青い華は開かない
※この話にはグロ描写が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
もう痛みも感じることのない身体で、左手足を擦りつけるようにして、階段を這いずり上っていく。ぐっと奥からのぼってくるものも我慢することなく、吐き出す。
血にまみれた今の自分の姿は、どんな格好をしているのだろうか。先程触った様子では、顔の皮膚は無事ではないようだ。ここに来る途中で上がった悲鳴は、やはり自分を見てのものなのだろう。
エディスさんの顔を失った今の俺には、なんの価値もない。視界がうすらぼんやりとしてきた中で、エディスはそう思った。
指の皮膚が破れ、血で滑る。今は何階だろう。最上階には、いつ着くんだろう。
聖杯の軍の本拠地である白い塔の螺旋階段の中腹辺りで動きを止め、目を閉じようとしたが、まぶたがすでになくなっているため、閉じることはできなかった。
「きゃ……っ、な、なに!?」
耳にしたことがある高い少女の声に、エディスはぎょろりと目玉を動かす。目に入った黒髪と白い神官服に、ふうと息を吐き出した。
「パプリカ神官か?」
「エ、エディス……なの?」
「そうだ。なあ、最上階まで後どれくらいだ?」
「後三階よ。まさか、その体で行くつもりなの!?」
そうか、と呟き、また指で階段つかみ、肘と膝をつかって上っていく。
「無理よ、そんな体じゃ!」
パプリカの言葉も聞かず、エディスは黙々と上がっていく。とにかく、上を目指す。やがて、光が差し込んできて、エディスは心に温度が差し込んでくるのを感じた。
もう少しだ。もう少しで、終わる。全てを、自分にできることをやり遂げることができる。
階段を上り終えると、その先に、目指していた場所があった。一面が白い塔の頂上にたたずむ、銀のドア。エディスはドアの手前、人一人分だけのスペースの上に座った。
「やっと、着いた……!」
両手で触れ、頬をつけた。
【王の剣よ
神に捧げる者の血よ
我が命に答え
姿を現したまえ】
白く変色した剣を喚びだし、ドアの前に置いた。床に手をつき、息を整えてから、顔を上げ、口を開く。
【覆えよ雲
星月の瞬く
天から嘆け 日と月の
涙を降らせ――】
フィンティア家で一度使った魔法を発動する。ドアの前に置いた剣はカタカタと揺れ、触れると熱くなっていた。
『あの日の答えは?』
触ることができない程に熱くなってきた時、エディスの頭に声が響いてきた。エディスはそれに唾を飲み込んでから、口を開いた。
「死して朽ちる屍は私を理解できない。お前は生きる肉か。なれば再びお前の元へと参ろう。……って、言ってたんだよ、な?」
『そうだ』
「俺は、生きてる」
『そうか。ならば』
「憎悪がなにか、とも訊いていたな?」
『そうだ。答えは見つかったか』
エディスはごくりと唾を飲み込んでから、歯を開いた。
「憎悪とは、愛だ。憎悪なくては愛は育たない。だが、愛なくては憎悪は生まれない。憎悪が人を育て、愛が人を生む」
愛も憎しみも、自分の中で育った大切な感情だ。複雑で扱いにくく、苦しみを生むが、嬉しさも生む。
『そうだ……よい』
「エディス!」
ほっと息を漏らしたエディスの後ろから、声がかかった。呼ばれたエディスは振り返ろうとしたが、こみ上げてきた咳と血に、口を手で押さえた。
「ま、待て。止まってくれ」
「……魔力拒否症、だったっけ? 聞いたよ」
手を後ろにやって制止を促したが、ギールは足を止めない。
「俺はもう、魔物じゃない。魔力は君のために使い果たしていて、ないんだ。だから、近づいても、君の体に影響はでないよ」
エディスは近づいてくる靴音に、体を震わせた。髪をつかんで、下を向き、顔が見えないようにガードして、叫ぶ。
「来るな!」
ギールはその大声に、足を止めた。
「見ないで、くれ」
ボロボロの手で髪をちぎれそうな程に握り、体を震わせるエディスを、ギールは眉を下げて見る。
「ずっと、だましてきて……ごめん」
「え?」
「誑かして、いっぱい困らせてきただろ? 今まで、ずっと。だから、」
「そんなこと、してないだろ……」
激しい言い方にならないように注意したため、気の抜けたような言い方になったギールに、エディスはふるりと頭を振った。
「俺がお前らをだましてないなんてこと、ないだろ。俺はお前を、皆を、ずっとだましてた。利用してたんだ!」
「こんな時になって、急に変なことを言いだすなよ。君はそんなことを言うような」
「お前に愛してるなんて言い続けて、エドの父さんを殺して、シルクも殺して、姉さんの恋人まで奪った。ドゥーを、ドゥーの人生まで変えちまった! リスティーの技術を……カロルを、自分の復讐のために使った」
疲れがにじみ出ている声で叫ぶように話すエディスに、ギールは近づける気がしなくなってきていた。近づけば、この子は壊れてしまうのではないだろうか、という不安が頭をよぎる。
「そんなこと、」
けれど、きっと一度壊さなければいけない。壊さなければ元に戻ることも、新しく生まれ変わることもできない。
「そんなことっ、あるわけないだろ!!」
