クズだった俺の物語
「おら、クソチビ! なんだ、その目は! まだ自分の立場が分かんねぇのか!?」
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……ぐぼっ」
俺たちの通う中学の校舎裏で、チビでやせ細ったクラスメイトの腹を蹴り飛ばす。
その結果、まともに腹に俺の蹴りを食らったことでうずくまったクソチビを、男女合わせて八人の俺の友人たちが大爆笑で見ている。
「ふん。わざわざ、お前のために時間を使って『教育』してやったんだ。感謝するんだな」
「さっすが、翔太。やっさし~! やっぱり、生まれからして違うね!」
「よせよ、葵。本当のことでも、面と向かって言われると恥ずかしいだろ?」
そうして、うずくまって嗚咽を漏らすクラスメイトを放置し、昼休みが終わる前にみんなでその場を立ち去った。
模範生たる俺が、授業をさぼるわけにはいかないからな。
俺は、ド田舎とは言えないものの、『地主様の一族』って肩書がまだそれなりの権威を持つ小さな町に住んでいる。
そこの、地主様の一族の本家の、次の当主ってのが俺の立場だ。
「翔太、お前は上川のすべてを継ぐ男だ。自分が皆を導く特別な立場であることを自覚しなさい」
それが、俺が小さいころから聞かされてきた、現当主である父の言葉だった。
だから、俺は努力してきた。
勉強も、運動も、人柄も。
立場に見合うすべてを身に着けて見せた。
そんな俺は、成績優秀、スポーツ万能、中学二年生にして品行方正な生徒会長として教師や生徒たちの信望を集めているのだ。
「よう、翔太。聞いたか? あのクソチビ、転校するらしいぞ」
「あっそ。結局、最後までまともに言い返すことすらできなかったな。愚図の根性なしめ。逃げやがって」
こうして、『教育』まで行っているのだ。
優秀であれとは言わんが、最低限の水準にも達してないゴミを放っておくのは、俺の立場からして許されないからな。
そうして俺は、高校生活も順調に送り、この春から東京で大学生となった。
「おい、葵! 俺じゃなくて、本当にそんなやつを選ぶのか!?」
「だって、翔太さ。当主がどうのって、そんなお山の大将みたいなこと、あーだこーだ偉そうに語られてもね……」
大学に入って二か月。中学のころから付き合ってた彼女に浮気をされ、別れることになった。
相手の男は、サークルの新歓で知り合ったらしい二個上の先輩。
まあいい。あの男は、ギャンブルで借金をこさえ、大学職員のふりをして消費者金融から金を借りようとしたようなクズ男だ。今まであの男に捨てられた女たちのように、貢がされるだけ貢がされ、手酷く捨てられるがいいさ。
あんな男を見る目のない女、俺には釣り合わないんだ。
だから、そんな女に引っかって結婚せずに済んだことを、喜ぶべきじゃないか。
「……はぁ」
気付けば、どこかのビルの屋上にいた。
特に目的があったわけではない。
いや、無意識に何か良からぬことを思っていたのかもしれないが、目の前の光景の衝撃に、すべて吹っ飛んでしまった。
「あの、何をしてるので……?」
「放っておいて下さい! どうでもいいんです! もう私は、飛び降りて死ぬしかないんです!」
とんでもない先客だ。
靴をそろえて遺書らしきものを置き、その女自身はフェンスの向こう側でやけくそ状態。
こっちも修羅場の後でヘトヘトだというのに、なんでこんな訳の分からない女の相手をせねばならないのか。
とはいえ、みんなの前で上川家の次期当主にふさわしい振る舞いをすることが習慣づいていた俺は、とっさに口が動いていた。
「まあ、待て。落ち着け」
「落ち着いています!」
「ほら、そんなところから飛び降りても、何も解決しないだろう?」
「放っておいてください!」
だが、終始この調子で取り付く暇なし。
ついにかける言葉もなくなった俺は、そこで不意に思い出してしまった。
『当主がどうのって、そんなお山の大将みたいなこと、あーだこーだ偉そうに語られてもね……』
――どうして俺が、こんな見ず知らずの女のために苦労しなくちゃいけないのか。
「あー、もう! 来い!」
「え? あ、いや、ちょっと! 引っ張らないで!」
「うるさい! 自分の価値を死んでもいいやつ程度にしか思ってないんだったら、ちょっとぐらいこっちに付き合え! 死ぬのはいつでもできるだろうが!」
「ヒッ……」
それから、その女は抵抗らしい抵抗を見せなくなった。
タクシーに乗って俺の住んでる部屋まで帰り、女を押し込む。
お金は実家がいくらでも出してくれたからな。もっと大人数でも問題なく詰め込めるのだ。
「おら、これ使え!」
「へ……寝袋?」
「もう今日はたくさんだ! 寝る!」
それだけ言って、早々に布団に入った。
今にも飛び降りようなんてのを見捨てるのは後味が悪すぎるが、それを止めるためにこれ以上頭を使うのはもう嫌だ。
その結果、とりあえずは俺の手元に置き、最終的な説得は明日の俺に任せるとの『名案』を実行することにした。
友達が止まりに来た時用の寝袋を投げつけてしばらくすると、寝袋を広げているんだろう物音と、寝息が聞こえてくる。
それからすぐに俺も眠りに落ちた。
翌朝、みそ汁の香りで目が覚めた。
「……は? みそ汁!?」
最近は浮気についての調査やら話し合いやらで忙しく、この家で料理をしたのは、随分と前のことだ。
そのおかげで長らく冷蔵庫の肥やしとなっていた味噌を使っているのは誰なのかと、飛び起きる。
「あ、おはようございます……」
「お、おはよう」
その女の顔を見て、昨夜の自分が連れ込んだ女だと気付く。
そして、昨夜の自分が、なんて馬鹿なことをしたのかが思い出された。
「何をしてるんだ?」
「その、一泊させていただいたんですし、これくらいはしないといけないかと……」
おどおどした様子で、随分とずれてるように思われる感想を言われる。
いやまず君は、通報するとか逃げるとか、もっとやるべきことがあるのではないかね?
