表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

歴史短編小説群

鹿と狼の喰らい合い

作者: 塔野武衛



 遠方に月山富田城が見える富田川を挟み、二人の男とそれを取り巻く各々の陣営の兵達が対峙している。四つ目結の旗の陣営を背負う武者は身の丈五尺あまり。白皙の美青年と言って差し支えない美貌の男だが、その眼光は猛獣のように鋭く、単なる色小姓紛いの軟弱な若武者でない事が一目で見て取れる。年の頃こそ二十歳前後だが、その風格には歴戦の趣すら感じられた。

それに対する、一文字三ツ星や上り藤久の字といった旗を掲げる側の先頭に立つ六尺ばかりの偉丈夫は、若いながらも精悍そのものの荒武者と思しき風貌で、実に四尺に迫る自慢の大太刀を腰に引っ提げ、更にはこれまた自慢の大弓まで携えた大力無双の男だった。

そして、小柄な青年の後ろに控えるもう一人の男が居た。男は小柄な青年と同じ年頃で、手には弓が握られていた。その視線は敵の大弓に集中している。確かな敵意と共に。

「気を付けろ、鹿介。奴は……」

 鹿介と呼ばれた青年は友の言葉に振り返り、先程とは違う年相応の笑みを浮かべた。

「お前が後ろに控えてくれるなら大丈夫だ、伊織」

 そう言うや再び敵に向き直り、ゆるゆると中州に向けて歩を進める。その後ろ姿と敵とを見比べながら、伊織と呼ばれた男は眉間に皺を寄せ見守っていた。




 永禄三年十二月二十四日、一つの巨星が墜ちた。雲州太守尼子晴久が四十七歳の若さで急死したのである。彼は祖父経久の跡を継ぎ、その負の遺産を払拭すべく東奔西走して体制を変革し、不穏分子たる新宮党を粛清。尼子家の中央集権化を推し進めていた矢先での死だった。

 急遽家督を継承した義久は、父の事業を継承するには経験も実力も不足していた。やがて彼は晴久の死を好機と侵攻して来た毛利家の勢いに晒されて徐々に勢力を失い、遂に本拠たる月山富田城で孤立するに至ってしまった。父の死から僅か四年あまりでの出来事である。これだけの短期間でこうまで追い詰められたのは、それまで尼子に従っていた国人領主が雪崩を打って毛利方に寝返ったのが最たる原因だった。

 永禄八年。毛利元就は月山富田城攻略の兵を挙げた。だが月山富田城は嘗て大内義隆が大連合軍を率いて攻めても落ちなかった天下の堅城である。衰微した尼子家ではあるがここを最後と必死に戦い、遂に毛利軍を一時撤退させるに至った。だが毛利家は既に重要拠点たる白鹿城を落とし、完全に月山富田城を孤立させている。早晩再びの攻撃があるのは自明だった。

 そして同年九月、態勢を立て直した毛利軍は再び月山富田城に兵馬を進めた。その中には石見国人益田越中守藤兼率いる軍勢も含まれている。彼は嘗て陶晴賢の謀反に与して大内義隆弑逆に加担した人物で、一時元就はその罪を以って死罪にする事も考えていたが、吉川元春の仲裁で何とか許されたという経緯がある。故に一連の対尼子戦では必死になって武勲を立て、自分の毛利家での立場を確保する事に躍起になっていた。

 だが今回の戦では、益田家が武勲を立てる機に恵まれる事はどうも難しいように思われた。というのも、彼が軍議で直接の主君たる吉川元春より告げられた方針は兵糧攻めにするというものだったからだ。先の戦いで力攻めにした結果多くの人死を出した反省から来たものだが、武勲を求める者達にとっては物足りない方針に違いなかった。

 そして、今藤兼と向かい合う一人の男もまた、その方針に飽き足りない思いをしている男の一人だった。四尺もある大太刀を携えた身の丈六尺に迫る偉丈夫である。

「毛利からの命令、まことの話でございますか」

 若武者の問いに、藤兼は仏頂面で黙って頷く。彼にとっても不本意な話なのに違いないが、上からの命令では脛に傷ある身はどうしようもない。そう言いたげな顔だった。

「この品川大膳将員、此度こそは高名を仕り、益田のお家と品川の名を高めんと願っておりましたのに、残念な事にございます」

 品川大膳将員と名乗る男はそう言い、不満を表すが如く鼻を鳴らした。彼の父将永は元々安芸武田家に仕えたが、その没落によって親族の将員を頼って益田家に仕えた人物で、恩人である彼にあやかり、益田家仕官後に生まれた息子に同じ諱を名乗らせた。若いが大力無双の大男であり、弓の達人でもある。石見国ではそれなりに名の知られた勇者だが、万人に雷名を轟かせるほどではない。この年二十二歳。手柄をと血気に逸るのも無理はなかった。

