、スラストに手を置く瞬間くらいは手元を確認するべきだったんじゃないかな。オートスラストを外した時の推力調整は、機体の生死に関わる操作だろう」

 その通りだった。健は誘導電波を外さないこと、着陸進入灯を視認することだけに集中していた。

 「やーい、怒られてやんのー」

 「前田君も――」

 びくん!

 弘人が震えた。

 「PF(パイロット・フライング、操縦している者の意)がHUDを使って進入している時は滑走路の視認よりも、他に異常が現れないかきちんとモニターしなければいけませんよ。仮にPFが見落としていたとしても、PNF(パイロット・ノット・フライング、操縦していない者の意)である君が見つければ済む話なのだから」

 「ハイ、スミマセン・・・・・・」

 「やーい、怒られてやんのー」

 「はははっ。まぁスピードブレーキの展開については、最終進入中に勝手に開くように私がプログラムしておいたんですけどね」

 「やっぱり・・・・・・」

 でも確かに、スピードブレーキが展開していることをどちらか一方がもっと早く見つけていれば墜落寸前までいかずに、滑走路を限界まで使うこともなく着陸できたはずだ。

 「説教臭くなってしまって悪かったね、ちょっとそこだけ目に付いてしまったものだから。さっきも言ったように、君達二人の操縦はとてもよかったよ。現役のラインパイロットの平均以上の能力があるといってもいいでしょう。ここだけの話、同じプログラムを現役何人かにやってもらったけれど、半数近くはそのまま滑走路手前に堕ちたり、機体に損傷が起こるくらいのハードランディングをしてしまったからね。最終進入中に失速しても、どんなことがあっても絶対にピッチを変えてはいけない。こんなこと、パイロットなら誰でも知っていることだけれど、緊急事態でもきちんと対処することは意外と大変なんですよ。いざそうなると恐怖から、エアスピード欲しさに機首を下げたり高度を稼ぎたくて機首を上げたくなったりするからね。その点で言えば、新川君の操縦は完璧でしたよ」

 偉大なパイロットに褒められることは滅多に無い。ちょっと伝わらないかもしれないが、これはものすごく嬉しいことだ。

 「あ、ありがとうございますっ!」

 「いーなー、褒められてやんのー」

 弘人が横からちゃちゃを入れる。

 「とにかく、今回はデータ取りのためにやってもらった飛行訓練だから、特別な意味はないからね。おかげでいいデータが取れたし、我が校の生徒は極めて優秀ということまでわかったしね。これで本局の連中の鼻も明かしてやれる。一石二鳥だったよ、本当にありがとう」

 今日一番の褒め言葉を頂いた。

 「他に何か質問は無いかな」

 「ありません」

 「ありませーん」

 「それでは、今回の訓練はこれでおしまいです。ありがとうございました」

 「「ありがとうございました」」

 森教官は書類をファイルにしまい始め、「それは私が戻しておきますから」と、彼ら二人の分のコーヒーカップを取り上げた。

 「私はこれから空港の方に行きますが、君達もよかったら一緒に行きませんか?昼食をご馳走しますよ」

 それはいくらなんでもちょっと人が良すぎやしないか。コーヒーも奢ってもらってるわけなのでここは――

 「すみません。さっきの反省点をまとめておきたいので。昼から部活もありますから――」

 「是非またの機会にご馳走になります」

 「弘人。少しは遠慮を」

 「ははは。それじゃ次の機会に」

 全くこいつは……、と、頭に手を当てた健は、ふとあることを疑問に思った。この訓練フライトにおいて、一つだけ腑に落ちない、現実に則していないと思われる点である。

 「教官。ひとつだけ質問が」

 「なんですか?」

 「あの手紙、プレッシャーをかけるために、と渡された封書にあった『国家機密』って、本当にそんなのが関わっているフライトがあるんですか」

 「あれはなんというか、君達の身分を少しだけ利用させてもらった脅し文句みたいなもので、私なりのジョークですよ」

 「ジョーク、ですか・・・・・・」

 「私も君達も国から雇われているパイロット。所詮は国家公務員の一員です。国からの命令であれば、当然それに従わなければなりません。それに・・・・・・」

 「それに?」

 「国家機密っていうと、なんとなく格好いいじゃないですか」

 還暦間近のグレートキャプテンは、恥かしそうにぽりぽりと白髪頭をかいてみせた。森教官が無類の洋画好きであることを、健はようやく思い出した。


 東京モノレールで都内から羽田空港へ出かける時、天空橋駅のひとつ手前に整備場駅があるのはご存知だろうか。一般の人には馴染みの無い駅名であるし、そこで乗り降りしている人を見ることもあまりないかもしれない。その名の通り各航空会社のメンテナンスセンターがあるのだが、ほかにも航空局や海上保安庁の庁舎があり、一大航空拠点になっている。