「あの、ちょうど出来上がったところでして。その、お口に合うかはわからないんですが……」
「……いただきます」
そう答えて朝食の並べられたちゃぶ台前に座る。
ほっとした様子の女も向かい側に座り、そろって食事を始める。
炊き立てのご飯に、具のないみそ汁に、炒めた薄切りハム。
「ご、ごめんなさい……ざ、材料がぜんぜんなくて……」
「すまんな、買い出しもまともにしてなくて」
「い、いえ! そんな、つもりじゃ……」
わざわざ残って、ビクビクとおびえるようなその様子は、以前の俺だったら『教育』の対象にしていただろうさ。
だけど、ずっと付き合っていた彼女にお山の大将なんて切り捨てられたせいだろうか。
以前だったらこんなやつを見たら、その軟弱ぶりにイライラが募っていただろうに、そんな気力もわかなかった。
さて、昨日の俺に出された宿題をどうするかと頭を動かし始めるが、時計を見てその思考をすべて打ち切った。
「あの、ど、どうしたんですか?」
「大学の授業があるんだ。出席を取られるから、休むわけにはいかないんだよ」
それだけを言い捨て、ちゃぶ台に一万円札を置き、リュックを背負って玄関ドアへと向かった。
うちの場合、1年生のうちに一般教養の単位を稼いでおかねば卒業のために地獄を見る羽目になることから、大学入学早々に、平日の昼間は大忙しだ。まったく、出席点だの、期末試験を受けたければ何回以上出席しろだの、本当に面倒なシステムだ。
「あの、このお金は……?」
「冷蔵庫がカラだったろ? それで買いだしとけ。別に、カギは開けたままでいいぞ。そんなピンポイントで狙われないだろうし、本気で狙われるならカギ対策くらいはしてくるだろ」
言って気付いた。
俺はまだ説得が終わってないからとこっちの理屈で当然のように女が残ることを前提にしていたが、普通に考えて、このまま出ていくだろう、と。
「は、はい……! 頑張ります!」
だが、彼女が困惑していたのも少しのこと。
何がうれしいやら、随分とやる気満々の様子なので、そのまま家を出た。
別に、パソコンやらスマホやら財布やら通帳やらと、盗られてまずいものは全部リュックの中だ。
きっと俺は投げやりな気分なんだろうな、と異常性を自覚しつつ、家に性別と見た目以外の情報をほとんど知らない赤の他人を置いて、のん気に出かけるのだった。
帰ったのは、空がすっかり茜色に染まったころのことだった。
「ふーん。カレーか」
「は、はい……」
予想通り女はまだ家に居た。
言われるままにちゃぶ台につけば、レシートと共に返される買い物の残金と、東京に出てきてからは一度も食べた記憶のないカレーライスが出てきたのだ。
スプーンを手に取り、一口。
「ど、どうですか?」
「うん、うまい」
「! そ、そうですか!」
俺の言葉に、女は目に見えて喜んでいる。
ずっと何かにおびえるように小さくなっていた彼女の笑顔を、初めて見た。
……いや、見知らぬ男の部屋にいきなりつれこまれてるんだし、今ここで笑えてることこそが異常なのか。
そんなことを考えるも口に出すほどの気力はなく、ひたすらにスプーンを進める。
カレーライスは確かに初心者でも比較的マズくなりにくい食べ物だろは思うが、それを差し引いてもおいしかった。ルーは市販品だが、たぶん隠し味なども使っているのだろう。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
夕食を終えるころには、彼女も和やかな笑みを浮かべるようになっていた。
そのまま当然のように食器を洗いにいく彼女を見送り、それが終わったところで声をかけた。
「なあ、聞きたいんだけどさ」
「はい? 何ですか?」
「なんで死のうとしてたんだ?」
彼女は絶句した。
本当なら、話の流れだとか、色々と気遣うべきだったのかもしれない。
でも、『そういう気分』にならなかったので、前振りなどなく聞いたのだ。
だけど、彼女は口籠るばかりで、まともな回答が返ってくることはない。
「その……えっと……」
「もういいや。また、言えるようになったら教えてくれ」
それだけを言い残すと、目を見開いて驚く彼女を背に、その日はさっさと寝た。
それからしばらく、互いの事情や素性を話題にすることなく時間が過ぎていく。
事情を問いただすようなやる気がなく、かといって追い出しにかかるような気力もなく。
朝は一万円を置いて家を出て、帰るとレシートとお釣りをもらい、用意された夕食を食べて風呂に入り寝る。休日は、どこに出かけるでもなく、時折部屋で他愛のない雑談をしながら時間が過ぎるのを待つ。そんな、同じような日々が続いていく。
初日と少し変わったことがあるとするなら、素性不明の同居人に、この部屋のスペアキーを手渡したことくらいだろう。
そうして、数日が経過したころのことだ。
「おい、翔太。まだ元気がないな。やっぱり、葵ちゃんのこと引きずってんのか」