「高名をと申すが、そなたはどんな武勲なら我らの名を高める事が出来ると考えておるのだ」

「山中鹿介幸盛が首級」

 大膳は迷いなく答えた。それに対する藤兼の表情には、何とも言えぬ複雑な感情が入り混じっていた。

 山中鹿介幸盛。近年尼子・毛利の双方にてその名を轟かす勇者の名だ。まだ二十一歳の若さだが、その戦歴の密度たるや凡百の若武者とは比較にもならぬ。十六歳の時伯耆国への遠征に随行し、そこで菊池音八という豪傑を討ち取ったのを皮切りに、毛利との戦でも次々と名のある豪傑を討ち取る華々しい武勲を挙げていた。先の攻城戦でも吉川元春率いる攻め手を相手に激しく抵抗し、遂に敵の突破を許す事がなかった。今や彼の名を知らぬ者は尼子は元より毛利軍中にも居ないほどである。確かに彼の首級は、大膳個人は元より益田家の名も高め得る手柄になるかも知れない。

 だが、藤兼は大膳の言葉に素直に頷く事が出来ない。勝てばよいものの、もし負けでもしたならむざむざと敵の士気を高めてしまうだけだからだ。兵糧攻めを前に無闇に敵の士気を高めさせてやったとなれば、逆に益田の名は汚辱に塗れかねない。

「戦は水物。数多の豪傑を倒した男相手でも、勝てぬと決まった訳ではありませぬ」

 藤兼の渋面に隠された考えを悟ってか、大膳はなおも説得するように言い募る。

「聞けば鹿介は小兵だとか。いかな鹿介が優れた武者でも生まれ持った身の丈まで変えられる訳ではござらぬ。組討に持ち込めば力に勝るそれがしに分があります」

「わしもそなたの強力はわかっておる。だが……」

 藤兼はなおも言いよどむ。大膳にも藤兼の苦衷は理解出来る。彼一人の独断で決められる事ではないからだ。仮に藤兼が大膳の提案をよしとしても吉川元春、或いは毛利元就に拒絶されればそれで終わりだ。この二人を説得するには確実に勝利する算段を立てる必要がある。大膳はそう解釈した。

「……今より話す事は、吉川・毛利の大殿だけにお話しあれ」

 そう言い、彼はおもむろに藤兼に近付き耳打ちを始めた。藤兼の顔に、次第に驚きの色が浮かぶ。

「だが、それでは下手をすれば卑怯の誹りを受けるやも知れぬ」

「介添人の類を助太刀させる訳ではございませぬ。一対一の戦いという形式さえ守られれば、決して卑怯な振る舞いではないと存ずる。出した条件に反している訳でもござらぬ」

 語るべき事を語り終え、大膳が元の位置に戻る。藤兼は腕組みをしながら考え込んでいた。もう大膳は詰め寄ったりはしない。後は天に任すのみである。

「……ともかく、吉川殿に意見は申し上げておく。だが……」

「わかっております。お心遣い、勿体なく」

 大膳は深々と平伏した。藤兼が立ち去る足音と同時に、自らの心音が早まるのをこの青年は確かに感じていた。




 尼子軍陣中。一人の男が静かに文を記している。年の頃二十前後。色あくまで白く、凛とした顔立ちの小柄な青年である。傍には先程まで被っていたと見える半月の前立がついた兜が置かれている。

「ここに居たのか、鹿介」

 馴染み深い声に、鹿介と呼ばれた青年は手を止めて顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべる。それは年相応の、僅かながらに幼さを残した笑みだった。彼の眼前に現れたのは弓を携えた同年代の若武者である。もっとも厳密には彼は純粋な武家ではない。大庭大宮という社家に生まれた男だ。

