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難攻不落彼女  作者: 斉凛
外伝
196/203

美しい人 後編

 ある秋の昼さがり、自宅にいた社長に頼まれて、書類を届けに行った。そのついでに奥様に挨拶をしようと、彼女の部屋の戸を叩いた。

 彼女の返事が聞こえてきたので、ゆっくりと扉を開く。彼女は以前と同じ様に、窓辺で本を開いて読書を楽しんでいたようだ。

 私の顔を見て、花の咲いたような笑顔を見せた。それが嬉しくて、しかし恥ずかしくて、彼女から目をそらした。部屋の隅に梱包されたまま開けられてない包みがつまれていた。それはあの夏の日に買い物したブランドのものだった。どれほど高価な物でも、買い物の時間が終わってしまえば、彼女にとってもう不要なものなのだ。

 その現実が悲しかった。彼女には他に居場所はないのだろうか?


『どうしたの?スガイさん』

『いえ。また本をお持ちしました』


『ありがとう』


 無邪気な微笑みを浮かべて喜ぶ彼女を、もっと喜ばせたくなった。


『奥様。今度、ティールームに行きませんか?英国風のいい店があるのです』


 彼女は驚いた顔のまま、時が止まったように固まってしまった。瞬きする目だけが、かろうじて人間だという事を表している。自分の言った事を思い返して、人妻にデートの誘いをしてしまったと、今更後悔した。

 私は慌てて言い訳を始めた。


『もちろん、譲司君も一緒に。英国風の店で、美味しい英国の紅茶とお菓子でも食べて、気晴らしになればと思いまして……』


「それ本当?菅井さん」


 気づけば廊下に譲司君がいた。大きな目をそれ以上に大きく見開いて、期待の眼差しで私を見上げていた。


「イングランドのお菓子って、ヴィクトリアケーキや、ジンジャーケーキや、ルバーブのジャムや、プティングや、メイズオブオナーや、エクルズケーキや……ええっと、たくさんあるの?」

「全部はないですが、譲司君が食べたいものもあるかもしれないね」


「菅井さん連れてって。ママ。行こうよ。今からすぐに!」

「ワガママを言ってはだめよ。ジョージ。スガイさんは仕事中なの」


 彼女の気持ちの半分は、息子のわがままに困っているという感じだったが、半分は私を見ていた。たぶん初めて彼女は意識したのだ。私が自分に特別な感情を持っているのではないかと。そしてそれに戸惑っている。

 当然だ。彼女には夫と子供がいる。しかし彼女がすぐに拒絶せずに、困った顔をしているのを見て、私は彼女の躊躇いを振り切るように言った。


「今日は休日出勤で、もう仕事はないので、このまま帰ってもいいと言われています。お二人をお連れ出来ますが」

「本当?菅井さん。ねえ。ママ、菅井さんがいいと言ってるよ。行こうよ」


 仕事ではなく、プライベートだとはっきりと告げた私の言葉を、彼女は正しく理解したようだ。困惑の表情を浮かべて、悩んでいるようだった。


「その店は薔薇が綺麗で、ちょうど今は秋薔薇が見頃ですよ。今日は天気もいいですし、いかがですか?」


 彼女はずっと躊躇っていたが、結局私と息子に押し切られるように、首を縦に振った。



 秋薔薇とケーキの甘い匂いが漂う店についた。車に乗っている時から少年は落ち着きがなかったが、店に着いた途端、止めるのも聞かずに車の扉を開けて、店へと駆け寄っていった。息子の喜びぶりとは対照的に、奥様は無言のままぼーっとしていた。