「いや、別に……」
「やっぱりそういうときは、新しい恋! って訳で、合コンしよう!」
こっちに来てからできたおせっかい焼の男友達によって、いつの間にか合コンへと参加することが決定していた。
そいつとは付き合いが短いながらも仲が良かったし、わざわざその気遣いを断るほどの理由もなかったしな。
「そういうわけだ。その日は、俺の分の夕食はいらないから」
「はい……」
そうして必要な情報伝達も行い、少し落ち込んでいる様子の同居人を置いて、合コン当日となった。
「じゃあ、みんな今日は楽しんでくれ! かんぱーい!」
幹事にして俺を連れてきた主犯の男友達の言葉で、合コンは始まった。
男女三人ずつの六人で、大学近くの飲み屋で行われたそれは、俺が適当に聞き流している中、おそらくは順調に進んでいたと思う。
男連中は学部の同期連中だが、女の方は知らない奴らばかりだった。興味もなかったので適当に聞き流していたから、名前すら覚えることはなかった。
そんな中、途中から明らかに、一人の女性が狙って俺に話しかけてきた。
「へぇ、流石は法学部一年の首席だね。昔からすごかったんだ」
「ああ」
「すごいなぁ。私じゃ全然かなわないもん」
「そうか」
「あ、サラダ取ろうか?」
「うん」
そうして話しかけてくる彼女は、一般的に見て美人の部類だと思う。
笑顔も魅力的だと思うし、嫌悪感を抱くような要素は見当たらない。
そんな彼女が、突然距離を詰めてきた。
「ねえ、この後二人で――きゃっ!」
それは、意識しての行動ではなかった。
身を寄せられ、耳元でささやかれた瞬間、相手を振り払いトイレに駆け込んでいた。
「ウォェ……ゴホッ、ゲフォッ……!」
『当主がどうのって、そんなお山の大将みたいなこと、あーだこーだ偉そうに語られてもね……』
胃の内容物をあらかた吐ききったころ、俺はただ静かに笑うしかなかった。
ああ、本当に、こんな……。
「翔太、帰るか?」
「……悪い」
トイレから出ると、俺をこの席に誘った男友達が居た。
「気にすんなって。俺が無理に連れてきたようなものだしな。ま、こっちで適当にごまかしとくから、今日は早く休めよ」
そう言って差し出された上着とカバンを受け取り、「ありがとう」と一言残して立ち去った。
「な、何かあったんですか!?」
部屋に帰ると、不意の帰宅に驚いて駆け寄ってきた同居人が駆けつけてきた。
「何もない」
「何もないって、そんなわけないです!」
「何もないって言ってるだろ!」
「そんなわけない! だって! ……だって、そんなに泣きそうな顔してるんだもん」
悲しそうな顔でそう言われ、彼女の手を振り払おうとしていた動作を止める。
自分のほほに手を当てると、その時、一筋の涙がこぼれた。
それが限界だった。
「仕方ないだろう……捨てられて、しかも、なんで俺の今まで全部を否定されないといけないんだよ……」
そこから俺が吐き出したことを、名も知らぬ同居人は黙って聞いていてくれた。
葵は、小学校のころからの幼馴染だ。
そして、俺が、上川って名前を継ぐにふさわしい男になるために頑張ってきたことをずっと隣で見て、励まし、認めてくれていたのが彼女だった。
なのに彼女は、そのすべてを否定して去っていった。
「携帯を漁ったら、それはもうひどいもんだった。あんなクズみたいな男とさ、二人して俺のことバカにして、都合のいいATMだなんてさ。しかも、勘違いしてるだけの田舎者だって」
「そう」
「それで、今日。合コンで、女の子から口説かれたんだよ。そしたらさ、別れるときに言われたことを思い出してさ……。似ても似つかない相手だったのに、どうして思い出しちまうんだよ……」
気付けば、俺は涙を流しながら、名も知らぬ同居人の胸に抱かれていた。彼女が敬語じゃなくなっていることにも気付いていたが、そんなことを気にするほどの余裕はない。
そしていつの間にか、二人そろって、壁に並んで腰を下ろしていた。
「うん。辛かったね。ちょっとは分かるよ――私も、捨てられたから」
その言葉を聞き、俺は驚いて顔を見上げると、儚げな笑みを見ることとなった。
「前に聞かれたよね。なんで私が死のうとしてたかって。簡単に言うとね、男に浮気されて捨てられて、絶望して死のうとしてたんだ」
曰く、彼女は、俺と同じ学部の4年生なんだそうだ。
そして、上京して入学し、すぐのこと。彼氏ができたんだそうだ。
彼女はその彼氏のことが好きで好きで、結婚まで考え、通い妻状態だった。
そうして4年生になってすぐのこと。そんな彼氏が浮気をしていることが分かった。
「浮気って言ってもさ、一か月とか二か月とかの話じゃないんだよ。それこそ年単位。本当に、今から考えると、浮気のことがなくても『色々』あってさ。その時は良いところもあるから、私が居なくちゃだめだから、で我慢してたけど、バカみたい。なんでもっと早くにこっちから捨てられなかったんだろうね……」