「おれは別に隠れていた訳じゃないぞ、伊織」

 冗談めかして友の名を呼ぶ。伊織と呼ばれた男は少し笑みを返した後、すぐに真顔になった。

「例の噂、本当の話か」

「ああ」

 答える鹿介の表情に、柔和さは微塵もない。

「到頭おれを名指しで呼ぶとは、随分と毛利におれは高く買われているらしい」

 冗談めかした語り口だが、笑みはない。彼は下の文に視線を落とす。そこに書いてあるのは、挑戦状に対する返答と思しき内容だった。

「戦うんだな、やはり」

 秋上伊織介久家が、確認するように問う。鹿介はそれに対して無言で頷くだけだった。

 先日、尼子軍の陣に矢文が射ち込まれた。兵達への投降を呼び掛けるものかと最初は思われたが、中身は彼らが想定していたものと些か異なる代物だった。

『我は益田越中守様家中、石見国住人品川大膳将員。世に名高き勇者たる山中鹿介幸盛殿との一騎打ちが所望である。我と戦う志あらば、速やかにご返答あるべし……』

 それは果たし状の類だったのである。戦国の世にあって、乱戦の最中に一騎打ちとなる事は割とありふれているが、互いに示し合せての一騎打ちはそうそう起こるものではない。しかも野戦ではなく攻城戦でだ。敵の意図は明瞭だった。近年特に目覚ましい武勇を示している鹿介を倒す事で己の名を高め、ひいては尼子軍の士気を阻喪させる事だ。

「品川大膳の名は聞いた事がある。大力無双の大男で、益田家中でも随一の勇者だという話だ。四尺もの大太刀を自在に操り、弓の腕前も相当なものと聞く」

「大力無双の大男、か」

 鹿介が、自分の肉体を見ながら呟く。五尺あまりという小柄な肉体だが、中肉で身の丈の割には逞しい体つきではある。だがそれはあくまでも身の丈の割には、であって偉丈夫のそれと比べたら見劣りするのは否めない。

「組討だけは避けねばならないだろうな。一度組み伏せられたら跳ね返すのは難しい」

 同じ事を思っていたのだろう。伊織介が先取りするように言った。

「だがまあ、お前がこれまで戦って来た相手も皆お前よりも立派な身の丈をした豪傑ばかりだった。そしてそういう力自慢の輩ほど、己の力を恃み小兵を侮るものだ。組討に持ち込めば勝てるに違いないとな。その隙を突けば……」

「どうかな、それは」

 鹿介は疑わしそうに返した。

「今までの戦いは乱戦の中で偶然起こった一騎打ちが殆どだった。おれの名も知られておらず、確かにお前の言う通り敵はおれの貧相な身の丈を侮り、その隙を突く事が出来た。だが此度は違う。敵はおれを名指しで勝負しろと申し出て来た。おれがどういう武者であるか、それなり以上に調べた上での指名だろう。それにこの戦は結局の所籠城戦になる。もしおれが勝てば、当然尼子の士気は大いに上がる事になろう。毛利にしてみればそうなっては甚だ都合が悪い話だ。まして益田越中守は大内義隆弑逆の大罪人。少しでも毛利の歓心を得ようと必死な筈だ。だから大膳としても必勝の覚悟でなければ戦う事は出来まい。侮りなど期待する方が間違っていると、おれは思っているのだが」

 理路整然たる語り口である。その戦いに際する冷静さこそが、今まで彼を激戦から帰還せしめた大きな武器の一つと言えた。

「……もし敵に組み伏せられ、その後も油断なく立ち回られて殺されそうになったらどうする」

 その言葉に、鹿介の表情が一変する。先程冷静な分析をして見せた男とはまるで別人に思える表情だった。

「知れた事。命尽きるまで戦うだけだ。例え両腕を斬り落とされようと、強力に任せて首を絞められても、おれは命ある限り絶対に諦めない」

 その断固たる態度と炎のような眼差しは、到底白皙の美青年のそれではない。幾つもの首級を挙げ、敵味方にその名を轟かせる一人の勇者がそこには居た。彼の言葉は、武人としての執念を感じさせるものだった。その執念もまた、彼を今日まで生き残らせる大きな力の一つだった。極限状況で最後に物を言うのは生きる事への執念なのだ。

「……とにかく、気を付けろよ。お前の目算通りに敵が必勝を期しているのだとしたら、勝つ為に小細工を弄して来るかも知れないからな」

「その時はお前が止めてくれればいいさ」

 鹿介の気負わぬ返事を聞きながらも、伊織介の不安は消える事がなかった。自分が示した敵の策謀が、現実に行われる事は十分あり得る事だったからだ。

(そうだ。その時は俺が止めなければならない。直接助太刀する形ではないやり方で)

