フランケンシュタインの胸の内
――フランケンシュタインが作った怪物は、死の間際に何を思っただろう。
――フランケンシュタインの怪物と出会った女の子は、死の間際に彼をどう思っていたのだろう。
今日も喫茶『Canon』は閑古鳥。閑古鳥は閑古鳥なのだが。
「お客じゃない来訪者が、多過ぎる!」
次々とこっそり扉の前に置かれていく包みを乱暴に開けながら克美がとうとうキレ出した。
「なーんでボクがこんな恰好で伊勢町商店街を練り歩かなくちゃならないんだぁっ!」
そう叫びながら包みから彼女が取り出した新たな一つは、カクテルドレスを改造して作った吸血女のコスチュームっぽく見える。ご丁寧にマントのおまけ付き。
「さっきのバニーガールよりはいいんじゃないの?」
と慰めにもならない言葉を投げながら、辰巳もキッチンから出てコーヒーを片手にホール中央の大テーブルでプレゼントを開封している克美の傍らからそれを眺めた。
「あんなの論外だ! しかもツインテールとか指令付きだったし、今川ちゃんのヤツ!」
今川ちゃんとは、旧伊勢町商店街で今川焼きを販売している和菓子屋の息子だ。稼業を継いで頑張っているが、やはりこのご時世で経営が芳しくないらしい。朝のうちに仕込んで、売れるだけ売る。それを奥さんに任せて彼が派遣の仕事へ出るようになってからそろそろ二年が経とうとしている。彼は何かにつけ前向きな努力家だ。こんなおふざけも、まだ繁盛していた頃から世話になっている克美や自分だからこそのジョークだろう。克美が中学相当の年頃にも、よくコスチュームをプレゼントしてくれた――当時はもっと健全路線の衣装だったが。
そんな彼の頼みで克美がイベントのヘルプを引き受けていたことを知ったのは、今朝、店の前に置かれていた最初の包みに気付いたときだ。隠しごとなんかしたこともなかったのにと思うと、今川ちゃんだけでなく克美に対しても妙な腹立たしさを禁じ得ない。
「今度今川ちゃんに会ったら叱っておくよ。ストラップのないこんな衣装じゃあ、克美の場合ストンって前が落」
「天誅!!」
「つぁがっ!!」
落ちたのはバニガ衣装の前ではなく、辰巳の脳天目掛けた克美の踵、というオチがついた。
「取り敢えず着るだけ着てみようー。辰巳、お客が来たら呼んでなっ」
「へいへい」
義兄心、義妹知らず。
そんな脳内の愚痴も、事務所の扉がパタンとシャットアウトされた。
今日はハロウィン。万聖節の前の夜。死者が家族を訪ねたり、精霊や魔女が現れると言われる怖い夜。元来はキリスト信者のお盆のような行事のはずだが、「祝い」と称されるように、なぜか浮かれたくなるイベントのようだ。それがいつの間にやら日本にも普及し、こんな田舎の商店街でも地域の町興しに一役買っている。オリンピックブームに便乗し、なんとかあの賑わいを取り戻そうと商店街が躍起になっていた。
克美のもとへ衣装が何かと届くのは、キャンペーンマスコットになって欲しいから、らしい。
『克美ちゃんへのダイレクトアタックも望み薄だけど、マスターに頼んだら殺されそうな気がする』
ふとそんなメッセージの一文を思い出し、不意に辰巳の眉間に深い皺が寄った。
「解ってんなら最初から届けて来るな、っつーの。大体そんなの事前に聞いていれば速攻断ってるっつーの」
結局一度は袖を通さないと気が済まない服フェチな克美が事務所で一人コスプレを楽しんでいる間、辰巳はずっと店で、一人そんなぼやきばかりを口にしていた。
「辰巳、来て来てっ」
事務所の扉が少しだけ開いて、克美が何やら企んでいそうな笑顔で手招きをした。
「辰巳と一緒に、って、お前の分のコスもあるよっ。一緒に商店街を回ろうぜっ」
珍しい。どういう風の吹き回しだ。目立つことの一切を嫌ってノーと即答するのが常なのに。
(ま、どうせろくなことを考えてないとは思うけど)
