上条と朝比奈
私はわけがわからなかった。
腹黒メガネな悪友を信じればいいのか、信頼できる上司と思っていた男を信じればいいのか。店を出た直後はだいぶ酔っていたが、寒い外でやり取りしている内に少し酔いが冷めてきた。
冷静になってみると今日の主任はおかしい。噂になっている私を飲みに誘ったり、手を重ねたり、腰に手を回したり。
寂しいからつい出来心でとか、酔ったからなんて言い訳はきかない。さっきからあの朝比奈を手玉に取っている主任は、十分に冷静で酔っているとは思えない。
かといって朝比奈が疑わしい行動をしているのは事実で、しかも何か企んでる。
判断するには情報が足りない。だから私は二人のやり取りを見ていることしかできなかった。
「僕はまだ例の一件も、秋山の事も何も上条に話してないんですが、いいんですか? ここで明かしてしまって」
「何を知ってるのか知らないが、言いがかりに耳を傾ける気はないよ」
「僕は上条に貴方や会社への不信なんて持ってほしくないんですけどね。余計な事は考えずただまっすぐ走ってほしかった。でも僕が足をひっぱていた」
朝比奈が足を引っ張っていたってどういう事? 私は目で朝比奈に問うた。
「始まりは上条の内定取り消し騒動の時。覚えてる上条? 僕が笹本部長に何か囁いて脅した事」
そういえばそんな事もあった。あの時何を言ったのか詳しく聞いてなかった。世の中には知らない方がいい事があるのは私にだってわかる。
「あの時僕はI商事にとって、外部に漏れたら困るような情報を持っていた。だからそれをネタに脅して上条の就職を後押しできた。しかし、それで僕は目をつけられてしまったんだよ。会社にとってみれば、一新入社員の上条より、まずい情報を握っている僕の方が危険だ」
朝比奈の言っている言葉の意味がすぐにわかった。
「じゃあ私が朝比奈の人質ってそういう事」
「そう。僕が余計な事を言えば、君をクビにしたり、左遷したりできるわけだからね。僕も大人しくしてるしかない。そしてこの男は君の監視役なんだよ」
私が菱沼主任を見ると、彼はいつも通り微笑んでいた。いつもなら穏やかな微笑みと思っていたのが、今は不気味な笑みに見える。
「人質の君を懐柔して、僕まで飼い慣らそうとしていたんだ。まあ僕も上条もそんなバカじゃないけどね」
「勘違いしないでくれ。私も君たちの事ばかり構うほど暇じゃない。財務部での一件のほとぼりを冷ますため総務部へ異動したら、たまたま厄介な婚約者付きの社員がいたから懐柔しておこうかとおもっただけだよ。でも朝比奈君。その様子だと君はまた余計な事を知ってしまったんだろうね」
「ええ。あなたがなぜ財務部に急に移動になったのか、不倫疑惑の汚名を被って何をしようとしていたのか。あなたはI商事上層部の誰かのスパイだ。秋山とその上司の不正を調べるために送り込まれた」
不正。その犯罪的な言葉の響きに私は驚いた。秋山とその上司の不正を調べるために、わざと秋山に近づいて不倫の噂になり、その噂を利用して秋山を退社に追い込んだということか?
そして今度は朝比奈を押さえるために、左遷人事という名目で私と同じ部署にきて、また会社のために裏の仕事をしているのか。
「上条さん。君の婚約者はずいぶん想像力たくましいようだ。こんな妄想信じられる?」
主任の否定は声は柔らかだが目が真剣で、まるで獲物を射抜く狩人のようだ。私はここにいたってやっと確信した。ここは朝比奈を信じるべきだと。
「私は朝比奈の話で納得しました。そもそも左遷人事なら役職の降格だってあるはずなのに、役職は据え置きで会社からの説明もない。公式記録ではただの移動です。ほとぼりが冷めたらまた出世だって可能ですよね」
私の言葉に主任は肩をすくめてため息をつく。急に主任の微笑みに皮肉の色がまとわりついてきた。
「上条さん。君は中途半端に賢くて、面倒な子だね。気付かなければバカで可愛い子だし、気づいても知らない振りをするのが本当の賢い人間だ。そういう爪の甘い所直さないと、出世も営業も無理だよ」
主任の開き直った言葉は、朝比奈と同じくらいに毒を含んでいた。それでも上司の立場を崩さず忠告の振りをしつづけるのがずるい。
私が主任に同情して応援しようとしていたのを、全部わかってて私を懐柔するのに利用しようとした。認めたくはなかったがそれが真実の様だ。
会社の都合でこんな監視役つけられて、朝比奈に言われるまで何も知らずに懐柔されてた私は本当に詰めが甘い。理子に何度も忠告されてたはずなのに耳を貸さなかった私は、本当に使えないただの新人社員だ。
「私、菱沼主任と過ごした最近の日々を後悔してません。色々教わりましたから。一番大きな収穫は簡単に人を信用するなって事ですけどね」
私のささやかな反撃を、主任は笑った。大笑いして私の言葉を否定する。
「君みたいなお人よし、何度痛い目見ても無駄だと思うよ。不倫の噂がある人間と飲みにいって、酔わされている事に気づかずにどんどん飲んで、そのままその彼がいなかったら簡単に流されてた。ただの尻軽でバカな女の子だ」
主任の言葉に私が動揺する事はなかった。言っている事は、その通りだったからだ。私以上に過敏に反応したのは朝比奈だった。私を支えていた左腕がするりと離れた瞬間、朝比奈の全身からいまだかつて感じた事のない殺気が出ていた。
止めようとしても間に合わない程すばやく、朝比奈は主任と距離をつめ、右手の拳を叩きつけた。
突然の事に主任は身動きもとれず茫然としていた。彼の左頬をかすめ、後ろの壁に朝比奈の拳が傷を作る。主任が少しでも動いていたら当たって、シャレにならない怪我をしていただろう。
朝比奈の脅しじゃない本気の怒りを見て、主任も皮肉げな笑みをひっこめて無表情になる。
「当てていたら傷害罪で告訴したのに。私なんて会社の捨て駒だ。私一人をつぶしても他の人間が上条さんを監視するだけだよ」
「わかってます。だからこれは警告です。これ以上僕を下手に刺激したら、貴方だけでなく、I商事すべてを敵に回そうと攻撃します。僕はすでに2つのカードを握っている」
「君の愛する女性を会社から追い出す結果になっても?」
「そんな事させませんし、そう簡単に引き下がるほど上条も弱くない」
主任はまた皮肉げな笑みを浮かべる。
「おてなみ拝見だな」
朝比奈の怒りをするりとかわして、主任は立ち去った。
私に背を向けたままの朝比奈が心配で仕方なかった。朝比奈は今まで私にどんな暴力を受けようと反撃しなかったし、怒った時も常に口で相手をねじ伏せる男だ。
一度柾木にたいして暴力をしていたのを見たが、あれは柾木を信頼していたからこそできた事で、感情に任せてよく知らない人間に拳を振うなんて……。
朝比奈が脅しでも暴力を振った。その事実が私を動揺させた。朝比奈の背中も微かに震えていた。
私が簡単に人に騙されるようなバカだから、朝比奈は私を見張ってないと心配なんだ。そして何度だって私のために動く。それを繰り返せばこんな風にまた手を出させてしまうのだろうか。
そしてそのたびに朝比奈は暴力をふるった事を後悔するんだ。わたしのせいで。
私は謝罪と朝比奈をなぐさめたくて、朝比奈の震える背中を後ろから抱きしめた。