 伊織介は自分の持つ弓を、睨むように見つめていた。




 その後この一騎打ちの話はとんとん拍子で進み、富田川の中州で一対一の勝負、得物は鉄砲を除く自分の得意とする武器を持参する事とする取り決めが為された。

「我こそは石見国住人、益田越中守藤兼公が家臣品川大膳将員なり! 世に名高き出雲の鹿を討ち果たすべく、石見の狼がお相手仕る! いざ、参り候え!」

 大音声が対岸より響き渡る。一騎打ちを前にしての名乗りである。無論単なる名乗りではなく、自らの武勇を誇り相手を挑発する前哨戦にも等しい儀式だ。

「我こそは出雲国富田庄が住人、出雲国太守尼子家累代の家臣山中鹿介幸盛! 石見国より出でたる狼を、安芸の古狸諸共に退治してくれようぞ! 出雲の鹿の武勇、しかとその眼に焼き付けるがよい!」

 鹿介も小柄な肉体からは想像もつかぬ大音声を張り上げて応える。安芸の古狸という言葉に、対岸で見守る敵方の兵士から罵声に等しい野次が飛んで来る。負けじと味方も野次を飛ばすが、当の鹿介は我関せずとばかりにじっと大膳を見据えていた。それは相手も同じだ。

 鹿介を見送る伊織介の視線は、大膳の持つ大弓に注がれている。得意な得物を自分で用意して戦うという取り決めがある以上、それ自体に文句を言う事は出来ない。また言った所で無意味であろう。戦に卑怯も何もありはしないのだ。例えそれが一騎打ちの場であったとしても。

 現に、同じく大弓の存在に気付いた尼子兵達が罵声を浴びせても、大膳はまるで気にした風でもなく前に進み続けている。その手にしっかりと弓を握って。もう間違いなかった。敵は川を渡る最中の鹿介を狙撃しようとしているのだ。古来兵法には川を渡る敵を討てとある。足元が不安定だから渡る事に集中せざるを得ず、どうしても攻撃に対処しにくい地形だからだ。

 果たして、ある程度近付いた辺りで大膳は歩みを止め、悠然と大弓に矢をつがえた。無論その方向にはなおも進み続ける鹿介が居る。だがこの青年は、まるでそんなものは存在しないかのように進むのを止めようとしなかった。

(何を考えている、この男……俺の弓の腕を侮っておるのか? それとも自分にはそんなものは当たらぬとつまらぬ自信を抱いているとでも?)

 大膳の心に僅かな迷いが生まれる。鹿介が何の文句もつけて来ない様が不気味なのだ。何か考えがあるのか、それともただのうつけか。だが大膳は鹿介をうつけと断ずるほど自惚れてはいない。何か策があるのでは。そう思わずにはいられなかった。そして結果としては、その一瞬の躊躇いが命取りとなった。

 空気を切り裂く音が富田川周辺に響く。両岸の人々は固唾を飲んで見守る。だが山中鹿介の歩みが止まる事はなかった。それどころか大膳は矢を放つ事すらも出来なかった。

 彼はわなわなと震えながら砕け散った弓の残骸を握り締める。それは折れた鳥打の下半分だ。大膳の視線は対岸に向けられていた。そこには弓を構えて残心する一人の若武者が居た。若武者は怒鳴った。

「品川大膳殿と言えば大力無双の豪傑と聞き及んでいたが、何ともつまらぬ策を弄したものよな! この秋上伊織介ある限り、下手な小細工は通用せぬものと知るがいい!」

 歯噛みしながら、大膳はぎろりと伊織介を睨み付ける。伊織介は対岸から過たず大膳の構える弓の鳥打を射り折ったのだ。恐るべき技量と言うべきだった。

「何をしているのだ、大膳殿」

 静かなその言葉に、大膳は我に返る。既に中州に辿り着いた鹿介の発した言葉だった。そこには策に対する憤りもなければ、それを破った喜びもない。ただ、じっと大膳を睨み据えるだけだ。

「今更になって臆したのか。おれはここに居るぞ。高名を得たいと欲するなら疾く参れ。相手になってくれる」

 大膳はかっとなりかけて、危うく激情を抑えた。精神の乱れに待つのは敗北あるのみである。必勝を期した身としては論外だ。

「……言われるまでもないわ」

 ぞっとする低い声で応える。元々鹿介を弓で狙撃するという案は、一騎打ちを吉川元春と毛利元就に認めさせる為の算段だった。この策を提示せねば、慎重な両名は一騎打ちなど許可しなかったに違いない。

 だがそれは彼の本意ではなかった。もう少し年輪を重ねた男ならば何の躊躇いもなかったのだろう。だが二十二歳の血気盛んな若武者に非情なまでの老獪さを求める事自体に無理がある。どうせ高名を得るにしても、誰にも文句を言わせぬ形で得たいと思うのが人情だった。