 その一角に、国立航空学校の羽田本校はある。

 通称航学。操縦士、整備士、客室乗務員という航空事業従事者を養成するための国立学校だ。ここで学んだ航空従事者は在学中から国家公務員の身分を与えられ、卒業後は国から各航空会社に出向という形で各航空会社の制服を着て乗務または勤務することになる。

 民間の航空会社の社員をどうして国が養成することになったのか、という点について色々と理由はあるのだが、どうやら安全性の確保のためというのが最大の名目らしい。

 昔々、いつだかの航空規制緩和と大不況以来、数多くの新規航空会社が設立され、その多くは低運賃を売りにするものだった。増え続ける航空需要の一方で、ベテランパイロットの大量退職によりパイロット不足が起こる中、航空会社はこぞって低賃金で働かせることのできる外国人や経歴の浅いパイロット、整備士を雇うようになった。国籍もばらばら、受けてきた訓練もまちまちなスタッフは時にアクシデントや重大インシデントを引き起こす原因にもなったという。

 そのため国は、航空輸送の根幹にかかわる操縦士や整備士等を自前で養成し、各航空会社に有償で貸し出す仕組みを造り航空業界人材の安定供給を図るようにした。そのための養成機関が航学である。もっとも外国人スタッフに言わせれば、これは日本人の社員を安定雇用するためだけに作られたシステムなのだという。

 とはいえこうした理由のために航学は設立された。ちなみに、どうして客室乗務員まで養成しているのかという疑問を抱く人もいるかもしれない。しかし客室乗務員は飛行機を飛ばす上で保安要員として必要不可欠な存在だ。一見接客をしているだけのように見えるが、とても専門性が高い職業なのだ。

 そんな『航学』には、学科はそれぞれ操縦科、整備科、客室科の三つがある。どの科が何を養成するところかはもう、字面を見ればわかるだろう。

 この三つのうち、操縦科と整備科は中学校を出た全国の少年少女から選抜され、客室科は高卒以上から選抜される。

 操縦や整備はとても専門性が高いので養成に時間を要する。最初の三年でプロとして最低限必要なライセンスや技術を取得し、その後の二年で一人前のラインパイロットや整備士としての技術を磨く。そして最後の一年間に、実際に各航空会社の制服に袖を通し、学校に籍を置きながら兼務で実際の定期便に常務し、一人前の社会人としての仕上げを行う。それぞれ前期課程、中期過程、後期課程といい、客室科の学生は中期課程以降の三年間のみ航学に在籍する。操縦と整備はトータル六年間、飛行機漬けの生活が続く。

 航学十二期生の弘人と健は現在5年目の中期課程、季節はもう十二月。再来年の三月で卒業だが最後の一年間は学校に通う事も少なくなるから、実際に航学にいるのはあと三か月しかないことになる。本当に飛行機漬けの毎日だった。もちろんこれからも飛行機漬けの毎日なのだろうけれど、それでも卒業が近づくとなると、彼らも少し寂しい気持ちにもなるものだった。


「じゃあ三十分後に部屋の前で」

 そう言い手を振る新川健の背中を、前田弘人は「おう」と返して見送った。先ほど森教官に話していた通り、フライトの反省点をノートにまとめるため自室に戻るのだという。

 やはり健は違う。

 今日のフライトを見て、弘人は改めてそう感じた。

 あれだけの困難な状況で無事にランディングを成功させ、あの森教官から「現役のラインパイロットの平均以上の能力がある」とまで言わしめた。(お世辞かもしれないが)

 だがあの場において自分は、迫りくる地面への恐怖からピッチを上げる事を要求してしまった。健がそれに応じてピッチを上げていたら、恐らく機体はストールし、滑走路の手前に叩きつけられていたに違いない。