それからのことはよく覚えていない。
何となく、互いにいろいろなことを好き勝手言い放って、大泣きしていたような記憶があるような気もするが、気が付けば意識を失っていた。
目覚めたときには、カーテンの隙間から陽の光が差していた。
体の下にはやわらかい布団の感触と、そして目の前には最近見慣れた同居人の顔が。
「おはよう。昨日のこと、覚えてる?」
「まあ、肝心なところは。たぶん」
「そう。ご感想は?」
「年上だろうなってのは何となくわかってたけどさ。うちの実家の隣町で一番の名家の中川家の末娘様だとは、世界は狭いなって」
「そこなの?」
そのまま二人で笑い合い、朝食の支度に入り、いつものように出かける支度を整えた。
「じゃあ、行ってくるよ、『美咲』」
「いってらっしゃい、『翔太』」
そうして、いつも通りの一日が始まった。
俺たちの関係が劇的に変化することはなかった。
朝起きて、二人で朝食を食べて、俺が大学行っている間に美咲が家事をして、俺が帰ったら一緒に夕食を食べて、寝る。
変わったことといえば、美咲も生活費を出すって言いだしたから家計管理について話し合いをしたことと、週の半分くらいは同じ布団で寝るようになったこと。
同じ布団と言っても、互いに寝間着を着て、本当に一緒に寝るだけで、それ以上の進展はない。
一緒に寝ない週の残り半分は、近くにある彼女のアパートに帰っている日だ。自分の下着までいっしょに洗うのは恥ずかしいし、掃除もしなければいけないからと、しぶしぶ帰っていく。
美咲は、必修の単位はそろえたし、卒業に必要な単位はそんなに多くないので、後期に少し授業を取れば、前期は何も履修しなくてもどうにかなるそうだ。しかも、就職については元から大学を出たら実家に戻って、実家のコネで地元に就職する約束で上京したから、前期の間は何もやることがない、と語ってくれた。
それでも俺としては、泊っていかない日まで俺の家の家事を完璧にやっていくことに対し、そこまで無理をしなくてもいいから、と一度だけ言ったことがある。
「え……? ねぇ、翔太は、私がいらないの? ねぇ、何が悪かったの? 教えてよ、ねぇ?」
この世の終わりのような顔でそんなことを言われてからは、素直に彼女に頼らせてもらうことにした。
美咲がはっきりとは言わなかった、以前の彼氏との間の『色々』と、浮気の果てに捨てられたことなどが原因だとみているが、彼女は自己評価が極端に低いように見える。
だから、見捨てられたくなくて、頑張って。
心理学なんて門外漢過ぎてさっぱりだが、少なくとも彼女の好きにさせているうちは安定しているのだから、無理だけしないように見守って、自由にさせることにした。
そんな日々も過ぎ、梅雨が来た。
もうそろそろ期末試験に向けて本格的な勉強をしないといけないな、なんて考え始めたある日の夜のこと。
その日は、久しぶりに雨が上がり、空には月が見えていた。
俺と美咲が、コンビニで買い物を済ませた帰り道でのことだった。
「あ、やべ。アイス買うの忘れてた」
「でも翔太。冷凍室にまだまだストックがあったと思うけど」
「カップアイスはな。ちょっと、『ガッリガリさん』買ってくる」
そう言って彼女を先に帰し、俺はコンビニへと戻る。
夏になるとたまに無性に食べたくなる氷菓子を無事に購入した俺は、少しでも美咲を待たせまいと早足で夜道を進む。
そんなとき、変な物音が聞こえてきた。
最初は何かわからなかったが、少しして、それが何か言い争うような男女の声であること。
そして、女性の悲鳴であると分かった。
そこからの行動に、迷いはなかった。
声の方へと全速力で駆けると、すぐにたどり着いた。
そして、その光景を見た瞬間に、理性が吹っ飛んだ。
「てめぇ! 美咲に何してやがる!?」
金属バットを振り回す太った男と、それから必死に逃げ回る美咲。
コンビニ袋を投げ捨て、太った男に一気に突っ込んだ。
勝敗は、一瞬で着いた。
「クソ野郎! 観念しやがれ!」
向こうは美咲を追い回すのに夢中で、完全な奇襲になったことが最大の要因だったと思うが、蹴りで男を吹っ飛ばすと、起き上がる前に馬乗りになって抑え込む。
それでも抵抗する男の顔を何発かぶん殴れば、すっかりおとなしくなった。
「夜道で女を襲うとか、恥ずかしくないのかよ、ゴミが」
それは、心の奥底から湧いてくるどす黒い感情から来た、深い考えのない何気ない言葉だった。
これ以上はやりすぎで俺の方も逮捕されかねないとの理性との折り合いの結果の言葉は、しかし相手からの予想外の反応を引き出すこととなった。
「恥ずかしいだと? 僕はお前に『教育』をしてやったんだよ、上川翔太さんよぉ! お前にやられたみたいになぁ! どうせお前みたいなクズは、僕のことなんか忘れてるんだろう!? 高校の時、さんざんいじめ倒しておもちゃにした『デブ夫』のことなんかな!」
言われて、思い出す。
いや、どうして気付かなかった?