妙に嬉しそうな彼女の笑顔が気になり、辰巳は手にしていたマイカップの中身を飲み干すと、若干の警戒心を携えて事務所へ足を向けた。
「……まさか俺にこれを着てあの街中を練り歩け、と……?」
ソファに広げられた二着を目にして、一瞬白目を剥きそうになった。そりゃそうだ。克美はまだいい。単純に赤い小さな頭巾をかぶればいいだけだ。一応それなりのコスチュームではあるが、それほど珍妙なものではない。
「だってこれ、特注だよ。辰巳の身長に合わせてあるもん。それに」
その先を、何も口ごもらなくてもすぐ解るのに。克美は顔に出やすいから。
「北木クン、か。これの送り主」
なんとも複雑な心境になる。兄貴として喜ぶべきだと頭では解っているが。健気で誠実な彼が、克美を諦めずにまた届けてくれたこの贈り物。彼がまた頑張ってくれるというのなら、克美を彼に託せるということなのに。
頭のよい北木のことだ。このチョイスから推測するに、自分にしか解らない皮肉もこめているという気がしてならない。
「克美の赤ずきんはまだ外を歩くのに抵抗はないだろうけど、俺のオオカミコスは、確実に子供を泣かせるでしょ。だから、却下」
北木の策にまんまと嵌って彼に増長されて堪るものか。辰巳は汚物のような扱いでオオカミの衣装をつまみ上げた。
「これは克美にあんな露出度の高い衣装を送ったお仕置きってことで、今川ちゃんに着てもらうことにしよう」
「えー、だって北木さんは」
「そうすれば北木クンのプレゼントも無駄にはならないでしょ」
「……何怒ってんの?」
「怒ってませんし、着ません」
辰巳は全力でその着ぐるみの着用について、克美に有無を言わせず拒否する意向を口にした。
まったく、冗談じゃない。オオカミの着ぐるみなんて、特に花街で勤める女どもに見つかりでもしたら、何を克美に吹き込むか解らない。
――理想の兄貴でいたいことのどこが悪い。
「ほら、今川ちゃんとこ行くぞ。代わりに彼の仮装を俺がやる。それなら文句ないだろう」
腹立たしさと一緒に、オオカミの衣装を紙袋に放り込んだ。そのときには気付いていなかったのだ。口に手を添えた克美が、その奥でにんまりと策士の笑みを浮かべていたことを。
だから、どうしてここ一番という時の警戒心はバッチリなのに、こういうときには頭にバカがつくくらい抜けているんだ、俺ってヤツは。
今川家の客間に置かれている姿見に面してついた辰巳の深い溜息には、そんな自己嫌悪がこもっていた。
「や~っぱねっ、辰巳くらいの背がないと迫力が出ないんだよね、この仮装は」
今川家の客室を占拠して着替えさせられたのは、ストーンウォッシュ加工を施してわざと汚い雰囲気を出したジャケットにタートルネック、穴の開いたチノパンといった、割と外を歩いても無難なものではあるが。
「ねえ、この首のボルト外したい。首が全然回らないじゃん」
「だーめっ。特殊メイクにまで手が回らないから、それだけが仮装アピの根拠になるのっ」
フランケンシュタインの怪物になるくらいだったら、顔を隠せるオオカミのほうがまだマシだった。悔やんだところで、ここまで来たら“時既に遅し”としか言いようがない。
「う~……、やっぱ、やだ。いい年こいてデコ丸出し」
無駄と知りつつ抵抗する。
「うぁ! 折角角刈りちっくにまとめたのに! 何引っ掻き回してるんだよ。イベント始まっちゃうじゃんか!」
始まって、そのまま参加しないうちに終わってくれ。伊達眼鏡も却下された。素顔に近いこれを晒すのは、正直言ってかなりマズい。それはもういろんな意味で。
「克美、せめてサングラスとか掛けちゃダメ?」
「ダメ。子供達が怖がるでしょ。怖過ぎず、つまらなくもなく、ってのが一番ウケるんだから」
「でもさ、素顔がバレると、どこで海藤の連中に見つけられるかわかんない訳だし」
「だからちゃんと顔に傷跡のメイク入れてんじゃん。大丈夫、ボクが保障してあげるっ」