 羽田に引き返すだけの燃料がまだ残っている機体。

 炎上するのは確実。

 あの吹雪では空港の消防隊が到着するまでに一〇分以上はかかるだろう。

 コクピットが無事である保障も無いから、すぐに健が脱出命令を出せるかもわからない。

 客質乗務員が適切な行動を取ったとしても、乗客全員が無事である保証は無いだろう。

 『そんなフライトで、後ろに大事な家族を乗せることができるのか!!』

 訓練での教官達の怒鳴り文句を思い出す。

 そう教官達からどやさせる度に弘人は自身の弟妹を想い、これではダメだと奮起し過酷な訓練を乗り越えてきた。

 「……あいつには、それが無いのにな」

 前田弘人は、新川健という人間に、家族の影というものを見たことがない。

 健と弘人は操縦科の同期であり、かれこれ五年近い付き合いになる。今では親友とも言える間柄であるし、彼の家庭環境について多少なりとも知るところもある。


 あれは確か、最初の七月の終わりだったか。

 「札幌には両親と、それに三つ上の姉がいる」

 入学した年の最初の夏休み直前、実家に帰省するクラスメイト達との談笑中に健がそう言ったのが最初だった。航学には日本全国から生徒が集まっているから故郷談義になることはよくあったが、それに対して健が口を開くことは珍しく弘人はこの一言をずっと覚えていた。

 遠方から出てきている生徒は他にも大勢いる。中でも北海道から出てきた健は、さぞ帰寮期限ギリギリまで故郷に留まっているだろう。

そう思い、他の同期生の中でもかなり近場である、横須賀の実家から期限より少し早く帰寮した弘人は、寮の窓口で帰寮手続きを受ける時に意外な人物に出くわした。

 「お前……、何してんの?」

 「事務屋さんが一人、遅い盆休み取るっていうから代わりに手伝ってたんだよ。『前田弘人帰寮』、と。お前、随分早く帰ってきたのな。実家、横須賀だろう。近いし、台風来ても陸路でちゃんと帰れるんだから、ギリギリまでゆっくりしてりゃよかったのに」

窓口の向かい側、カウンターの中で弘人の帰寮書類を記入する新川健の姿があった。

 「お前はいつ帰ってきたんだよ」

 書類から目を離そうとしない健を、書面と同じ高度から覗き込みながらそう言った。

 「いつ帰ってきた、というか……」

 記入が終わったものの、そのまま目線を上げずに書面に目を落とす健は少しあってこう続けた。

 「そもそも帰ってない」

 そう言い終わり、何とも言えない微妙な笑顔で顔を上げた健を見て、弘人は初めて彼の人間味ある面に触れたと思った。


 この後に外泊簿を見て知ったことだが、この年の一年生には操縦科と整備科に一人づづ夏季休暇に帰省しなかった学生がいた。

 その操縦科の学生が新川健だった。

 それから弘人は、健のことを何かと気に掛けるようになった。授業や訓練の合間によく話すようになり、休日は連れ立って遊びに行くようにもなった。

 それまで弘人は、この成績優秀な同期生についてあまり関心がなかった。言葉の端々やふとした瞬間に見せる仕草に他の同期生よりも少し大人びたところがあるものの、それは彼の育ちが自分より良いせいだとばかり考えていた。航学に来た理由も、純粋に飛行機が好きで、その抜群の知力や判断能力を自分の夢のために費やしているのだと思ったし、長期休暇に帰省しなかったのも、自己の研鑽に充てるためなのだろうと浅ましいことを考えもした。

 しかしそうではなかった。

 「俺は家にいたくなくて、ここに来たようなものだから」

 冬休み直前になり、「年末年始も帰らないつもりか」と冗談めかして弘人が言った台詞に対して健はこう答えた。

 それはまるで、自分は他の生徒とは違う、とでも言っているようなものだった。

 それ以上はもう何も聞くまい、と、弘人はその年の冬季休暇に健を半ば強引に横須賀の自身の実家に連れて帰った。

 前田家は母子家庭で子沢山、はっきり言って貧乏だった。

 下は4歳から上は16歳の弘人まで計五人兄弟。それを母一人の収入で育てていくのが困難であることは明白だった。これを見れば健は、何も言わずとも自身が航学を選んだ理由がわかるだろう、と考えたからだ。

 弘人は何も、同期生に憐れんで欲しかったのではない。ただ純粋に、自身がパイロットになる道を選んだ理由を知って欲しかっただけだった。襲い掛かる弟妹軍団(四人)に怯えながらもまんざらでもなさそうに遊び相手になっている健の姿は、なかなかに愉快でもあった。

