一年の幻痛
西日、というとどこか悪いイメージを思い浮かべてしまう。眩しい。差し込む。暑い、だとかいろいろ。だけど、西日も案外悪くないな、って最近思う。
高校に入って、憧れだった人と再開して、放課後はこの温かな西日が射しこむ教室で一緒に本を読む。校舎の端っこ。特別棟三階にある、文学部部室。そのまた端っこに座って、差し込む斜陽を背に受け、はらりと流れる長い髪を耳にかける。
一つ一つの仕草に目が惹きつけられ、俺の手元の本は文字をなぞらないまま次へ次へと捲られていく。
「……どうかしたの?」
彼女の長いまつげが動いたと思ったら、その問いがこちらに投げかけられていた。
見とれていた、なんていうわけにはいかない。しかし、彼女はその細い指でしおりを挟むと本を閉じてしまう。本格的にこちらの話を聞く姿勢だ。
「別に、なんでもないよ」
「そう。……あやしい」
黒い大きな瞳が細められ、じとっと彼女はこちらを見つめる。その目で見られると、やましいことがなくても居心地が悪い。部室に、湿った沈黙が降りる。
ふと、窓の外に視線が行った。それを感じ取って、彼女は首をひねる。
「もしかして、眩しい?」
「あ……うん」
頭が回らないまま、問いに流されるまま、俺はなぜか頷いてしまった。すると彼女は、そっか、と小さく言ってからカーテンを閉める。部室のやけに厚いカーテンのせいで、部屋の中は一気に暗くなってしまった。
「電気付けるよ」
「えぇ、ありがとう」
扉の傍まで歩き、壁のスイッチを押す。その途端天井の蛍光灯に明かりが点き、風情も何もない無機質な光が部屋を支配した。それに少し寂しさを感じながらも、俺はもとの席に座る。
文学部とは名ばかりのこの教室には、いつも通り俺ともう一人が本を読んでいた。彼女の存在を認識しながら見ないふりをして、自分だけの世界を創ってそこに入り込んで、今日もまたページをめくる。
つまらなくはない。才を持つ人々が書いた文章をなぞり、たまに彼女と言葉を交わして、暗くなってきたらまた明日と別れを告げる。そんな、静かで寂しげで、だけど心から心地よいと呼べる空間。
たとえそれが俺の妄想であったとしても、彼女はそう思っていないとしても、それでも、この部室は俺の唯一の心のよりどころだった。
「そういえば」
口を開いたのは彼女だった。俺は本から目を離さないまま、その言葉の続きを待つ。
「あの子が来る、って言っていたわね」
「あぁ、そうだった」
すっかり忘れていた。今日は友達が用事だからだとか何とかで、あの子がこの部室に来ると言っていたのだ。俺が寂しいだろうから、なんて言っていたがいい御世話だ。
「残念だわ」
「なんで」
「そろそろ帰らないといけないの。家の用事で」
心から残念そうに少し俯いて彼女は言った。家の用事とはなんだろうか。せめて、あの子と一言二言話してからでもよさそうなのに、と思うが、口には出さない。その余裕があるのなら、彼女はそうすると言っているだろう。
「では、お先に」
「うん、お疲れ」
彼女は鞄に本を入れると、立ち上がり俺の横を通りすぎていった。
「また明日」
「えぇ、また明日」
あえて本から目は離さずに俺が別れの言葉を言うと、彼女も返してくれた。ドアを開く音は、聞こえなかったことにする。
彼女が去った部室は、寒ささえ感じた。何かを思い出してしまったかのように、胸の奥がちくりと痛む。寂しさ、だろうか。
寂しさには種類がある。どこか趣があって、こころにじんわりと染み込んでくるような寂しさ。そして、心に四角い氷を当てられているかのような、痛みを伴う寂しさ。
いずれにしろ、寂しいのには変わりない。
突然、ノックがあった。その直後に聞こえるのはやはり変わらない、快活なその声。
「お疲れ様~、今日も寒いね」
腕を抱いて部室に入ってきたその子は、団子にまとめた髪を少し整えてから、俺の正面に座った。寒い、と言いながら制服のスカートからは素足を出しているのには、言及しないでおこう。