 私は運転席から一度外に出て、後部座席に回り込み扉を開けた。彼女に無言で手を差し出すと、彼女は恥じらうように目を伏せて躊躇いがちに手を取った。

 初めて触れた彼女の手は、想像していた以上に滑らかで温かかった。彼女が車の外に出たら、もう手を繋ぐ必要などない。わかっていても名残惜しい気分でゆっくりと手を離す。

 後にも先にも私が彼女に触れたのは、この時だけだった。


『行きましょう。ジョージ君が待ってます』


 店はイギリスのティーハウス風の温かみのある雰囲気だった。ショーケースに並んだケーキは、イギリスの伝統菓子ばかりで、それを少年は嬉しそうに見ていた。


「いらっしゃいませ」


 先ほど予約の電話を入れて、その時ここの店員には、普通に日本語で接客してほしいと頼んでおいた。店員の気持ちのいい接客に、彼女も機嫌は悪くないようだ。


『奥様こちらへどうぞ』


 私が案内した席は、中庭にあった。薔薇咲き乱れる中庭に、一つだけ設えたテーブル。その風景を見ながら、彼女は目を潤ませてしばし立ち止まっていた。


『大丈夫ですか?何か気に入らない事でも?』

『いいえ。素敵なお店ね。でもあまりに英国のティーハウスらしくて、故郷を思い出したら帰りたくなったの』


 幸せな過去の記憶というのは時に残酷かもしれない。特に今幸せでない人にとっては。


「ママ。早くケーキ食べよう!」


 少年のワガママに、母として役目を思い出したように、彼女は少年の手をとって、席についた。

 それからただお茶と菓子と薔薇を楽しんだ。私も彼女もあまり話さず、譲司君が楽しそうに話す姿を、微笑ましく見守った。


 本当にお茶をしだけだというのに、彼女と目を合わせる事も、会話する事さえも気恥かしく、ものすごく背徳感を感じた。

 胸に刺さっていた小骨がチクチクと痛む。社長がいなければこの人と会う事もなかった。しかし社長がいるから、私はこれ以上彼女に何をする事も出来ない。そんなジレンマを感じながら過ごしたティータイムは、長い様な短い様な不思議な気分だった。



 クリスマスの近づいたある日の事だった。社長が他の秘書に、家族のクリスマスプレゼントを買ってくるように頼んでいた。以前なら私がしていた仕事だ。その秘書は他に急ぎの案件を抱えていて困っているようだったので、差し出がましいとは思ったが、自分から名乗り出た。


「社長。私がプレゼントを買ってまいります」

「菅井か。おまえには頼んでいない」


 社長の目が少しだけ怒りに滲んでいるように見えた。仕事中私情をはさまない冷静な社長には珍しい事だった。

 他の秘書を下がらせて、社長は私に低く冷やかに宣告した。


「お前はもう、うちの家族に関わるな」

「……なぜですか?」


「私が何も知らないとでも思っているのか?私の妻と子とお茶をしに行ったそうじゃないか。私はそんな事頼んだ覚えはないが?」


 背筋が凍りついたように思えた。さすがの私もいつものように、ポーカーフェイスをつくろう事は出来なかった。


「わかったようだな。この件はこれまでだ。私は有能な人間を、こんなつまらない理由で失いたくない」


 死刑宣告ににたその言葉に、私は何も言えなくなってしまった。クビにならないだけましかもしれない。

 こうして春に出会って夏に芽生え、秋には育った私の恋は、冬になる頃に終わった。



 それ以降彼女に会う事はなく3年の月日がたった。ある日突然社長が私一人を呼び出して、他の秘書を下がらせた。


「今度うちに寄ってくれ」

「いいのですか?私がご自宅にお伺いしても」


 私と奥様の仲を疑った社長は、あれ以来接触を避けるようにしていた。なぜ今になってそれを許すのか?


「妻と離婚する事になった。あれがイギリスに帰る前に、お前と別れの挨拶がしたいと言っている」


 突然の事に、私は言葉を失った。2度と会えない覚悟はしていた。それでも社長の奥様でいる限り、何かの偶然で会うかもしれないと期待してもいた。それが別れの挨拶とは……。