 その夜。居間に並べて敷かれた(客間なんて無い)布団に二人は包まった。

 「今日は来てくれてありがとな。驚いたか?」

 「そうだな、お前が居間で寝起きしてただなんて、正直思ってもみなかった」

 「俺の部屋だったとこは妹二人の部屋になったんだよ」

 「冗談だよ。でもお前偉いな」

 「何が」

 「お前、毎月実家に仕送りするために生活費切り詰めてただろう」

 「……ばれてた?」

 「そりゃあ、食堂行くときに気が付いたら一人だけ消えてたりしたことが何度もあればな」

 新川にはこういうところがある。親しくなる前から、実家が横須賀であるのを知っていたし、余所の人間が気付かない、あるいは気に留めていてもそれ以上思索しようとしないようなことまで、考えを巡らせている。

 「メシ、抜いてたのか」

 「ああいう時は部屋でカップ麺食ってる」

 「体に悪いだろう」

 「カップ麺馬鹿にすんな。カップ麺に謝れ」

 「なあ前田、お前さえよければなんだが――」

 「悪い新川。そういうのは無しだ」

 「……え?」

 「無理矢理こんなとこに連れてこられた奴に言うことじゃないが、俺はそういうことをして欲しくてお前を連れてきたんじゃない。俺はお前に憐れんで欲しいんじゃない」

 「じゃあ、なんで」

 「俺はただあの学校に、航学に来た奴らにはそれぞれ違う理由があるのを知って欲しかったからだ。俺の理由なんてのは見ての通りだ。給料貰いながら高卒の資格が貰えて将来があるのはあそこか軍の高等工科学校くらしかないし、俺は軍隊向きの人間じゃない。別にパイロットになりたかった訳でもなんでもないんだ。たまたま適正があって利害が一致しただけ。それだけだ」

 「……」

 「きっと新川にも、俺のとは違うあそこに入った理由があるんだろう。そんなの、他の奴らだってそうだ。だから、――」

 弘人はこの時、この先の一言を一瞬だけ躊躇した。

 「だから、お前は自分を特別だなんて思うな」

 健は何も答えなかった。それでも弘人は続ける。

 「俺達はあの学校に入った時点で対等だ。試験の結果やなんやで順位が付くことはあるがそれだけだ。お前は何も特別じゃないし、俺はお前を特別に扱ったりはしない。だからお前も俺を特別扱いするな。憐れむな。施すな。対等に扱え。俺は対等に扱う」

 そう立て続けに言って、弘人は少し後悔した。隣で横になっている同期生はどう感じただろう。何も返事がないと不安になる。早く何か喋ってくれないだろうか。

 やや少しあって、健から「わかった」と声が聞こえ、弘人はようやく眠りに落ちることができた。

 帰寮の日、「少し遅いけど、お年玉」と、弟妹達にポチ袋を渡す健がにやりとこちらを見た。後で母から聞いた話だが、弘人が渡している額よりも相当多かったらしい。ルールの裏をかいたとばかりのしてやったり顔だった。前田家の世界ランクで健が弘人を抜いた瞬間でもあった。

 「いいご家族だな」

 帰りの電車で健が言った。

 「だろう。養い甲斐があるってもんだ」

 健は「全くだ」と言い、車窓の浦賀水道をぼんやり眺めながらこう続けた。

 「俺は、姉貴といるのが嫌でこっちに来たんだ」

 

 「悪い。遅れた」

 件の優秀な同期生は指定した時間から少し遅れて現れた。弘人は「いいさ」と軽く応え、二人は食堂へ向かった。

 「弘人は何にする?」

 「これから動くから汁物以外かなー。ナポリタンで頼むわ、ごちそうさん」

 前田家の財政状況を知って以来という訳ではないが、時たまある二人での訓練で健が機長を務めた後の食事は彼持ちになるのが通例になっていた。

 「お前は何にするの」

 「うーんとね……。カレーうどんで」

 「はねてジャージ汚すなよ」

 「いいよ、どうせもうボロだ」

 中期課程になってから買い替えたフットサル部の緑色のジャージも、二年間の汚れやほつれでボロボロになっていた。胸のサルの絵のワッペンなんか、一度剥れてクリーニング屋で直してもらった。「どうしてサルのマークなの?」と尋ねるクリーニングカウンターのお姉さんに、「フットサル部だからです」としか答えられなかった自分が歯痒い。開校以来の伝統があるフットサル部は「サル部」と呼ばれ、部員はサル呼ばわりされ、エンブレムのマスコットはサルだった。クリーニング屋のお姉さんは健の回答に納得してくれたのだろうか。