なんとも心許ない保障だな、という愚痴はどうにか呑み込んだ。
「たっつん、克美ちゃん。用意できた? やばいよ、そろそろ開会式が始まっちゃう」
襖の向こうから、今川の催促する声が飛んで来た。
「はーい、できたよっ。すぐ出るねー」
「誰がすぐ出ると言った」
辰巳の突っ込みは見事にスルーされ、小生意気な赤ずきんはフランケンシュタインの腕を取って客間から無理矢理嫌がる怪物を連れ出した。
今川家のリビングへ渋々顔を出すと、オオカミ姿の今川と、シニョンスタイルで色香を漂わせるうなじを晒した彼の細君が、なんとも言えない表情で辰巳をしげしげと眺め――俯いて肩を震わせた。
「フ……フランケンシュタインっていうより……っ」
「“その筋”の人みたいだな」
何も知らない二人から笑いが出たことに幾分かほっとさせられる。血色の悪いメイクのおかげで“そのもの”には見えずに済んだらしい。隣で蒼ざめている克美を肘で軽くコツンと小突いた。
(だから言っただろ。目立つことなんかしちゃダメだ、って)
(だって……商店街の会長に辰巳をどうにか説得しろ、って言われてたんだからしょうがないだろ)
(だったら最初から俺にそう言えばいいでしょ。俺が直接会長に断りを入れれば済んだ話だったのに)
「だって」
「キャパに見合ったことをすればいいの。無理して抱え込むんじゃありません」
ひそひそ話がいつしか地声に変わり、今川の耳にも届いてしまったらしい。彼はオオカミの頭を取って、オオカミとは似ても似つかぬ人のよい垂れ目を覗かせて笑った。
「悪い悪い。いや、真正面からたっつんに頼んでも絶対断られるから、って会長に言われてさ。克美ちゃんに一肌脱いでもらった、って訳よ。克美ちゃんを怒らないでやってな」
「娘を持つ母親としての意見だけどね、辰巳さん。あまり箱入り娘にし過ぎても、克美ちゃんがあとあと苦労することになっちゃうわよ。一緒に回ってあげられるんだし、一緒に楽しんでしまいなさいな」
今川夫人にまで克美の肩を持つかのようにお説教をされてしまうと。
「……そうっすね」
多勢に無勢、妥協するしかなかった。
駅前大通りと公園通りを結ぶように細く短い商店街。それが、旧伊勢町商店街だ。新伊勢町――今この辺で言うところの『本来の伊勢町通り』が、信州へのオリンピック招致によって再開発されることが決定した。それと同時に、この旧伊勢町商店街も長い歴史に幕を閉じることとなる。商工会の面々は、未だ反対の署名運動をしているものの、見通しは決して明るくない。
明るくないのはそんな未来の展望だけでなく、商店街そのものがあまり明るくないのだ。雨の日でも買い物ができるという謳い文句で町興し事業の一環として設置されたが、無計画な政治家達による思いつき議案の成立によって新伊勢町通りができてから、この通りの衰退が始まった。
「最後の悪あがき、っていうか、いたずらだよ、いたずら」
苦笑しながら今川が言う。
「それでもな、親父達が守って来た店だし、街だしさ。取り壊される前に、一つくらい楽しくて面白い思い出ってやつを、子供達に残してやりたいじゃん」
あれだけ人前に出るのを怖がる克美が、この小さな依頼を引き受けた理由が解った気がした。今朝方飲み込んだ不満は、辰巳の中から跡形もなく消えていた。
「ま、せいぜいチビっこ達を驚かせてあげましょっか」
「たっつんの場合はほどほどにな。あんたの場合はデカいから、凄まれたらマジ怖いし」
「へいへい」
小声で会話を交わすとともに視線を互いに向け合うと、ついその奇天烈な恰好に照れ混じりの笑いが漏れた。
思えば克美が子供の頃は、ハロウィンなんてメジャーではなくて、それにそんな気持ちの余裕もなくて、子供時代にしか味わえない楽しみの一つも施してやれなかった。
(遅ればせながらのイベントパーティーと思えばいっか)
首のボルトはうっとうしいが、そのくらい我慢してやろう。今まで何もしてやれなかったのだから。