今、俺が見下ろす、街灯の明かりに照らし出されるその顔は、かつて毎日のように見ていた顔と全然変わっていないじゃないか。
「僕は覚えているぞ! 変な噂を流されて友達を奪われた! 僕の大切にしていた宝物たちを、キモいとか言って捨てられたことも! お前らの所業がばれないように、服で隠れるところだけ延々と殴られて蹴られ続けたことを!」
そうだ、言われるとおりだ。
あいつは軟弱だ、だらしないとあちらこちらで言っていた。その発言が広がる際に、尾ひれがついて随分とひどい話に帰られていたが、特にどうすることもなかった。
アニメキャラの描かれた文房具だの、ライトノベルだのを、教育的指導だとか言って壊して破ってゴミに出した。一緒にいた女子たちがやっていたが、俺は特に止めなかった。
全力で後ろ向きなことを言われたときに、けしからんと鉄拳制裁をした。周りの連中が見るからに加減もできずにやりすぎな暴力もふるっていたが、理不尽に対して反抗の一つもできないとは軟弱だと、俺が止めることはなかった。
「だからな、お前が言うように生まれ変わることにしたんだよ! 今更ながらな! そして、クズなお前に『教育』してやることにしたんだ! 大切なものを失う辛さをな! そのあとに、自分自身が傷つく痛さを知ればいい!」
もう好きにしろとばかりに、『デブ夫』がそれ以上抵抗することはなかった。
ただ、その鋭い眼光だけは、お前に屈するものかと怪しい光を放っていた。
「ねえ、翔太。今の話、本当なの?」
そんな美咲の問いに、何も答えられない。
彼女と、目を合わせることもできなかった。
「そう。分かった……」
俺たち以外の誰かが呼んだ警察が到着したのは、美咲のそんな悲しそうなつぶやきが聞こえたころのことだった。
今回の傷害事件について、俺はほとんど蚊帳の外だった。
通報者は、俺たちの会話まではよく聞こえない程度の距離から様子を見ていたらしい。その通報者に俺や美咲、被疑者となった『デブ夫』の供述や、現場の状況からして、美咲への暴行を止めた俺、という構図が確定したのだ。
どうやら、俺が到着する前に美咲は何発か殴られたらしく、『デブ夫』による美咲への傷害事件として扱われることとなった。
その後は、単なる参考人として警察と検察に一回ずつ呼ばれたが、自らのまいた種に美咲を巻き込んだことが辛すぎて、積極的に事件にかかわるのが怖かったのだ。
「もう、終わったよ。これで、大丈夫だと思う」
そうして俺がふさぎ込んでいるある夕食の席でのこと。
美咲から、急にそう告げられた。
「もう、終わった?」
「うん。向こうの弁護士さんとお話ししてね。私の治療費の実費分を払ってもらう代わりに、処分を軽くしてくださいって嘆願書を私が書いたの。示談金が安すぎた上に、わざわざ被害者側からこんなものを作ってくるなんてって、弁護士さんがすごい驚いてたよ」
その話を聞いて最初に思ったのは、申し訳なさだった。
「それってさ。俺があいつのことをいじめてたからか? お前が徹底的に争ったら、俺のことまで掘り返されるんじゃないか、とか……」
「違うよ――あの犯人の人にあれこれと言われてる時の翔太がね、すごい悲しそうだったからだよ」
思わぬ答えに困惑していると、笑みと共に言葉が続く。
「翔太も、傷つくことの辛さをやっと知ったんだよ。だから、過去の自分のやったことを突き付けられて、本気で後悔してた。悲しんでた。そんな顔を見てたら、ね」
「そんな! やっぱり俺のせいでお前に我慢を――」
「違うよ、決めたのは私。本当はどうするのか迷ってたの。だから、最初は被害届を出した。弁護士さんを通じて犯人と手紙のやり取りをして、田舎から出てきてくれた犯人のご両親に会って、それで決めたの。犯人の人を許しても大丈夫だって。私を救ってくれた翔太のためには、彼が重く処罰されるのはきっとよくないことだって」
呆然とする俺に、美咲が近づいてきて抱きしめた。
「未来は変えられる。過去は変えられないけど、だったらせめて、この先だけでも良くしようよ。私はずっと、翔太と一緒にいるから。私を救ってくれた翔太とずっと」
「……美咲、ありがとう」
「それに、あの犯人、見る目もあったしね。私が、翔太の大切なものだって言ってたし」
そんな美咲の言葉に二人で笑みを浮かべ、俺はそのまま彼女の胸の中に飛び込んだ。
その日の俺は、恥も外聞もなく泣き続けることとなった。
東京に来てから情けないことばかりだな、なんて冷静な自分も居たが、今はこの心地よさに身を任せることにした。
「俺は、弁護士になる」
みっともなく泣きわめいてしばらくのこと。期末試験も終わって、帰省中の電車内でのことだ。
美咲と正式に付き合うこととなり、それぞれの実家へとあいさつをしようと準備万端でいたそんなときのこと。