 3年眠らせていた想いに、突然火をつけられ、私の心はまた彼女へと向かっていった。



 久しぶりに訪れた社長の家は、見た目は何も変わっていなかったのに、重い空気が漂っていた。玄関で私を出迎えたのは、3年前はまだあどけない子供だった譲司君だった。

 わずか3年と言えども、成長期の子供には十分すぎる時間だった。すらりと背が伸び、柔らかい頬がすっきりとして、大人と子供の境にある思春期の青年の姿になっていた。

 無邪気な笑顔が消え、憂いを帯びた眼差しになってしまったのが、昔を知る私にはショックだった。


「久しぶりですね。菅井さん」

「久しぶりだね、譲司君。大きくなって」


 私の感傷に、少年は皮肉げな笑顔で返した。その屈折した表情が、不安を掻き立てる。


「母なら部屋にいますよ。俺これから友達と約束あるんで」


 逃げるように家を出た、少年の背をしばらく見ていた。外見だけでなく中身まで変わってしまったようだ。おそらく両親の離婚が、彼の中に影を落としているのだろう。


 少年の境遇を想い、ため息をついて私は彼女の所へ向かった。


 久しぶりに会った彼女は相変わらず美しかった。ただあの頃以上に思い悩む日が続いたせいか、少年と同じく憂いを帯びた表情をしていた。


『久しぶりね。スガイさん』

『お久しぶりです』


『玄関でジョージ君と会いました。ずいぶん大きくなって、だいぶ大人っぽくなりましたね』

『まだまだ子供です。ジョージ何か失礼な事しませんでした?』


『いいえ。特には』

『そうですか。あの子最近ちょっと反抗期で。私嫌われてしまったみたい』


『ジョージ君が貴方を嫌うなんて、そんな事あるわけ……』

『仕方ないのよ。私はあの子を置いて英国に帰ってしまうんだもの。母親失格だわ』


 それまで冷静に話していた彼女の目に、涙が滲んだ。しかし彼女はその涙をこぼすまいと、こらえていた。3年の間に彼女達家族に何があったのか知らない。それでも変わらないのは、彼女がいまだに息子を愛している事だった。


『私はやっぱり日本で暮らすのは無理なの。英国に帰ったら、また作家を目指してみようかしら。何かを始めるのに年は関係ないのよね』

『はい。そのとおりです』


『ありがとう。スガイさん。私が日本で家族以外に、ただ一人心を許せたのは貴方だけだった。だからお願いがあるの』

『何でしょうか?』


 彼女の願いなら、どんな事でもかなえたいと思った。それはきっと私が期待しているような事ではないとわかっていても、彼女が望むなら……。


『ジョージの事を、私の代わりに見守ってほしいの。夫は仕事人間で家庭を大切にできる人じゃないから』


 息子を心から愛する彼女らしい望みだった。私はそんな息子への深い愛情を持った、母としての彼女を好きになった。だからすぐに答えた。


『わかりました。お任せください』


 私の返事に、やっと彼女は笑顔を見せてくれた。厳しい雪の下でけなげに咲く花の様に、可憐な彼女らしい頬笑みだった。



 それから5年程たったある日、残業中の社長から一冊の本を渡された。


「私の元妻からだ。荷物を整理してたら、借りてた本が出てきたから返してほしいと連絡があった」


 その本はクリスティの『アクロイド殺し』だった。この本を彼女に貸した覚えはない。どういう事かわからなかったが、社長に気付かれぬようポーカーフェイスを装った。


 仕事が終わった後、本を丁寧に確認した。すると栞の様に、1枚の写真が挟んであった、本の表紙が見えるように持った彼女の写真。写真の中にあった本の著者名は、彼女の名前と同じだった。

 彼女は夢をかなえたのだ。それをわざわざ私に知らせようと、この本を送ってくれたのか。写真の中の彼女は無邪気な笑顔で彩られていた。それが私は嬉しかった。


 写真の裏側に住所と思われる物が書いてあったが、私はおめでとうの一言さえ連絡できなかった。まだその頃は、彼女への想いを美しい思い出にできていなかったのだ。

 だから私は本と写真を大切にしまって、そのまま記憶の底に封印していた。



 そして今再び彼女の写真を見ながら、手紙を書こうと筆をとった。彼女に伝えたい事が出来たのだ。

 彼女が最後まで気にかけていた息子に、最近本気で好きな女の子が出来たのだと。その女の子は貴方と同じ様に、本が好きな文学少女で、作家で、少女の様な可憐な笑顔を浮かべるのだと。

 ただ、彼女が心配しないように、その女の子が少々変わり物で腹黒だという事は、手紙に書かないでおこうと思う。

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