白銀の少年の嘆く心傷の願い
その夜、エディスは信じられないものを見た。二度とは見たくないものを。
「お父様、愛してる」
変に抑揚をつけた声に導かれるようにして、廊下を進んだ。使用人の制止を無視して進んだ先では、子どもと大人が一つの肉の塊に変貌していた。
欲を形にした父親と泣いて犯される子どもの姿は、数年前の忌まわしい記憶を鮮烈に蘇らせ、エディスはぐっと呻いて口を手で押さえる。
まるで、あの日の自分がそこにいるようで、頭がおかしくなりそうだった。
「エンパイア公、失礼します」
ドアをくぐり抜け、声が震えないように努めて発すると、後ろから驚愕に満ちた声が上がる。
「ねえ、失礼だよ。さっさとここから出てってよ」
丸々と太った男の人から出てきた小さな子どもの手が、パタパタと上下に振られた。
「邪魔をしてしまい申し訳ございません。ですが、今は出ていくべき時ではありません」
マントを頭からかぶったまま上に着ているシャツを脱ぎ、
「ふざけないで!」
父親とシーツを振り払ってベッドから下りて来た子どもの上にかぶせる。
「なっ、なに!? シャツッ?」
「はい。これはお貸しします」
腕を通し、シャツのボタンを留めていると、隠れていたはずの銀髪をわしづかまれ、マントから頭を出させられた。
「兄様……」
「キリガネさんが寝室で待たれていますので、エドワードさんは早くお休みになってください」
伝えると、エドワードは眉を強く引き寄せる。
「寝室までは人払いをします。……一人でも行けるでしょう?」
そう言って後ろを向くと、エディスと目が合った何人かが慌てて走り出していった。
「いい夢を。エドワードさん」
エドワードを抱き締め、汗に濡れた髪を手で掻き上げて、額に口をそっと押し当てる。
「早く、行きなさい」
肩を強く押すと、エドワードは頷いた。
「……おやすみなさい」
微笑みかけると、エドワードは父親を気にしつつも走っていく。
「さて、エンパイア公。どういうことかお聞かせ願えますか」
「なんのことだか分かりませんね」
コートを脱いで腕にかけ、Tシャツ姿になったエディスは中年太りの男を見下ろした。ベッドの上で下半身にシーツを巻き付けて落ち着かない様子だ。目線もさ迷っていて、一度も合わない。
「先ほどのことです。息子さんとは合意の上で?」
「ごっ、合意に決まっているだろう!」
エディスが訊ねると、ガイラル・エンパイアはベッドを叩いて主張した。
「……そうですか」
エディスは近寄り、ガイラルの隣に腰掛ける。よこしまな目でエディスを見たガイラルは、そろりと手を動かす。だが、その手はエディス自身から叩き落された。
「公爵、お答え頂こう」
「な、なにをだ」
「三月前、月を見ましたか?」
は? と目を白黒させるガイラルを綺麗な微笑を浮かべてエディスは見やる。指を唇に押し当ててふふ、と吐息のような笑い声を零した。
「綺麗だったと聞きまして。公爵も見られました?」
「月? はあ……多分。どうかは忘れましたが」
「そうですか」
エドワードよりも一才年上なだけの少年は、ガイラルにとって目の毒になるだけだった。伏せた目元や薄らと色づいている唇がなんとも色っぽい。それも無意識でこれなのだから始末に負えない子どもだ。
「公爵は知っていますか?」
「だから、なにをだ」
とても人間とは思えない、人を化かして生気を吸う魔物のようにしか見えない容姿をしているエディスが迫ってきて、ガイラルの胸が飛び跳ねる。なんだか花に似た香りまでしてくる気がした。
「青い満月を」
「どこで見たかは忘れたが、知っているぞ」
「美しかったですか?」
エディスに気をとられてしまったガイラルは、余計なことまで話していることに気が付かない。
「ああ。本物の金で作られている星が埋め込まれているんだ。あれは見事だったよ」
「それは凄い!」
艶やかな微笑で見つめてくるエディスにたまらず飛びつこうとしたガイラルを、
「楽しいお話をありがとうございました」
エディスはベッドから立ち上がることで避けた。そのためガイラルはベッドから落ちそうになり、手をバタつかせて上へと戻る。
「とても楽しかったです。流石、公爵ともなると見ている物が違いますね」
「そ、そうかね?」
「ええ」
すっかりいい気分になっているガイラルを見下ろしたエディスは、時計の方に目をやってからまた視線を合わせた。
「時間を忘れてしまいました」
そう言って笑ったエディスは、こんな時間にお邪魔してしまって……と申し訳なさそうな顔を作ってみせる。実際話していた時間は五分かそこらなので、長くはない。
「そろそろ私も失礼させて頂きますね」
エディスが一礼して去ろうとすれば、ガイラルはその腕をつかんで引き止める。振り払ってやりたかったが、エディスは愛そう笑いを浮かべた。
「どうされました?」
「わ、わしにも……」
「あなたにも?」
なにを言いたいのかがイマイチ分からなかったエディスが首を傾げる。ガイラルはたっぷりと肉ののった体をもじもじと揺さぶりながらエディスを見つめた。
「エドワードのように」
それを聞いたエディスはああ、と心中で呟き、そして気持ち悪いなとムカムカする気持ちを抑え込む。
「おやすみなさい」
仕方がないと自分に言い聞かせて、ガイラルの額に口をつけた。
「おやすみ」
口にしてこようとするガイラルの首に抱き付いてから素早く離れたエディスは、とびきりの笑顔で笑いかけてから部屋を出ていく。これで体面は取り繕えたはずだ。
「あ、あの……エディスさん」
不快を露わにしたエディスが廊下を歩いていると、屋敷の使用人たちが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? 気持ち悪かったでしょう?」
エディスを気遣うようで、中の様子を聞きたがっているだけの使用人たちに、嫌気だけではなく怒りまで湧き上がってくる。
「あなたたちは知っていたんですか」
エディスが訊ねた瞬間、屋敷の温度が急速に下がった感じがした。実際には使用人たちの気分が盛り下がっただけなのだが、それを受けてエディスまで白けてくる。
「なぜ誰も止めようとしなかったんです」
「だって……」
あの子、と言い訳から始まった。
「だってではないですよ」
「あの子、ああいうこと好きそうじゃない。楽しんでるし」
「好きで父親と寝るわけないでしょう」
苛立ちまぎれに吐き捨てるが、誰も理解ができないようで首を傾げたりくすくすと笑う。
見限りをつけたエディスは無言で頭を下げて立ち去っていった。
(主人が主人なら、使用人も使用人か)
屋根裏に用意された自室にこもり、ミシアに提出する書類を作るため、机へ向かう。
窓の方に顔を向けると、黒い夜空の中に欠けた月が浮かんでいた。エディスは顔を綻ばせて見入った後、用紙とペンを机の中から取り出し、書き始める。
ガイラル・エンパイアを自分が殺せば、あの少年がどうなるのかを分かっていて尚、エディスは事実以外を書く気にはなれなかった。