「そう。そう決めたなら、それでいいと思う。だから、どうしてそうしようと思ったのかを聞かせて?」
美咲は、突然の発言に驚きもせずそう返してきた。
だから、語った。
俺は、『教育』なんていって行っていたいじめで、美咲を――大切な人を失うかもしれなかった。
だから、そんな悲劇を、少しでも止めたいと思った。
同じ間違いを、止めたいと思った。
最近はスクールロイヤーなんていって、学校問題に関わる弁護士も増えているらしいし、弁護士って立場なら、いじめなんかの問題に、当事者でなくても首を突っ込めるチャンスがあるんじゃないかと思った。
それに、法学部に行ったから弁護士になるってのは、実家としても反対されにくいだろうし。
そんな美咲へと語った思惑は当たった。
俺と美咲の交際は、地元の名家の子供たちの間のことだというのもあって、両家から祝福された。
弁護士を目指すってのも同様だ。家を継がなきゃいけないから弁護士になったら地元に帰れとは言われたが、俺としては問題なかった。
品行方正で通していた俺がいじめをしていたなんて話をするわけにもいかず。美咲が事件に関することは原因含めて他言無用との条件をつけたのを犯人側も守っているおかげか、実家にまだ知れていないから、適当に考えたいかにもな志望動機を伝えたところ、両家の親たちに褒められた時点で、俺は勝利を確信したよ。
そうと決まれば、あとは早かった。
その年の後期に卒業をした美咲は、一足先に地元へ帰って就職。
俺は、翌年に司法試験予備試験に合格して、司法試験の受験資格を獲得。そのまま最短で司法試験に合格し、法科大学院に行くことなく弁護士になった。
その後、地元で、実家の関係でお世話になっている事務所に入所。
3年後、独立して自分の事務所を構えると同時に、美咲と結婚した。
仕事は、希望通りにいじめ問題をはじめとする学校問題を中心に、少年事件も扱い、地元でいじめ問題についての講演を頼まれることも増えてきた。
ただ、割に合わない仕事を多く受けているせいでいつも事務所は赤字ぎりぎりだった。
「多少赤字でも、上川の収入だけで、十分に贅沢な暮らしをさせてもらってるから」
なんて美咲は気にしていないから、好きにやらせてもらっている。
そうして子供たちに向き合う中でいろいろな人たちや機関と協力することがある。その際に、『地元の有名な優等生』だった自分のイメージをよく褒められることが多かった。時には、そんなあなたが頭を下げるからこそ、この子を預かって更生に協力するとまで言われることなんかもあって、そのたびに複雑な気分となった。
でも、今更過去のことを言い出したところで、俺が信用を失ってこの人たちの協力を得られなくなり、活動に支障が出るだけではないか――そう思って、自らの過去に言及することはなかった。
そんな俺たちにも、一つだけ大きな悩みがあった。
「不妊なぁ……」
「うん、ごめんね……」
結婚してそろそろ3年になろうというのに子供ができなかった。
俺が忙しすぎて回数が少ないのが原因では? との言い訳も通じなくなってきたので、夫婦そろって検査した結果だ。
まあ、医者曰く、治療すれば何とかなる部類とのこと。
向こうの実家は、子供の産めない嫁で申し訳ないなんて古いことを言っていたが、「こんないいお嫁さんをいただいて、不満なんてあるものですか」なんて母が笑い飛ばしていた。
それでも、美咲はそれ以来、沈み込んでいることが多くなった。
もともと、前の男に捨てられるまでのことが関係しているのか、自罰的な傾向はあったし、必要とされたいとの意思がとても強かった。
そんな不安定な状態で、自分のせいで子供ができないことに、必要以上に責任を感じているのだろう。
とはいえ、俺も彼女との付き合いは短くない。しっかりと様子を見て、落ち込んでいるようならば抱きしめて励ます。そうすれば、彼女は元気になった。
そんな日々の中、病院に呼び出された。それも、両家の両親もだ。
最初は不妊のことかと思ったが、なぜか外科だという。
「奥様には、すぐにでも手術が必要です」
そんなことを言われた時点で、俺は目の前が真っ暗になった。
「あ、いや。そこまで重くならないでください。油断はできませんが、手術をすれば、治る確率は十分にありますから。それに、あなたたちは運がいい」
なんでも、こちら出身で大阪の大学病院に居た若手の医者が、美咲の故郷である隣町の総合病院の院長に招かれ、最近やって来たとのこと。
その若手の医者は美咲の病気についてのスペシャリストであるらしい。
「紹介状はこちらに。すぐに転院の手続きをしましょう」
そういう医者に礼を言い、以後のことは任せることにした。
転院はスムーズに進み、美咲の手術の日もすぐに決まった。
「ああ、美咲。元気か?」
「もう、あなたったらそればっかり。今日も見ての通り、元気よ」
俺は仕事の合間を縫って、できるだけ見舞いに来た。