 二人は中州に至るや無言で各々の得物を構える。鹿介は三尺ばかりの太刀、大膳は例の四尺にも及ぶ大太刀である。再び、周囲に緊張が走った。

 咆哮と共に、大膳が仕掛ける。鹿介は慎重に軌道を見極め、太刀に負担が掛からぬよう力を逃す形でこれを受けた。それでも僅かに腕が痺れるのを感じる。

(やはり、この男の膂力は相当なものだ)

 なおも続く猛撃を巧みにいなしつつ、鹿介は冷静に相手を分析した。その勇名に嘘偽りはない。確実に自分を上回る強力の持ち主である。そんな男を相手にまともに太刀を受けたが最後、忽ち太刀は折れ飛び、自分の命は潰える。こうやって攻撃をいなしながら相手の疲労と隙を窺う。それが最善手だ。

 激しい戦いになった。純粋な太刀打ちの技量ではどうやら鹿介に分があり、敏捷さと小器用さでも鹿介が上回るが、大膳には得物の長さと強力という武器がある。何より鹿介としては敵が隙を見て絶対有利な組討に持ち込もうとしているか常に警戒せねばならず、額面通りに鹿介有利と見る事の出来る状況ではなかった。

 幾度刃を交えただろうか。遂に鹿介の刃が僅かながら大膳の右手を捉えた。疲労で大膳の動きが鈍って来ている。鹿介の作戦が功を奏した形である。大膳の肩は激しく上下し、心なしか目も虚ろに思える。機は熟した。そう判断した鹿介は反撃狙いの戦い方を捨て、一気に勝負を決するべく自ら踏み込んだ。敵はもう余力がないのか、大太刀を左脇に構えるだけで防御すらままならぬ状況に見えた。鹿介は一息に葬るべく逆袈裟に太刀を構え、大きく振り下ろそうとした。

 その瞬間、虚ろに見えた大膳の眼に燃えるような炎が宿るのを、鹿介は見た。その口の端が皮肉に歪むのも。咄嗟に振り下ろしかけた腕を戻し、後ろに下がろうとした。

 逆風の一閃と共に、血が迸った。

両岸からどよめきが起こる。伊織介の顔がこわばり、危うく叫びかけて堪えた。

 苦痛に顔を歪めながら、鹿介が右膝から血を流して崩れるように後ろに倒れる。大膳は渋い顔をした。手応えが浅すぎる。その思いからだ。二、三回太刀を合わせただけで、大膳は太刀打ち勝負における自分の不利を悟っていた。だが組討狙いは当然鹿介も警戒している筈。ならばと取った作戦がこれだった。あの疲労に満ちた姿は擬態だったのだ。自分が消耗した姿を見せなければ、鹿介は危険を冒して自ら攻撃を仕掛けて来ないだろう。そう考えた末の策だった。

本来なら鹿介は渾身の切り上げによって今頃は物言わぬ屍になるか、悪くても深手を負っている筈だった。それをあの青年は咄嗟に見切り、傷を最小限に留めてしまったのだ。大膳が一瞬顔をしかめたのも道理である。やはり侮れない男だった。

(だが、今が好機!)

 すぐに気持ちを切り替え、大膳は倒れる鹿介めがけて駆けた。鹿介は立ち上がれない。切断こそされていないものの、右膝の傷そのものは浅からぬものがあったのだ。もがく鹿介に、朱の混じる白刃が容赦なく躍動する。

 腹の底から獣のような咆哮を発しながら、鹿介は顔を歪ませてごろりと横に転がった。今居た所に刃が突き刺さる。大膳は再び舌打ちした。これでとどめと思い定めた一撃故、大太刀は深々と地面に突き刺さってしまっていた。刺突はそれ単体なら強力無比な殺人技法だが、何かに深く刃を突き刺したらすぐには引き抜けない弱点がある。大膳は即座に決断した。彼は大太刀には見向きもせず、鹿介に飛び掛かったのである。

 馬乗りになる大膳を、鹿介は総身の力を振り絞って跳ね返そうとする。だがそれが出来ない。二人の目方と力に差がある事もそうだが、それ以上に右膝の傷が思いの他深く力が出し切れないのだ。全力を出せても難しいのにそれすら出来ぬのでは、巨漢の大膳を跳ね返せる道理がない。