「何してたの?」
「本読んでた」
「へぇー。おもしろい?」
「まぁまぁ」
会話と呼ぶのも憚られる、短い問答。その後に、彼女は小さく息をはいた。
「寒いね」
「……足出してるからだろ」
言うつもりはなかったが、思わず口に出てしまった。怒られる、とそう身構えたのだが、彼女は小さく「そうだね」と呟き、机に突っ伏した。
「珍しい。今日はカーテン閉めてる」
その子の目ざとさには俺も毎度驚かされる。どんな小さな変化だって見逃さず、それを踏まえてもっとも適切な行動、言動をする。それがその子の特徴だった。
人の目を気にする、と言うと聞こえが悪いが、それがその子の人との関わり方なのだろう。それが、俺を助けてくれたのかもしれない。
「西日が眩しかったから」
「そっか、もう陽が落ちるのも早いもんね」
そう言って、彼女はカーテンを少し開け窓の外を覗いた。だが、すぐに「まぶしっ」と閉めてしまう。そしてすぐにこちらに戻ってくるのかと思ったが、彼女はそのまま無駄に厚いカーテンを見つめていた。
「そういえば、もう1年だね」
「1年?」
突然に、彼女はこちらを向かずにそう告げる。一年、ちょうど今から一年前を思い出そうとするが、大して何も思いつかない。
「何かあったか?」
俺のその問いに、彼女は何も答えなかった。人の理想に添おうとする彼女らしくない――いや、それは押しつけか。にしても、彼女にしては珍しくこちらの声に何も反応しない。
「なぁ」
「あ、違うか。ごめん、日にち間違えてた。なんか最近多いなぁ、こういうの。ほんと嫌になるよ」
「……認知症、とかか?」
「失礼な!」
まるでテレビの奥の芸人のように、その子は俺にツッコみを入れた。そして楽しげにふふふっ、と笑ってから、俺の横を通り過ぎていく。
「――? もう帰るのか?」
「うん、ごめんね、ちょっと……」
その子が言葉を濁した真意が気になるが、何か理由があるのだろう。俺はそれ以上追及せず、「またな」と言葉を送る。レールとタイヤが擦れる音を響かせながら、ドアは開きその子は部室から去った。
また一人だけとなった部室で、俺は本を閉じる。特に何があってというわけではないのだが、俺は立ち上がり、窓際に置かれているティーポットに歩み寄った。もうかなり前、彼女が持ってきたものだ。毎日というわけではないが、彼女はこれでよく香りのいい紅茶を淹れてくれる。ただ紅茶の品種だけ告げて出される温かな紅茶が、なぜか無性に懐かしいような感慨に囚われてしまった。
部室にあるものは、殆どが彼女の私物だ。そのティーポットにしかり、本棚におかれた文庫本にしかり、壊れてしまった時計に代わり、設置されたアンティーク調の壁掛け時計にしかり。
「帰るか……」
何を俺は、部室の中を見回していたのだろう。昨日も、きっと明日も変わらない部室じゃないか。もちろん、卒業という別れはいつか来るのだろう。でも、それはまだ先の話だ。別に妙な気分になる理由もない。
何かおかしい自分の心に理屈を突き付け、俺は鞄を持つ。そして、扉の前。
薄いそれを挟んで向こう側から、すすり泣く声が聞こえていた。必死にそれを止めようとして、かえって苦しくなるあの泣き方。
俺は、もう少し部室で本を読んで帰ることにした。
***
「紅茶でも飲む?」
久々のその提案は、俺にとって非常に喜ばしいものだった。「もらうよ」と答えると、彼女は小さく頷いてから立ち上がる。紅茶を淹れる時の所作なんて俺に知識はないが、ただその姿は美しいと感じた。
白磁のような透き通った色の指は滑らかに動き、横髪から覗くその顔は凛として整っている。西洋の黄金比にさえ、きっと彼女は当てはまるのではないかなどという戯言を脳裏に浮かび上がらせるほど、その立ち姿は綺麗だった。
「はい、熱いから気をつけて」