「今川ちゃん。誘ってくれてありがとね」
「お? おう」
今回の機会を恵んでくれた今川に、やっと素直な礼を伝えることができた。
仮装した商店街の面々の前で、ビールケースを台に見立てた簡易舞台でマイクを握る克美の声が商店街に響く。
「っしゃー! みんな、今日はがっつりお菓子をゲットしようぜ! 合言葉はー?」
トリック・オア・トリート!と威勢のよい応答が、子供のみならず黄色い声やテノールの声も混じって辰巳の鼓膜まで揺さぶった。
駅前で配ったチラシを手に、母親と思しき大人達も子供のあとをついていく。またある母親などは、子が小さ過ぎるので抱っこしながら練り歩く。親子連れも多く、チラシについている割引券とお菓子交換券目当てに商店街へ赴いてくれた老夫妻も日頃より多かった。
商店街の仮装メンバーは、子供達の味方で、店側を脅かす係らしい。店の人達が段取りどおりお菓子を出すのを渋ると、控えていた怪物たちが子供達の前へ飛び出して大袈裟な芝居をするのだそうだ。
イベントに参加しているお客を見ると、何人か『Canon』の常連客も混じっていた。
「マスター……イメージが……何やってるのよ、こんなカッコして」
結構容赦のない女子高生の言葉に、軽くへこんだ気分になる。
「お手伝い。ほら、早く行かないと、いたずらしちゃうぞ。Trick or Treat!!」
「キャー! されてみたいっ」
「……いいから早く行っておいで」
最近の若い子は、と年寄りめいた愚痴が零れそうになる。溜息とともに通りの端に並んでいるベンチの一つに腰掛けた。歩き疲れた老人よろしく、両膝に肘をついてがくりと半身を力なく落とす。どうも楽しみ方が解らない。慣れないことはするもんじゃない。
克美は大丈夫だろうか。ふと気になって頭を上げると、見慣れない小さな女の子が目の前に立っていて、じっと自分を見つめていた。
「怪物のおじさん?」
「そうだよ。君は、お菓子をもらいに行かないの?」
「覚えてなぁい? マヤだよ」
「マヤ、ちゃん……」
まったく身に覚えがない。親などと一緒に店に来たという記憶もない。年の頃は、小学校低学年くらいだろうか。賢そうなきりりとした目をまっすぐ辰巳に向けていた。
「前に一緒に遊んだでしょ。駐車場の上の公園で」
「公園?」
「うん。デパートの近くんとこの。マヤ、ずっと心配だったの。一緒に遊んでくれたのに、怪物のおじさん、お巡りさんに連れて行かれちゃったから」
「……」
どうやら人違いをしているようだ。しかも、なんだかきな臭い話。事件に巻き込まれたという自覚がないまま事件が収束した、といったところだろうか。
「あのあと、大丈夫だった? お巡りさんにいじめられなかった?」
「うん。大丈夫。だからまた遊びに来たんだ。今度はお巡りさんに間違われないように、たくさんの人と遊ぼうと思って」
無駄に心を痛めさせることはないだろう。嘘も時には方便になる。恐らく彼女は連れ去りか何か、フランケンシュタインのマスクを被った犯人と楽しい会話でもしたのだろう。ことを起こされる前に警察が保護した、といったところではないかと思われる。
「ねえ、約束、覚えてる?」
「約束?」
「忘れちゃったの? 今度こそ、助けて」
耳を疑うその言葉が、ほかの奇異さにも気付かせた。親と思しき大人が、いない。見れば着ている服も、あまり洗濯がされてないようだ。髪の艶は、克美を拾った当時の彼女の皮脂で汚れた髪を思い起こさせた。
「……え、っと……ごめんね。ちょっとあのとき頭を打っちゃって、覚えてないことがところどころあるんだ」
ちくりと心が痛む。彼女の瞳を守る涙の膜が大きくうねり、それが溢れると解っていたから。でも、ほかに言いようがない。
「助けてくれる、って言ったじゃん。ママやマヤをいじめるママのお友達からマヤを守ってくれる、って」
ありがちな可能性を確認すべく、問い返す。
