[三題話]祖母の記憶
「真音、こっちにおいで」
小さな頃、おばあちゃんにそう呼ばれたことを、よく覚えている。
病気であまり動けないのに、縁側に腰掛けては私の名前を呼び、髪を整えてくれたり、私を膝の上に乗せてお話をしてくれた。
「……今日が、最後かもしれないねえ」
そう、おばあちゃんがポツリと呟いたのは、いつだっただろうか。
その声があまりにもか細くて、膝の上で甘えていた私は、思わず振り返った。
うつむいたおばあちゃんの顔は、紫に染められた髪に隠れてあまりよく見えない。
けれど、いつも笑顔を形作っていた唇は、今はキュッと引き締められていた。
「おばあちゃん、どこか行っちゃうの?」
私は確か、そんな風に聞いたと思う。
あの頃の私は、死ぬなんて言葉の意味をよくわかっていなかったと思うから。
すぐに返事は来なかった。
二度三度深く息を吸ってから、おばあちゃんは顔を上げる。
「大丈夫よ。真音を放って、いなくなったりはせんからね」
その笑顔があんまりにも綺麗で。
人間にはこんなにも綺麗な笑顔ができるのか、と思ってしまうほどに綺麗で。
私の不安と心配は、いつの間にか吹き飛んでしまっていた。
あれから、どれだけの日々が過ぎたのだろう。
それから私は、一度もおばあちゃんには会えていない。
そして、まさかこんな風に再開するなんて、想像もしていなかった。
「おばあちゃん、久しぶりだね」
いつも通りの声で話せているだろうか。あまり自信はないけれど、その気遣いは、意味があるようには思えなかった。
目の前のベッドで眠るおばあちゃんには、機械が幾つか取り付けられていた。
人工呼吸機、心電図モニター、そして腕には何かを投薬しているのか点滴が繋がっている。
「……今、どういう状況なんですか」
「現状は安定していますが、もう一度発作が起きたら回復するのは非常に難しいと思います。……今夜が一番危ういかと」
「……そうですか」
病気で入院していることは知っていた。
会いに行こうとしても、おばあちゃんの方から「来ないでほしい」と言われていたから、きっと危ない状態なんだろうと想像もしていた。
けれど、実際にこうして現実になると、何を言えばいいのかわからなかった。
「ここにいても、問題ないですか? 治療の邪魔になったりはしませんか?」
「いえ、大丈夫です。むしろ、そばにいてあげてください」
「ありがとうございます」
一応医者に確認を取ってから、ベッドのそばに置いてあった椅子に腰掛ける。
「すみません、他の患者さんの巡回がありますので席を外します。何か変わったことがありましたら、そちらの方でナースコールをお願いします」
「わかりました。ありがとうございます」
後ろでパタンと扉が閉まると、部屋の中は静寂に包まれた。
空間を満たすのは、私とおばあちゃんの呼吸音、それに機械の電子音だけだ。
「……おばあちゃん。もっと早く教えてくれれば、いろいろお話ができたのに」
いつもきっちりと染められていた紫の髪は、今は少し黄色の混じった白になっていた。
いつもこちらに微笑みかけてくれていた唇は、今は色を失って閉じられている。
かつてと今とあまりにも違い過ぎて、それがまた悲しく思えてしまう。
「……窓、開けるよ」
あまりにも静か過ぎて、自分の心が保たない。何か、何でもいいから他の音が欲しかった。
鍵を外して、窓を開ける。
夏も終わりだからだろうか、風が少し冷たい。窓の外には中庭が広がっていて、緑が綺麗だった。もう少しすれば、あの緑も枯れ落ちていくのだろう。
そんなことを考えている時だった。
「ま、の……ん」
小さな、本当に小さな声だった。
耳を疑うほどにかすかな声だったけれど、私の耳はそれを聞き逃しはしなかった。
振り返る。
おばあちゃんは、先ほどまでと変わらずにそこに眠っている。何も変わっているような部分は見えない。
けれど。
ピクリ、とほんの僅かに、指が動いた。
「おばあちゃんっ!」
思わず、叫んでいた。
駆け寄り、動いた手を両手で包むように握る。
昔は私よりもずっと大きかった手だけれど、今は私の方が大きくなっている。ほんの少し体温の低いその手は、シワシワの感触もあいまってまるで枯れゆく木のようだった。
「おばあちゃん、真音だよ。真音は、ここにいるよ」
いつの間にか、一人称が昔に戻っていた。けれど、そんなことを気にしている余裕はない。
おばあちゃんは、まだ生きているのだと。
まだちゃんと私のことを覚えていて、呼んでくれたのだと。
そんな確信が、心の何処かにあった。
そして、今呼ばなければ二度と取り戻せなくなってしまうと、そんな焦りが心の中に押し寄せてきていた。
「ここにいるよ。だから、もう一回話してよ。もう一回目を開けてよ。このままじゃ……こ、このままお別れなんて、嫌だよ」
何故だろう、涙が、止まらない。
しゃくりあげながら、どもりながら、そう伝える。
今じゃなきゃ、もう二度と話なんてできなくなるかもしれないから。
そんな思いが、伝わってくれたのだろうか。
「ま、の、ん」
聞こえた。
幻聴なんかじゃなくて、確かに聞こえた。
顔を上げる。ベッドの枕の方へ視線を向ける。
「真音」
きっとそう言おうとしているのだろう。
口を動かすおばあちゃんがいた。
「おばあちゃん……」
何を言おうとしたのか、分からなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
ただ、おばあちゃんともう一度会えただけで、それだけで嬉しかった。
何か、何か言わなきゃ。
混乱する頭は何も答えを出してくれない。それでも、ただ一つ言わなければいけないことがあった。
「おばあちゃん、大好き」
そんな私を見て、その言葉を聞いて、おばあちゃんは何を思ったのだろうか。
ニッコリと小さく笑って、私の両手に包み込まれたままの右手が、私の手をトントン、と優しく叩く。
そして、おばあちゃんは、もう一度目をつぶった。
「……おばあちゃん?」
答えは、ない。
何も、反応がない。
「おばあちゃん?」
もう一度、試してみる。
けれど、答えはない。
さっきまで動いていた手も、今はぐったりと力をなくしていた。
「お、おばあちゃん……?」
自分の体が、思うように動かない。
どうすればいいのか、分からない。
ただ、壊れたスピーカーのように、同じ音をもう一度繰り返す。
それからのことは、何も覚えていない。
後ろから来たお医者さんにどかされて、ナースさんに部屋の外へ連れ出されてしまい、いつの間にか何もかもが終わっていた。
ただ一つ理解していたのは、
おばあちゃんは、もう二度と会えないということ。
ただ、それだけだった。
それだけで、十分だった。
涙はどうしてか出なかった。
ただ、心の中が空っぽになったかのように、何も感じることができないでいた。
今はただ、あれがおばあちゃんとの最後の瞬間だったのだと、もう二度と話すことはできないのだと、理解するので精一杯だった。
「ま、の、ん」
そんな、か細い声が聞こえて来た時のことを、私は今でも覚えている。
そして、きっとそれを忘れることはないだろう。
最後まで私を待っていてくれたおばあちゃんのことを、私はきっと、忘れない。