「ありがとう」
カップを受け取って、俺はそれを口へ運ぶ。ちらと視線を彼女に遣ると、「どうかしら?」と目でこちらに尋ねかけていた。
「おいしいよ、香りがすごくいい」
「ありがとう。これはアッサムといってね、繊細な甘みが特徴なの。ミルクティーが美味しいと言われているけど、わたしはストレートにおいてもとてもいい茶葉だと思うわ」
彼女は紅茶の話題になるととても楽しそうに話す。声のトーンと、口角がほんの少しだけ上がるのだ。彼女が話す内容はよく理解できなかったが、そんな様子を見ているだけで、こちらも否応なく温かな気持ちになってしまう。
紅茶の味も、風味も、熱さも、あまり感じることができなかったが。
「そういえば、昨日はどんなことを話したの?」
紅茶効果だろうか、普段は寡黙な彼女がよく話してくれる。俺はそのことを嬉しく思いながら、言葉を返す。
「まぁ、いろいろ。西日についてだとか、あの子が毎日来てたころみたいな感じで」
「西日?」
「あぁ、昨日珍しくカーテン閉めただろ? それで」
「変なの。高校生の男女がそんな話をしていたの?」
呆れたように、彼女は小さく笑った。それに俺は、「別にいいだろ」と口をとがらせる。でも、すぐに彼女につられて笑ってしまった。
「あ、あとあの子が、一年がなんとかって言ってたな。間違いだったらしいけど、何か心当たりあるか?」
「一年? なにかしら」
「そうなるよな。やっぱりあの子の勘違いか」
そこまで話してから、俺は本に目を落とす。二人の間での、「話は以上だ」という暗のサインだ。あえて、あのすすり声に触れる前に俺はそれを出した。
再び、静かな時間が訪れる。
グラウンドでは運動部が部活をしているはずだが、今日はそれも聞こえなかった。まるで、世界の終わりにこの部屋だけが残っているような、そんな突飛な妄想をしてしまう。
だけど、そんなのありえない。俺と彼女が見えていないだけで、外の世界は今も動き続けている。その証拠が、扉を軽くノックした。
「入るよ」
姿を現したのは、あの子。突然の訪問に俺は思わず驚いてしまう。
「どうしたんだ?」
「いや、昨日いきなり帰っちゃったでしょ? ちょっと申し訳なかったな、って思って」
笑って話すその言葉に、『すすり泣く声を聞いたのか』という裏の思惟を感じてしまい、俺は身構えてしまう。きっとそんなの妄想なのだろうけど。
「別にいいのに」
「あれ、来ちゃ迷惑だった?」
そうやって悪戯っぽく笑うのは、彼女の悪い癖だ。俺が答えに困ることを知っていてそう言う彼女は、本当に楽しげに笑う。
いや、今日の彼女は違った。どこか、表情に影が落ちているような。そんな気がした。
「迷惑じゃないに決まってるだろ」
「よかった」
そう言ってから、彼女はどこか躊躇うように視線を落とした。どうしようもなく、俺が振り返ると、彼女は俺のカップともう一つ別に、紅茶を注いでいた。きっと、あの子のだろう。
「ねぇ、わたしね……」
やっと、口を開いたその子は、辛そうだった。だけど、俺は無言を返してその言葉を待つ。
「わたしね、聞いたんだよ。君が、この部室でしゃべっているのを……」
「喋ってる? 何を」
別に、秘密の話などした覚えはない。俺がこの部室でするのは、せいぜい世間話程度だ。なのに、一体何を聞いたというのだろうか。
「何を、じゃないよ。本当はわかってるんでしょ……?」
「なんだよ。もっとわかるように話してくれ。俺が何を話してたんだよ」
今にも泣きそうな顔になったその子は、それでも言葉を紡ぐ。
なんだろう。心の奥で誰かが、いけない、と警鐘を鳴らしている。だが、何がいけないのかは全く理解できない。
「……だから、何を喋ってたとか、関係ないんだよ」
「……」
何かが、のどの奥で暴れようとしている。自分じゃない何かが、自分の中で叫んでいる。その禁忌を、タブーを、それは――?