「ママのお友達って、男の人、だったっけ」
「うん。まだいるんだよ。マヤ、おじさんのこと、探してたんだよ、あれからずっと」
零れた涙を拭う小さく細い腕を、怯えさせぬようそっと掴んだ。
「ごめんね。なかなか公園へ行けなくて。おじさん、こんな感じだろう。前は首にボルトなんか刺さっていなかっただろう?」
小さな子をそっと膝へ乗せて抱き寄せる。
「怪我がなかなか治らなくてね。マヤちゃんとの思い出も、ところどころ欠けちゃってるんだ。もう一度、教えてくれないかな。俺とどんなお話をしたのか」
懐の中の少女がもそもそと動き、小さな腕を伸ばしてそっと贋物のボルトに触れた。
「痛そう……。大丈夫?」
――優しい子だ。
「文句言ってごめんね。おじさんも、苦しかったんだね」
あのとき、おじさんも泣いていたもんね、という彼女の言葉が気になった。
マヤと名乗ったその少女は、母親の元へ愛人が来るたび、昼夜問わず部屋を追い出されていたらしい。必ず行くのが駅前のデパート付近にある地下駐車場の上の公園だった。そこは遊具の一つもない、ベンチと少ない外灯だけ、という寂れた古い公園だ。
いつものように人形を片手にベンチで腰掛けて泣いていると、両手に何かを持った人影が近付いて来たそうだ。服装と声から男だということは判ったらしいが、男はマヤを見とめた瞬間、左手に持っていたマスクを被ったらしい。それがフランケンシュタインのマスクだった。
そのとき彼が少女に話したこと。少女が母親やその愛人からの虐待の話をして泣いたとき、彼は一緒に泣いてくれたらしい。
『俺とおんなじだ、マヤちゃんは』
だから、今すぐ彼女のことも守ってやると言ったそうだ。
『一人も二人も一緒だから』
ママとそいつをやっつけたら、一緒に暮らそう、どこかへ逃げよう。彼はそう言って抱きしめてくれた。
「こうやって、今みたいに」
全然怖くなんかなかった、と言う。とっても怖い顔だけど、とてもあったかかった、と彼女は微笑んだ。
「でもね、マヤ、ママのことは大好きなの。だから、ママのお友達だけ追い払って、って話をしていたときに、お巡りさん達が来ちゃったんだよ。ぼこぼこって、おじさん独りぼっちだったのに、みんなで一度におじさんのこと……ひどいよ、って思ったのに……ごめんね、おじさん。マヤ、助けてくれるって言ってもらったのに、マヤはおじさんを助けてあげられなかった」
彼女の話を聞きながら、一つの事件を思い出す。小磯から耳にした話だ。警察にとって芳しくない結末だったため、一切報道されなかった。
虐待を受けていた中学生が、両親をバットで殴打して殺した事件。数日前から用意周到にした形跡があり、押収されたものの一つにマスクがあった。
『何か腹ん中に抱えていそうなんだが、口を一切割らねえんだ。死刑にしてくれの一点張りでよ。ちと手を貸してくんねえか』
警察でもなく弁護士や検事でもない、それでいて少年に信用させられる可能性がある人間であり口の堅い人物。
『一般人で、しかも『Canon』のマスターだったら、噂さえ知ってりゃあの子も何か話す気になるんじゃねえかと思ってな』
結局あの少年は何も語ることのないまま、警官の目を盗んで逃げ、数日後遺体で発見された。彼の傍らには、真新しい漂白剤の空瓶が転がっていたそうだ。
「おじさん、生きててくれてよかった。死にたい、って言っていたから」
少女の声で、我に返る。
「死にたかったよ……。でも、マヤちゃんとの約束があるもんね」
見上げて来る瞳に、精一杯の微笑で答える。
「まだ怪我が治ってないから直接助けるのは無理だけど、もう一度だけお巡りさんを信じて。仲直りしたんだ、お巡りさんと俺」
だから、警察の人がマヤちゃんの家を訪ねるまで、もう少しだけ待っていて、と伝えた。そして彼女の持ち物から、住所と姓名を探して自分の脳へ記憶した。