 宿舎は敷地の一番北側にあり、食堂や事務室、正面玄関がある生活棟からは廊下を挟んで少し離れている。今日は北風なのだろう。廊下の窓からは、羽田空港のランウェイ34Lから離陸していく青いほうの航空会社のボーイング767の姿が見えた。


 餌を求めて廊下を歩くサル二匹は、見慣れた人の群れを見つけた。

 ばっちりときまった統一仕様のメイクに糊の効いたブラウス、それにブレザーにスカート。ぴしっとした姿勢でキャリーバックを引いている。客室科の生徒達だ。ライン訓練から帰ってきたところだろう。

 サルはその習性として客室科の生徒が苦手だ。いや、これは嘘だ。サルに限らず操縦科と整備科の生徒は、なんとなーく客室科の生徒が苦手なのだ。これは男女比の違いが原因だった。操縦科や整備科は圧倒的に男性が多く客室科は女性が多い。入試要綱には性別によって制限があるとはどこにも書いていないのだが、入学してくる生徒の性差はいわずもがな。機械に憧れるのは男性に多く、華やかな世界に憧れるのは総じて女性のほうが多いのは、男女平等の時代でも変わらないらしい。

 「お疲れ様」と軽く会釈しながら、なんとなくバツが悪そうに一列縦隊で通り過ぎようとするサル二匹。

 誤解のないように言っておくがこちらが一方的に苦手意識を持っているだけであって、あちらさんはそんなことこれっぽっちも思っていない。いつもフレンドリーだ。学科は違っていても同期は同期、顔見知りだって何人もいる。通り過ぎるときは今みたいに「お疲れ様」と互いに挨拶だってする。それでも、三年間大半が男の環境で育った十代後半の男子学生と、普通の高校で青春してきた彼女達には微妙な温度差があった。今だって、女子の集団が楽しそうに雑談しながら歩いてきているだけだった。それでも彼ら二人としてはこの上ないプレッシャーに感じてしまう。

 「あ。健君、弘人君。お疲れ様」

 その彼女達の中から一人、スーツ姿の男子生徒がサル二匹を発見した。

 「おお悠クン。おつかれ。ライン?」

 「うん。ああ、みんな。僕はここで、お疲れ様」

 「おつかれー」「浅海君まったねー」と、手を振る女子生徒の群れを見送る彼の顔立ちは、とても整っていた。

 「昨日からライン訓練だったんだよ。昨日2本飛んで那覇で泊まり。で、今朝の那覇からの便でおしまい。午後の部活に間に合ってよかったよ」

 彼の名前は浅海悠介。数少ない客室科の男子生徒であり、サル部至上稀に見る客室科部員でもある。

 「俺達これから昼メシだけど、一緒にどう?」

 「ごめん、さっき反省会を兼ねて空港でみんなで済ませちゃったんだ」

 「そりゃ残念」

 「着替え終わったら先に体育館の鍵借りて準備しておくから。ゆっくり食べてきなよ」

 そう言って宿舎の方へ歩いていく悠。彼がいたおかげでこの十二期の操縦と整備の生徒は、客室科とも多少の繋がりがある。先輩達の代はもっとよそよそしかったらしいのだ。十二期の客室科の生徒は120人。そのうち男子生徒は悠を含めたった三人。これでも他の代よりかは断然多い。「客室科は女子校」といつだか整備科の奴が言っていたが、全くその通りだと思う。彼女達が纏っている空気は完全に女子校の女子生徒のものだった。もっとも、彼らの中の誰も女子校になんて行った事はないのだが。


 券売機のスキャナにIDカード(通称首輪)を当て、ナポリタンとカレーうどんのボタンを押す。

 カウンターのおばちゃんに券を渡し、給湯器からお茶を注いでカウンターの目の前に陣取る。約150人が収容できる食堂は閑散としていた。

 三学科合わせた中期課程一学年の総数は200人。航学には中、後期課程である4年目から6年目、そして学年総数80人である前期課程の1年目から3年目まで合わせて840人の学生が在籍している。しかし航学は北から帯広、仙台、宮崎、そして沖縄県の下地島に訓練用分校がある。座学のカリキュラムとシミュレーター訓練以外は皆それぞれ全国の分校で訓練に励む。中期の後半になり羽田に戻ると、今度は全国各地の定期便に乗務してのライン訓練があるため、羽田校は本校と言いつつもいつもこんな具合だった。