階下から、エディスよりも大きな声で、力の限り叫ぶ。
「俺は、君を迎えに来たんだ! だから、おいで」
そして、エディスに向かって手を差し出した。
「この手を、とって」
エディスは、表面のない顔だけを振り返らせる。薄く開けた歯がカチリと鳴った。
「とれるわけ、ない……」
力をこめていた手をゆるめ、脱力したような動きで下す。すると、銀の髪が抜けたのか、何本か散った。
「俺だけは幸せになったらダメだろ」
膝の上と、床に落ちた手は、ギールの伸ばしている手を握る気はなさそうだった。
「俺は、このまま行くよ」
「行かせない!」
頭を上に動かしながら強く言うと、エディスは体の向きを苦心して変え、妙に静かな目で正面から見つめてきた。
「急に、どうしたんだ? もう演技しなくてもいいんだぞ……?」
「違う」
違うんだ、と喉の奥から声を絞り出すギールに、エディスはがくりと首を横向ける。
「俺は、初めて会った時から君を愛していた……っ」
エディスは首を傾けたまま、ふっと息を吐き、そうか、と呟いた。
「だけど、それは……ただの夢の中の、俺にとって都合の良い世界の話だけで良かったんだ」
自嘲するような含みを混ぜた言葉を床に落としてから、エディスはギールと目を合わせる。
「ここで止めても、俺は死ぬ」
「わかってるよ」
わかってる、と繰り返し言ったギールは、さらに手を伸ばしながら叫んだ。
「だけど! 君が君を諦めても、君が俺のことを諦めていたとしても、俺は俺を、君のことを諦めたりしない! 俺も君も、今までずっと色んなことを諦めてきた。俺はもう、諦めたくなんかないんだ」
ぼんやりした様子で手を見るエディスは、そうか、ともう一度零す。
「俺は君を愛している。他の誰でもない、君のままの君が好きなんだ!」
「……もう、俺にエディスさんの顔はないんだぞ?」
「わかってる!」
ギールは目をつむり、頭を振るい、エディスを見上げた。青い目を見て、心の底から話しかける。
「君とエディスを一緒にしたことなんか、ない! いつも……いつも、呼んでただろ。エディーって!」
え、とエディスの口から音が漏れる。
「そういう、ことだったのか」
「そうだよ。……エディスの名前に、顔に誰よりも執着していたのは、君だろ」
エディスは下を向き、Tシャツの胸の辺りを握る。
「…………なあ、ギール。一つだけ、教えてくれないか?」
嫌な予感がしつつも、ギールはなに? と質問を促す。
「このドアの向こうには、エディスさんがいるんじゃないのか?」
背後のドアを手の甲で叩くと、ギールは言葉を詰まらせた。床に目を落として言うかどうか躊躇った後で、そうだよ、と答えた。
「知っていたの?」
「いや、ただの憶測だ」
ははっと乾いた笑い声を上げるエディスに、ギールは眉をしかめた。エディスは笑い声を立て、
「ごめん」
と零した。
「その言葉を信じるには、疲れすぎた」
「え――」
涙の代わりのような言葉を言ったエディスの胸に、白い剣が生える。それにギールは目を丸くさせた。
「……来る前に、全部終わってたんだ」
エディスの背中から突き刺さった剣の先を見つめるが、消えることはない。
「だから、手は取れない」
そんな、という声がギールの口から出て、床に空しく落ちていく。
「ありがとう。嬉しかったよ。……その思い出だけで、」
「諦めない! 絶対に、諦めない。屈しない!」
簡単に全てを投げ出してしまえるエディスに、ギールはまだだと声を張り上げる。
「いつか、必ず君を迎えに行く。必ず!!」
「なんで、そんな」
階段を駆け上がったギールが伸ばした手はエディスの頬を掠めることも、手を握ることもなかったが、一房だけ長いままだった左髪を少しだけ掠めた。
「君は覚えていないかもしれないけれど、俺は君の笑顔に救われたんだ。愛がどんなものか、君に教えてもらったから」
それでも微笑む男に、エディスは胸を突き刺す白い剣に手を這わせる。
「っ、馬鹿……!」
その時、一瞬だけ元の綺麗な顔が見えた。眉を寄せて澄んだ青の目から涙を零しながらも、口を弓型にして微笑む姿に、ギールは言葉を口にすることも忘れて見惚れた。
「もっと、早く聞きたかった」
最後に聞こえた小さな声に、ギールはえっと声を上げた。なんと言ったか、よく聞き取れなかった。
だが、ドアが口を大きく開き、暗く澱んだ室内にエディスは飲み込まれていった。その代わりに、青いドレスを着た銀髪の女が吐き出される。ギールはそれに巻き込まれて十数段落ちていった。
「ったた――」
後頭部に手を当てながら起き上ったギールは、腕の中に庇った女性の肩に手をそえ、仰向きにさせる。ガラスの窓から入ってきた光が、白くなめらかな相貌を包み込む。
「……久しぶりだね、エディス」
手を当てた頬は冷え切っており、ギールの指から凍らしていくようだった。飲み込まれていった少年の元の顔よりも柔らかな顔立ちをした女性は、瞼を開けて彼と同じ色の目を見せることはない。
「馬鹿は君だよ、エディー。エディスは、もう、生きていないのに……!」
ギールは彼女を抱き、体を折り曲げる。青いドレスの上に、濃い水滴の痕がついた。