「必ず、今度こそ助けてあげる。そうだな……一ヶ月以内に。その間、頑張って、生きて」
そう伝え、脇に置いていたチラシにメモを記すと、小さくたたんだそれを彼女へ手渡した。
「赤ずきんのお姉さんのところへこれを持って行って、“トリック・オア・トリート”って言ってごらん」
「とり……?」
「トリック・オア・トリート。お菓子をくれないとイタズラしちゃうぞ、って意味だよ。必ず赤ずきんのお姉さんが、マヤちゃんの好きなお菓子を置いているお店へ連れてってくれる」
「ホント?」
「ホント。赤ずきんのお姉さんも、キミと同じ経験をしているから」
「同じ?」
「うん。別の怪物に守ってもらってる」
「赤ずきんちゃんなのに?」
「そう。おばあさんも死んでしまって、猟師がここにはいないから」
「……よくわかんないけど……わかった」
「じゃあね」
「おじさんとは、もう会えないの?」
寂しげな瞳は、遠い昔の『克也』を思い出させる。独りぼっちにしないで、と声を失った頃の克也を。
「怪物は、人間と一緒には住めないんだ。前は一緒に暮らそうなんてできない約束をしてごめんね」
零す涙を、もうこれ以上は拭ってやれない。克美だけで、精一杯だ。いずれその克美も『人間』の住むべき場所へ返す確約があるからこそ、今こうしていられるだけで。目の前のこの子には、そういった約束を残してやれない。
「でも、俺よりもずっとキミを大切にしてくれる人達に囲まれて暮らせるから、大丈夫」
立ち尽くす彼女の肩をそっと掴んで、くるりと自分のほうへ背を向けさせる。
「さあ、行って、お菓子をたくさんもらっておいで」
小さな背中をとんと押すと、彼女は弾かれたように走り出した。
「ありがとう、おじさん!」
振り返らないまま、手を振って遠のいていく少女の背中を苦笑いで見送った。
――怪物は、人間と一緒には住めないんだ。
自分の発した言葉に、辰巳自身が打ちのめされていた。
午後の回のイベントもこなし終えると、もうとっくに日が暮れていた。夕方だけ店を開けても仕方がないのでアパートへ戻った。
「ね、辰巳。午前中に来たあの子、小磯さんに任せることにしたんだろ? 小磯さん、どうにかなりそうだって?」
なかなか落ちない傷のメイクと悪戦苦闘している背後からそんな声が聞こえた。
「うん。何度か虐待じゃないか、って民生に通報があった家らしい。あの子には一ヶ月って言っておいたけど、もっと早く段取りを組めそうだ、って言ってた」
あまりその話をしたくない。気分がまた重くなるから。
「克美ぃ。お前さん、これ普通のメイクセットと違うだろ。なかなか落ちん」
振り返ればとうに着替えの済んでいる克美が、なぜか困った笑みを浮かべていた。
「フランケンシュタインを地で行っちゃったから、顔に張りついちまったんじゃねえの?」
どういう意味だと問うことは、藪蛇になりそうな気がしたので避けた。
「フランケンシュタインってのは、怪物を作った博士の名前ですー。みんな勘違いしてるけどね」
彼女に再び背を向けて、また顔を洗い直す。逃げたと彼女に覚られないよう、自然を装い彼女から逃げる。
「あ、そういえば映画でも、女の子は『おじさん』としか呼んでなかったな」
察してくれたのか、彼女もそれ以上は追及せずに、どうでもよい話に乗って来た。
「でもさ、フランケンの怪物って、こんなに人間に近い姿なんかじゃなかったよねー。紋々も入れてなんかいないしー」
彼女がそう笑いながら、からかうように背に施されている昇龍の輪郭をなぞる。背筋に奇妙な感覚が走り、つい語気が荒くなった。
「触るな。好きで入れた訳じゃない」
「でもボクは好きだよ、これ。だって辰巳の一部だもん」
自分が助けてやれなかった、と落ち込んでいるだろうと指摘された。
「でも、辰巳が助けてあげられたんだと思っていい、ってボクは思うよ」
――だって、本物の怪物は、もう死んでしまったんでしょう?