 大膳は左手で鹿介の右腕を押さえ(鎧通しを抜かせない為なのは勿論である)、右手で鎧通しを抜いて彼を刺し殺そうとした。だがそれは上手く行かなかった。鹿介が自由な左手を縦横無尽に駆使し、それを阻止したからだ。更には拘束されている部分も使って激しく暴れ、大膳の手元を狂わせ、遂にその右手から鎧通しを弾き飛ばしてしまった。

「おのれ……!」

 大膳は弾かれた鎧通しを忌々しげに睨む。なんとしぶとい男か。右膝に深い傷を負い、組み伏せられ、右腕まで封じられてなおこれだけの抵抗を見せるとは尋常な執念ではない。今も油断していると残された左手で目を潰そうとして来るのだ。その目も決して死んではいない。間近で見ても女と思えるくらいの美貌だが、その本質は間違いなく苛烈な武人のそれだった。圧倒的優位を得た筈の大膳の心に、明確な恐怖が広がる。

(この機を逃してはならぬ。ここで必ず殺してしまわねばならん!)

 その思いが形になったかのように、大膳は右の拳を鹿介に振り下ろし始めた。ここでも鹿介の右膝の傷は大きな影響を与えた。もし鹿介が万全の状態だったら、彼は足を使って拳を振るう機会を与えず、逆に跳ね返す機会すら掴み得たかも知れない。だが今の彼に、それは望むべくもなかった。その上相変わらず右腕は強力によって封じられている。幾ら敵の拳撃が右手だけだとしても、残った左手だけで乱打を防ぎきる事など出来る訳もない。大膳の殺意と恐怖が籠った拳が、鹿介の顔面に何度も叩き込まれていく。

「う……」

 幾度拳を叩き込まれただろう。顔を腫れ上がらせた鹿介は小さく呻き、血反吐を吐く。口からは小さな血の筋が流れ、意識もあやふやになりつつある。目の前が霞み、大膳の顔がはっきり見えない。体中が鉛のように重く、思うように動かせなかった。

「――そなた、身は清めて参ったか」

 いつしか攻撃を止めていた大膳が問いかける。意図を理解しかねる言葉だった。仮に五体満足の状態でも、これに返事する事は出来なかったろう。まして今の状態では尚更だった。だが大膳は構わず続ける。

「成程、そなたは見事な勇者だ。流石は出雲の鹿と言っておくべきだろうな。俺が首級を挙げるに相応しい男だ。その武勇を認めよう。それだけの武者に恥を与えるが如き事をさせてしまうのは俺の本意ではない。だから身を清めたかと聞いたのだ」

 迂遠な言い回しではあるが、鹿介はこの男が今から何をしようとしているかを戦慄と共に察した。反射的に左手で相手の右腕を掴もうとした刹那――。

「だがこれも合戦の習い。例え清めていなかったとしても、悪くは思うな!」

 大膳の両腕が電撃的な速度で鹿介の首に向けて伸ばされ、その強力で絞め始めた。忽ち鹿介の顔に苦悶の色が浮かぶ。必死に跳ね返そうと、或いは腕を引き剥がそうとするが大膳もまた必死である。あらゆる鹿介の手立てにも崩れず、渾身の力で首を絞め続ける。

「う……あ……っ」

 鹿介の口からは弱々しい喘ぎと共に涎が垂れ、みるみる抵抗する力が弱まっていった。殴打されていた時でも死んでいなかった目でさえも、虚ろなものになりつつあるように見えた。遂に弱々しくも大膳の両腕を掴んでいた鹿介の腕が、力なく地に落ちた。

「鹿介ッ!」

 遂に耐え切れず、伊織介が悲鳴に近い叫びを上げる。それ以外の尼子兵は既に意気消沈して声も出ない。それに比べて毛利方は意気軒高だ。誰もが、勝敗は完全に決したと信じきっているように思えた。

(もう少しでこの男の息の根を止められる! 俺の勝ちだ! 俺は勝ったのだ!)

 大膳の心が恐怖と殺意から勝利への興奮と歓喜に塗り替えられる。恐るべき強敵だった。女のような顔をした小兵でありながらこれだけのしぶとさを見せた敵など、彼の記憶には存在しない。だがもう終わりだ。やがてその虚ろに見える瞳からは完全に光がなくなり、痙攣の後、ぴくりとも動かなくなるだろう。大膳の勝利と鹿介の死は揺るぎないように見えた。そう信じていた。

「あぐっ」

 左脇腹に生じた異物感と激痛と共に、呻き声が漏れる。それが誰の発した声か、一瞬大膳は理解出来なかった。

「ぐ、あっ」

 だが、二度目の激痛と呻き声で、これが自分の発した声であるのだと確信する。彼は無意識に、左脇腹に視線を向けた。がたがたと震える手に握られた鎧通しが、深々と突き刺さっていた。