 「ナポリタンとカレーうどんあがったよー」

 カウンターからおばちゃんの声。

 「「じゃーんけーん、ぽん!!」」

 「いよぅっし!健、行って来い!」

 「ちっ」

 カウンターの目の間を陣取っておきながら、健と弘人はいつも受け取りに行く者をじゃんけんで決めていた。機長に取りに行かせるなんて副操縦士の風上にも置けない奴だ、と健は弘人を睨みつけた。

 「あんたらくらいだよ?休みの日なのにここで食事してるの」

 健の服装を見て、おばちゃんが言う。

 「ここの味が好きなんですよ」

 「せっかくの休みに若い男がこんなところで」

 「ここの味が好きなんですよ!」

 「学園祭で、いい出会いは無かったのかい?」

 この学校、行事らしい行事なんてほとんど無いのだが一応学園祭だけはあるのだ。それも年に二回も。こないだ十月にやったのはそのまんま「学園祭」。そして三月の卒業式直前に行われるのを「卒業祭」という。学園祭は航学受験希望者への学校見学も兼ねており外部の人間も来場する、開校当初から行われている伝統行事。そして四年前から行われるようになったのが三月にやる卒業祭。こっちのはもうなんかいろいろとぶっ飛んでいて、とにかく派手なのだ。

 「ああいうのは、客室科の連中に任せてるんですよ」

 「まーた、あんたはそんなこと言って」

 こないだの学園祭もそうだったが、この手の派手なイベントは客室科の生徒がうまいことやってくれるのだ。そのために客室科があるんだって、上手いこと言ってた先輩もいたっけ。


 上手いことやられた。

 「「半面!?」」

 食事を終え、体育館の引き戸を開けた二人の目の前にはバレーボールに興じる客室科の女子生徒の姿があった。

 バレーボールをやっているのは入り口側の半面だけで、奥のもう半面ではとりあえずフットサルゴールをひとつだけ出して申し訳なさそうに立っているサルジャージ姿の悠クンがいた。

 「おうおう悠、これどういうことよー?」

 事情を聞きたいのか単につっかかりたいのかよくわからない弘人が、ポケットに手を突っ込みながらがに股歩きで悠に迫る。サマになっていない。

 「ごめん、実は今日、函館空港が大雪でクローズになってたでしょ?それで訓練便がひとつ、欠航になってたみたいで・・・・・・」

 「暇になった客室の生徒が半面使うことになった、わけか」

 もともと体育館は利用希望が重なれば半面づつ分けて使う。ただ、昨日の夜の段階で使用申請をしていたのはサル部だけだったので、久々に全面使ってのびのびやれると期待していたのだ。

 「ちょっと待て。今日、千歳は吹雪だけど函館は晴れだったはずだろ?」

 「ありゃシミュレーターの擬似天候だ」

 ぽかんと弘人の頭を叩く。

 「ごめん・・・・・・」

 綺麗な顔を曇らせて、申し訳なさそうにする悠。

 「なんで悠クンが謝るのさ。こればっかはどうしようもないって」

 俺達はいつだって天候にだけは逆らえないんだなあ、としみじみ思う。

 「まあそれはいいとして、だ。なんだーこの出席率はー!!」

  叫ぶ弘人に、これまた申し訳なさそうに悠が答える。

 「えと、坂本君は午後から整備の訓練があるらしくて。八木橋君は今朝から関空―新千歳のライン訓練だから、昨日の夜から大阪に行っちゃってて。それから――」

 「あー、わかったわかった。つまりみんな――」

 「訓練、だね?」

 「うん・・・・・・」

 学生とはいえ日本全国に飛び回るサル達。それぞれ訓練があるためなかなか部活にも参加できない。それにしても――

 「もうすぐ引退なのに、なかなか全員集まれないのはなー」

 弘人は頭の後ろで手を組んで天井を見上げながら言った。今もこの天井の遥か上方では沢山の同期が訓練に励んでいる。

 「残念、だよね・・・・・・」

 ふと横を見ると悠も上を見上げていた。なんとなく健も上に視線をやる。

 航学は、後期課程から部活動は実質引退となる。もう、皆がこうして集まる機会はそうない。


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