「ボクね、その子は助けてもらえることとおんなじくらい、怪物がそのあともちゃんと無事でいてくれた、ってことが嬉しかったんじゃないか、と思うんだ。見た目なんかで人を計らない、すごくいい子だったしね」
克美はマヤと、怪物についてたくさんおしゃべりをしたらしい。
「あの子の親ってさ、子供の前でもあんま考えずに、平気でR指定もんとかホラーとか、よく映画を見てるっぽいんだよ。そんで、フランケンシュタインも見たことがあってね。ずっとあの怪物がかわいそうだ、って思ってたんだって」
怪物は、女の子を愛しむあまり息の根を止めてしまったけれど、女の子はそんなことをしなくても怪物がきっと好きだったのに。怪物が炎に巻かれて死んでしまったから、マヤの怪物も死んでしまったのではないか、それが一番怖くて悲しくて、そして知りたかったことだったのだ、と。
「物理的なことは小磯さんに任せちゃってもいいじゃんか。心っていう、死んじゃった男の子にしかできないことを、辰巳はやってのけちゃったんだから。落ち込むこたあない、と思うよ」
背中に柔らかな素肌の感触が温かく触れる。腹に回された細い腕は、慰めるように力強く。
「……別に、落ち込んでませんよ」
妹みたいな存在に同情されるなんて情けない。悔し紛れの負け惜しみを出したはいいが、どうも歯切れが悪かった。
彼女の顎が背骨に当たる。
「あ、そーですか。だったらね、自分のことを怪物呼ばわりするんじゃないっつの。マヤちゃんの言ってる意味、最初解んなくてどうしようかと思ったんだぞ、ボク」
「顎、刺さってるって。痛いから離れなさい」
「じゃあ、夕飯食べに連れてってくれるなら離す」
久し振りに映画でも見に行こうよと誘われる。
「何が見たいの?」
「ソウの6」
「げ……またホラーっすか」
「だって全部DVDで見てるんだもん。劇場で見たことないし」
「って、お前さん、いつの間に」
「辰巳さ……ボクのこと、いつまでも十歳の子供のまんまだと思ってるだろ」
呟くと同時に、背に走る軽い痛みと温もりが不意に離れた。
「……は?」
「ボク、これでももう二十三だからね。辰巳がふら~ってどっか出掛けちゃう夜とか暇だから、DVD借りに夜出ちゃったりもできるし、店だって辰巳が高木さんの仕事でいない時には一人で切り盛りだってできるし、それに」
そこでなぜか克美は言葉を詰まらせた。
「それに、何」
「R指定のホラー映画くらい、もう見てもいいだろ、って言いたいのっ!」
しまいには支離滅裂だったような気がする克美の言葉。問い返す間もなく洗面台から逃げられ、結局何が言いたいのか解らずじまいだった。
まず頭を抱えたのは、出掛けるとして、この落ちないメイクをどうするか、ということな訳で。
「かつみさーん、機嫌直してメイク、どうにかしてくださーい……」
落ちた気分がいつの間にか癒されていたのに気付いたのは、それから随分あとだった。
Trick or Treat――お菓子をくれないとイタズラしちゃうぞ。
辰巳にとってのお菓子。
それは怪物の胸の内であり、殺してしまった女の子の、怪物に対する気持ちであり、そして。
(最近、克美が何を考えてるのか本格的に解らなくなって来たな……)
出掛けまで怒っていた癖に、腕を絡ませ機嫌よく映画の感想をひたすら語りまくる克美を見下ろしながら、辰巳はそっと首をひねった。