「な、ぜ」

 大膳は信じられないものを見る目で鹿介の顔を見た。依然として喘ぎと涎が口から漏れ出て、総身もがたがたと震えている。だがその瞳には僅かながら火が宿っていた。執念と言う名の火が。それを見逃した大膳は果たして迂闊であったろうか? 否。それはあまりに酷な要求だ。これは大膳が仕掛けた時のような擬態ではない。鹿介は実際死の瀬戸際にある。彼を衝き動かしているのは執念だけだった。精神が肉体を支配し、最後の力を振り絞らせたのだ。起死回生の一撃という刃を振るう為に。

 大膳は激痛と失血を堪えながら、なおも鹿介の首を絞め続ける。普通ならこの場合首絞めを中断して敵の鎧通しを排除する事を考えるべき場面だ。もし鹿介が未だ生気に満ちた状況で脇腹を刺して来たなら躊躇いなくそうした事だろう。だが鹿介が死に瀕しているのは大膳の目から見ても確かだった。ならばこのまま絞め殺す事を優先するべきだ。大膳はそう判断した。

 一方の鹿介も、危機的な状況に変わりはない。首を絞められ続けているからむしろ状況は更に悪くなっていると言える。今や総身の震えは痙攣のそれに達し、体中から力が抜けていく感覚に襲われていた。目は今にも飛び出してしまうのではと思うほどに尋常ならざる圧迫感に晒され、執念と命の灯火もいつ消えるかわからない。右手に握られた鎧通しは、言ってみれば命綱と同じだった。これを離したが最後、鹿介の命数は完全に尽きる事になる。鹿介が力尽きるのが先か、大膳が耐え切れなくなるのが先か。

 消えゆく意識を何とか保ちながら、右手で必死に脇腹をえぐろうとする鹿介。一刻も早く絞め落とさんとする大膳。現実ではほんの僅かな時間だが、当事者二人にとってはあまりに長い根競べの時間だった。今や喧騒は収まり、皆が固唾を飲んでその行方を見守っていた。

 静寂を切り裂く絶叫が、辺りに響き渡った。鹿介が臓腑を鎧通しで深々とえぐった事によって、遂に大膳が耐えられなくなったのだ。鹿介は最後の力を振り絞って鎧通しを目一杯に押し込み、全身を使って大膳を跳ね飛ばした。突き飛ばされた大膳は腹から夥しい血を流しながらぴくぴくと痙攣する。周りを血の海にしながら。

毛利側の兵達は、あり得ない逆転劇に呆然とするばかりで言葉も出ない。対照的に尼子側は歓喜の雄叫びを上げる。その尼子の陣営から、風のように一人の男が中州に向けて駆けていった。

 鹿介は仰向けのまま動かない。動けないのだ。呼吸が再開出来ても息苦しさは止まらず、気を張っていなければ今にも意識を失ってしまいそうだった。万力のような力で首を絞められ、死の淵まで追い詰められた事は彼の体にとって大きすぎる負担だったのである。

「……っ、鹿介ッ!」

 叫び声と共に、誰かが走り寄って来る。聞き覚えのある声に、鹿介は微かにその方向に顔を向ける。駆けつけた馴染みの顔は、くしゃくしゃに歪んでいるように見えた。

「いおり、か」

「ああ、そうだ。俺だ。秋上伊織介だ」

 そう答えながら、伊織介は落涙しそうになるのを危うく堪えた。こんなにも弱々しく、かつ痛々しい鹿介の姿は今まで見た事がない。未だ赤いままの顔は殴打により腫れ上がり、首には真新しく無残な絞め痕が残されていた。友の到着で安心したか、鹿介は精一杯の笑みを浮かべる。その顔に普段の力強さはなく、少女のように淡く儚い笑みだった。膝の傷の手当てをしながらでなければ、伊織介は耐えられず涙を流していたに違いない。

「勝ったのか、おれは」

 伊織介はちらと倒れている大膳を見やる。それはもう、物言わぬ死体へと変わっていた。

「ああ。お前の勝ちだ。奴は死んだ」

 その言葉に鹿介は微かに頷く。首を使うと痛むのか、一瞬顔をしかめた。

「すまん、伊織。おれが、不甲斐ないせいで。無様な、戦いだったろう」

「なにが無様なものか!」

 鹿介の目が瞬く。それは声を発した伊織介でさえ、自分の声とは信じられない叫びだった。それは叫びと言うよりは悲鳴と言った方が正確に違いなかった。

「お前は勝った! あの恐ろしい男はお前の手で死んだんだ! 誰の助太刀もなく、お前一人の力で敵を斃した! それが無様な戦いなものか! もしそうほざく奴が居たらこの俺が許さない!」