もう手術まであと数日というところだが、美咲はまだまだ元気な様子で、今日もまた安心する。
そうして俺は、美咲と時間の許す限り他愛のない雑談に興じる。
わざわざ個室を取ったこともあり、誰に気兼ねなく行われていたそれは、俺の背後の扉が開く音で中断された。
「あら、先生。ごきげんよう。あなた、紹介するわ。この人が噂の、大阪から帰ってきてくださった先生なの」
そういえばまだ一度もあいさつをしていないなと気付き、立ち上がって振り向いたところで俺は固まることなった。
「ああ、お久しぶりですね。驚きましたよ、こんなところでお会いできるなんて。私が中学の時に転校して以来ですね」
そこに居たのは、俺が『クソチビ』と呼んで中学時代に『教育』をしていた相手だった。
やつは、それ以上俺に話しかけることもなく、美咲と二言三言だけ言葉を交わすとすぐに部屋を出て行った。
「……あっ、おい待て!」
「あなた、どうしたの?」
美咲の声を背に、俺は慌てて医者を追う。
追いついたのは、病室からそう遠くない、人気のない階段でのことだった。
「何ですか、上川『様』? 私は勤務中なものでして、できれば手短に願いたいのですが」
言われ、言葉に詰まる。
かつていじめていた相手に妻の命を握られていると思って追いかけてきたが、何をどう言えばいいんだ?
何も思いつかず黙り込んでいると、向こうから口を開いてきた。
「でしたら、こちらから一つよろしいですか?」
「あ、ああ……」
「あなたは、随分と熱心にいじめ問題について取り組まれてるんですってね。私も一度、参加させていただきました。いやー、実に素晴らしいお話でした」
「そうか……」
「で、そんなあなたに教えてほしい。――どうして私は、母を失わなければならなかったんですか?」
話が飛躍しすぎて、理解できなかった。
そんな俺の様子を見てなのかはわからないが、『クソチビ』とかつて蔑んだ相手は、口を開く。
「うちの両親は駆け落ちでした。家柄の良かった父方の家が、天涯孤独な母を嫁に迎えることに反対したからです。そこで、両親は、母が幼いころにまだ存命だった母の両親と暮らしていた町に流れ着き、母のつたない人脈を頼りに生活を構築していった。――だけど、そんな幸せな日々はすぐに終わることとなった。父が、病で若くして亡くなった。僕がまだ、小学校に入って間もないころのことでした」
辛い話を語っているはずだろうに、まったく表情が変わらない。
何を考えているのかわからない顔で、話は淡々と進んでいく。
「それからの生活は苦しかった。駆け落ちした両親に、ロクな蓄えはなかった。蓄えを作る前に、大黒柱たる父が亡くなったんですから。それでも、母は頑張って、裕福とは言えないながらも、何とか私を育ててくれた。そう、私が、クラスメイトにいじめられていると訴えるまでは」
無感情だった顔に、苦みが走った気がした。
しかし、ほんの一瞬で消えてしまったそれを確認するすべはなく、淡々と続く話を聞き続けるしかなかった。
「主犯の名前を聞いた母は、気が触れたように動揺しました。『上川の御曹司に目をつけられた!』ってね。当時は意味が分かりませんでしたが、それは、あの古臭い町では村八分に近い意味を持っていたそうですね。それでも母は、息子のために勇気を振り絞って担任へと訴え出た。――だけどそれは無駄だった。彼はそんな下劣なことをする生徒じゃない、と母の訴えを鼻で笑って終わらせた」
ちらっと下を見れば、目の前の医者のこぶしが、いつの間にか力強く握られている。
「もう、母にはどうすることもできなかった。今更、手に職もない自分が新天地で子供を育てようにも、今以上に貧しい思いをさせてしまう。ならばいっそ、もっとしっかりと育ててくれる所へ預けた方が、息子の将来は開けるのではないか。だから、母は私を父方の祖父母に預けた。お前みたいな疫病神は、二度と我が家にも孫にも近づくなって条件を飲んで、です」
聞いていられなかった。
あの頃、生徒が一人転校したって話に、そんな事情があるなんて思いもしなかった。
「あの時の母の顔は、今でも目に焼き付いている。そして、私は、弱かった。母や祖父母たちが決めた話に従うことしかできなかった。祖父母の下で言われるまま勉強して、医者になって。そうして思い立ったころには遅かった。もう、母の足取りを追うことはできなかった。生きているのか、死んでいるのかもわかりません」
ここで突然、目の前の医者は笑みを浮かべた。
それは、もちろん喜びや歓迎を表してはいない。
その逆だ。
「もう一度聞きます。――どうして私は、母を失わなければならなかったんですか?」
何も答えられなかった。
突き付けられた自分の罪を前に、どんな言葉も意味を持たないような気がしたのだ。
「そうですか、わかりました」