「君が、だれもいない――」
「――黙れ」
重く、痛いくらいに冷やかな声だった。それが自分の口から出たなんで信じられない。なぜそんなことを言ったかもわからない。
だけど、この感情だけは確実に俺の心に戻ってきていた。怖い、という感情は。
「黙らないよ。このままじゃ絶対いけない」
「……ごめん、いったん落ち着いて。紅茶でも飲んでさ。彼女が淹れてくれてるし」
なんとか彼女の気持ちを静めようと口に出したその言葉。だが、彼女はそれに目を見開いた。そしてその一瞬後には、閉じられた瞳から大量の涙があふれ出す。
なぜ彼女が泣いているのか、わからなかった。なぜ俺は、どうしようもないほどの恐怖を感じているのかわからなかった。
わからない。なにもわからない。何かが――違う。そうじゃない、ありえない。そんなのおかしい。間違っている。
そう否定しても、記憶が次々に黒く塗りつぶされていく。真っ白だったその記憶に、ノイズの入った闇が入り込んでくる。
「もうね……」
「――やめろ」
「もう……」
「やめろって言ってんだろ!」
「もう――いないんだよ。……彼女は」
その言葉が聞こえた瞬間、その錠は勢いよく外れた。
記憶が全部流れ込んでくる。忘れたはずの記憶。消し去ったはずの記憶が。
「ちがう……よな?」
振り返って、そこにいるはずの彼女を見る。
そこには、こちらを正面に見据えてまっすぐに立つ少女の姿があった。その瞳はあまりにも美しすぎて、気を抜いたら吸い込まれてしまいそうになる。
でも、彼女はきっともうそれを許さないだろう。そんな甘えは、きっともう今日までなんだと思う。
形のいい唇が動いた。
「やめろ、それだけは……!」
思わず机を突き飛ばして彼女のもとに駆け寄る。でも、彼女はそれを放つのをやめない。
その肩を、顔を、細い指を、華奢なその身体を、抱きしめ――られなかった。記憶の中のその彼女は、俺が触れるその前に、うっすらと色薄れ、存在ごと消え去った。
いつの間にか空いていた窓から吹き込んだ風と一緒に、ただ一言、それは聞こえた。
「さよなら」
*
仏壇の前のお鈴を鳴らして、両手を合わせる。これといって、何も考えなかった。ただ、どんなところかもわからないあの世とかいう場所で、彼女が幸せに暮らせることだけ。それだけを本当に心の底から願った。
彼女――相坂涼音は一年前にこの世界を去った。死因は自動車事故だったそうだ。歩道を歩いていた涼音は、突っ込んできた車に轢かれ、全身の激痛を感じながら逝ったという。
その相手は体の各所を骨折するなどある程度のけがは負ったものの、命には別条なかったそうだ。今はもう普通の暮らしを営んでいるらしい。
話を聞くと、事故のことを聞いた俺は加害者のいる病院を探し当て、ナイフを持って彼へ襲い掛かったそうだ。だれもけが人はいなかったそうだが、どうやら俺は本気だったらしい。
仏壇の前で目を開けると、隣からあの子――奥川桜が声をかけてきた。
「大丈夫?」
「うん」
頷いてから、仏壇におかれている遺影を見る。
人形を写したかのような、綺麗な写真だった。一体何の写真だろうか。彼女が死を迎えるなど、だれも予想をしていなかっただろうから、『そのため』の写真などとっていたはずもない。
だが、彼女はこの世界から消えてしまった。恐ろしいくらいあっさり、俺なんかまったく関係ない場所で。
「……いこうか」
「うん」
桜に声をかけ、涼音の両親にあいさつをしてから家を出る。
「……なぁ、信じられるか?」
「うぅん、全然」
彼女が死んでしまった、という事実を、まだどこか疑っている自分がいた。人の死、というのが、まだ多分わかってないんだと思う。
「……あの一年間、俺の中で涼音は生きてたよ」
「……ごめんね。でも……」
「あぁ、あれはただの夢。俺の目を醒ましてくれた桜には感謝してる」
俯く桜の頭に、思わず手をのせていた。でも彼女は嫌な顔などせず、小さく頷いた。
俺たちの存在とは、いったい何によって証明されているのだろうか。自分を認識・肯定してくれている人がいるから、俺はここにいることに、存在していると言える。もしそうなのだとしたら、あの一年間、涼音はそこに存在したといっていいのではないだろうか。
ただの幻だとしても、それをすべての人が等しく同じに見えたとしたら、それはもう幻なんかじゃない。幻と実在しているものの違いは、たったそんなものではないだろうか。
そこにそれがあるかどうかなんて、俺たちが認識しているか否かにすぎない。
だから、俺はこう思う。それがそこに在るかどうかなんてそんな重要なことじゃないんだ。すべては常に俺たちの中に存在していて、また常にそれは幻でもある。
だから。存在なんてどうでもいいんだから。
「ずっと、なにも変わらない……よな」
胸がぎゅっと熱くなった。もう枯れたと思っていた涙が、また出てきた。
「また泣いてる。本当に男なの?」
「えっ?」
振り返ると、彼女の姿がそこにあった。
「これって……」
「あぁ……」
隣で桜が口を手で覆った。俺たちは何も考えれないまま、そちらに踏み出す。
「あなたたちの家はこっちじゃないでしょう? ほら、行って」
彼女は、俺たちの身体をくるりと回すと、両手で背中を押してくれた。その感触が、幻覚かどうかなんて、どうでもいい。
「じゃあ、また」
「……うん、またね」
「あぁ……また」
そして、俺たちは歩き出す。もう一度振り返った時、そこには誰もいなかった。
だけど、ぬくもりは残ってる。紅茶の残り香と、余るくらい温かなぬくもりは。だから、忘れない。きっと、いつまでだって。
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