白銀の少年の嘆くネクタイの願い
軍務をこなしつつ、エンパイア家での潜入捜査を続けることは、思っていたよりもエディスの心に温かみを取り戻した。
「只今戻りました」
車で送られ、屋敷の中に入ったエディスがそう声をかけると、どこか遠くからドアが開閉する音が聞こえてきた。
「おかえりなさいっ、エディスさん!」
それから、金色の塊がぶつかってくる。二年前からゆるやかにしか成長しないエディスとはほぼ変わらない身長の義理の弟であるエドワード。適度な距離をとって接することができたらと思っていた彼は、なぜか自分に懐いてきてくれた。それは、本来嬉しいもののはずが、エディスの心に暗い影を落とし込む。思いださせるのだ。シルクが自分の前に現れ、好きだと言った日のことを。そして、羨ましいのだ。エドワードと名を呼ばれる彼が。
「ただいま、エドワードさん」
けれど、それでもこうして家と呼ばれる場所に帰り、キラキラと明るく輝く宝石のような青い目で真っ直ぐ自分を見て、おかえりと言ってくれるこの少年に、エディスは好感を持っていた。
素直に感情を表に出し、よく動く。可愛い子どもだ。男の子だけれども、守ってあげたいとさえ思えてくる。
「また課題で見て欲しいところがあるんだけど、いい?」
「勿論いいですよ」
まとわりつくような冷たい視線が、この屋敷には張り巡らされている。それは、エディスに向けられているものではない。正体を知らないというわけでもないのに、エディスがぶっきら棒に対応しても、なぜかここの人たちは笑顔で返してくる。
この視線は、無害そう――というか、実際この子はなんの力も持っていないか弱い――少年に向けられていた。なぜかは知らない。けれども、へばりつくようなその暗い目が、エディスを不快に思わせる。まるで、自分を見ているようだったからだ。
「先に部屋に行っててください」
くしゃりと柔らかい金の髪を撫でる。ああ、シルクの色だ。王族に似ているということは、あの子に似ているということだ。俺の妹、俺の弟。
「着替えたらすぐに行きます」
「……うん!」
こんな風に笑う、いたいけな子どもになにがあるっていうんだ。暗い目を向けられることなどなにもないはずだ。
エディスはエドワードの背をそっと押し、人から隠すようにして進み始める。この任務中だけしか自分はこの子の兄として演じることはできなくなるし、その後はただただ恨まれるだけになるかもしれない。けれど、その間だけでもいいからこの子を守ってあげたい。どうしてか、自分に似ている気がするこの小さな温かみを持つエドワードを。
翌日、休暇を与えられていたエディスは、どうやって過ごすかで悩んでいた。研究をするには手元に資料がない、鍛練は場所がなくてできない、ならば潜入任務を進めるか、この屋敷の中を歩いて回ろうと思ったエディスはベッドから下り、部屋に備え付けられている洗面台で顔を洗い、クローゼットを開けた。寝巻にしている白いシャツと紺のゆったりとしたパンツを脱ぎ、たたんで入れてから、無地の黒いシャツとスラックス、それと少し迷ってから赤いネクタイを引き出す。
上下のセットを着、ネクタイを緩く締めて調整しようとした時、ドアが叩かれた。
「エドワードさんですか?」
屋根裏に用意されたエディスの部屋に近寄る人はエドワードくらいしかいない。ドアに歩いていき、開けるとやはりそこにいたのはエドワードだった。エディスはふんわりとしたエドワードの髪を撫で、雰囲気をなるべく和らいだものにする。
「おはようございます」
「おはよう、エディスさんっ!」
しっかり笑顔を向けてくるエドワードは、今日はいつもと雰囲気が違った。エディスと同じような服装だからだろうか、とエディスは考える。
「ねえ、エディスさん。今日ってお休みなんだよね?」
「ええ、そうですよ」
お休みです、と言いながらエドワードを室内に勧め、ソファーがないためにメイキングし直したベッドに座ってもらう。
「あのね、一緒に出掛けよう」
エドワードの急な説明にエディスは目を丸くし、顔を見た。少し考えた後、
「いいですよ」
さらりと返事をする。休みの日なんだから休んでもいいだろう、この可愛い弟に付き合っても誰もなにも言わないだろうと思ったのだ。
「やったあ!」
両手を鳴らして喜ぶエドワードに、苦笑じみた表情を浮かべてしまう。
「ただし、二人ほど護衛を連れていっても」
「やだ」
だが、必要な提案を即座に断れると、本当に苦い顔になった。
「エドワードさんはこのお家の後継者です。大事にしていただかなければなりません」
「……それでも、嫌だ」
この少年は、素直で聞き分けがいい。ワガママなようにも見えるが、その実は全く違う。寂しがりで、ひとりぼっちで、自分の身を守るすべを持たない、柔らかで危ない心を持っている。
「どうしてですか?」
だから、エディスはことさら優しい声で訊いた。
エドワードはこくりと唾を飲み込み、エディスの目を覗きこむ。エドワードは黒いスラックスを小さな手で握り、口を開いた。
「誰にも、見られたくないんだ。近寄られたくない。この家の人には」
「誰にも?」
「うん。……エディスさんや、キリーは、ちょっと違うけど。他の人は、イヤ」
ぽつぽつと語られる言葉から、うっすらと分かってきた。この少年もまた、自身への視線に気づき、不安を抱いている。
「分かりました。では、その……キリーさん?」
「キリガネ。父様の側近だよ」
「では、キリガネさんにだけ出かけることを伝えてもいいですか?」
あだ名で呼ぶくらい親密な相手なのだろう。このくらいのことはできるはずだ。そして、案の定エドワードはうんっ! と言って笑った。エディスはほっと胸を撫で下しつつ、出かけるために必要最低限のものを入れた鞄を手に取る。
「では行きましょうか?」
「うん! あ、でもちょっと待って」
「はい?」
エドワードもすでに鞄を手に持っており、準備は整っていそうだ。なにかあるのだろうか、と首を傾げたエディスの首元に手が伸びてきて、中途半端に結ばれたままだった赤いネクタイを引き抜いた。
「他の色のネクタイって持ってないの?」
「え? いえ、ありますが……」
「見せてもらってもいい?」
「ええ。どうぞ」
クローゼットに寄り、開く。扉側に引っかかっている何本かのネクタイを見――エドワードはその内の一本を手に取り、エディスの首元に当てる。
「うん、こっちの方がいいよ」
そして、手際よくエディスにそのネクタイを締めた。余程慣れているのだろう、洗練された手つきだった。
「赤だとあまりにも強い印象になっちゃうから……エメラルドグリーンくらいがいいよ。その方が目にも映えるしね」
光沢のある鮮やかな緑色のネクタイ。それに手を当てて、エディスはありがとうございます、と礼を言う。死や血を連想させる赤よりも緑が似合う。その言葉はエディスの胸を少しくすぐった。
「じゃ、行こう!」
そうして、手を握ってくる少年を見て、やはり守りたいなとエディスは思うのだった。