しばらくして、何も言葉を発さない俺にあきれ果てたのか、ため息を一つついて医者は背を向ける。
「ま、待ってくれ!」
その背に声をかけたのは、半ば無意識のことだった。
俺は答えを持たない。
だけど、妻の命を握っているこの男を、このまま帰してはいけないと、自分の本能がうるさいほどに訴えかけてきていた。
「何か?」
「つ、妻のことだけど――」
「ああ、ご安心ください。私は医者です。命を救うのが仕事です。助かる命をわざと失わせるようなこと、私のプライドが許しません。今回の手術は決して簡単とは言えませんが、やるべきことはやり抜きますよ」
始めて見せた満面の笑みでの言葉。
もしかして信じてもいいのでは? と思った俺の前で、急ににやりと笑った――気がした。
「でも、私は嬉しいです。奥さんのことを、本当に大切にしていらっしゃるんですね。あの当時の、薄っぺらい取り巻きどもとの関係とは全然違う。今のあなたなら、『失くしてみれば』わかるかもしれないですね。大切な人を失う痛みが」
「やめろぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおお!!」
そのあとのことは、ほとんど覚えていない。
妻を死なせると遠回しに言われたような気がして、体が勝手に動いていた。
真実は分からない。
傷害容疑で逮捕された後、拘置所で聞いたところによると、あの『いじめられっ子』は、無事に美咲の手術を成功させたらしい。
考えすぎだったのか、俺が捕まって満足して殺害計画を変えたのか、こうして俺を挑発するだけのつもりだったのか。答えは分からずとも、美咲が無事なら、俺はそれでいい。
そうして捕まっている間のことは、記憶があいまいだ。
気付けば身柄拘束は終わり、父に引き取られて実家へと戻っていた。
帰宅した翌日、父が急に俺の部屋に来た。
「おい、行くぞ。着替えろ」
「どこへ?」
「美咲さんの葬式だ。出向ける状態なんだから、行け。私も一緒に責任を取る。お前が出てくる前にも、伝えただろう?」
何を言っているのかわからなかった。
美咲の手術は成功したんだろう?
「そうだ。成功した。手術が終わって退院するまでは、とお前のことは黙っていたんだがな。だが偶然、病院内で知ってしまったらしい。『私が病気になったせいだ』と言っていて、ほとんど自殺に近い状況だったそうだ。私も、向こうの家からはそれ以上のことを聞かせてもらっていない」
美咲は精神が不安定なところがあったからこそ、こんなときにこそついていなくちゃならなかった。
きっと、自分が病気になんかなったせいで俺がこうなったと思って、感情が大荒れになったことは簡単に想像できる。
自罰的なところが暴走して、本来はそれを止めるべき俺はそばに居なくて……本当に、いやになる。
父が差し出してきた新聞を取る。
俺が捕まってすぐの時期の地方紙を受け取ってその一面を見ると、笑ってしまうくらいにデカデカと俺のやらかしたことについて書かれていた。
「ははは……。いじめ問題などに熱心に取り組んでいた熱血弁護士、自分がかつていじめていた医師へ突然の暴行。極悪弁護士の素顔、か」
「あの先生は、少し前にも、お前と一緒にいじめをしていたといっている男と似たようなもめ事があったらしいな。その男は大事にこそならなかったが、相手方の家の猛反対で婚約がなくなったそうだ。その男が、贖罪だと言って、嬉々として取材を受けているらしい」
本当に、俺はクズだった。
そして、今の俺もクズだ。
過去のいじめが消えなくても、もっとうまく立ち回れば、美咲を失わなくても済んだのかもしれない。
「昔から言って聞かせていただろう。お前は上川のすべてを継ぐ男だ。自分が皆を導く特別な立場であることを自覚しなさい、と。我が一族は現役の国会議員や何人もの地方議員がいるし、お前自身、弁護士との立場でいじめ根絶を訴えてきた。話題性は十分だ。お前の友達がどうなろうと世間は話題にすらしないだろうが、お前の立場は、それだけで話題になりうる」
呆然自失で動けない俺の腕を父が引き、無理矢理に歩かせる。
「お前だけの責任ではない。私の教育も悪かったんだろう。だから、私も一緒に責任を取る。たとえどんな目に合おうとも、父として最後までな」
本当に俺はバカだった。
未来は変えられる――だけど、過去は変えられない。
だからこそ、次の瞬間には過去になってしまう『今』を真剣に生きていなけりゃならなかったんだ。
それを、自分に見える範囲の小さな世界だけをすべてだと信じて、他者のことを分かろうとせず、ただの自己満足を積み重ねていただけ。
……本当に、バカだったよ。
久しぶりに連載作を再開する前に、リハビリ代わりに一作書いてみました。
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