 今まで押し込めていた感情が溢れ出す。見守る間、何度助太刀に赴こうと思った事か。だがそれは鹿介を侮辱する行為に他ならぬ。だからこそ激情を堪え続けた。その箍が外れたかのようにまくしたてる。これには鹿介も苦笑する他なかった。

 不意に対岸から不穏な声が聴こえた。素早く伊織介はそちらを見る。赤みが差した顔が、一層の憤怒で彩られた。毛利兵、と言うより益田藤兼の兵が中州に向けて走り出している。大膳の身柄(死体)を奪い返し、鹿介を殺すつもりなのだ。一騎打ちにはままある事だが、それが伊織介には腹立たしくてならない。尼子兵達もそれを見ておっとり刀で駆けつけようとしているが、恐らく先に敵が到着する事だろう。

「少し待っていろ」

 低く言い捨て、伊織介はすっくと立ち上がる。同意を与えるように鹿介が小さく頷いた。伊織介はそれを確認もせず、ずかずかと大膳の死体に歩み寄り、脇腹に刺さったままの鎧通しを抜いて、首を掻き切る。そしてそれを高々と掲げ、喚いた。

「敵将品川大膳将員! 一騎打ちにより我が朋友山中鹿介幸盛が確かに討ち取った! これは二人同意の上での一騎打ちだ! それをなにゆえに貴様らは邪魔立てし、勝った鹿介を殺さんとしているのか! もし退かぬのならこの秋上伊織介久家、貴様らの狼藉に弓矢を以って答えてくれよう! 我が弓の腕、しかと見よ!」

 そう言うや彼は首を腰に結びつけた上で素早く弓をつがえ、放った。魂も凍るような音と共に矢が走り、先頭を走る雑兵の背負う旗を吹き飛ばす。雑兵は尻餅をつき、後の者も金縛りにあったように動けない。先の鳥打を射り折ったのと変わらぬ絶技だった。

「次は貴様らの体に当てて殺す! 死にたい奴から寄って来るがいい! その全てを射抜いてくれる!」

 兵達は動かない。檄を飛ばしていた騎馬武者が業を煮やして自ら突撃し、返り討ちにあった事でますます彼らは中州に近付く気を失っていった。それでも後ろから人が近付いて来る足音が聞こえるまで、伊織介は弓を構えたまま敵兵を睨み続けていた。




 かくして、二人の一騎打ちは終わった。鹿介と伊織介は尼子軍へ無事に合流を果たして大きな歓迎で以って迎えられ、士気は大いに上がった。だがそれは尼子軍の勝利に結びつくものではなかった。この一騎打ちの結果の問題ではあるまいが、毛利軍は徹底した兵糧攻めで月山富田城を囲み続け、彼らの士気を打ち砕いたからだ。

 結局月山富田城は一年の籠城の末、毛利への降伏を余儀なくされた。だが鹿介や伊織介ら一部の旧臣達は尼子家の滅亡を認めず、以後その再興を目指して各地を流浪する事になるのである。




 この一騎打ち、複数の軍記物に書かれている話なのですが、中身によって話の筋書きが全然違います。尼子寄りの視点で書かれたもの(雲陽軍実記)もあれば毛利寄りの視点で書かれたもの(陰徳太平記)もあります。一応は中立の立場で書かれたであろうもの(甫庵太閤記)も。その全てで記述が異なるのです。私が今回書いた話はこの三つの話から色々な要素を抽出した上で小説的な脚色を加え、再構成したものです。史実との同一性が保証される類の話ではありません。

 山中鹿介という男を一言で表現しろと言われれば、私は執念の人と答えるでしょう。実際彼が今日に至るまでその名を残しているのは武勇ではなく執念の賜物だろうと思うのです。赤痢と偽って厠から脱走した話。主君尼子勝久の自害後もなお自らの意志を貫こうとした有様。それは執念以外の言葉では言い表せないものでしょう。

 今回の話は、彼が執念の力で九死に一生を得るという筋書きにすると最初から決めていました。だから殺陣の描写以外はスムーズに書けました。ただ、その殺陣の部分がどうなのかは正直に言ってあまり自信はありません。そのあたりが、自分がまだまだ未熟だと感じる所です。少しでも成長出来るよう、今後とも精進したいと思います。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