腹黒女と腹黒男のエトセトラ 後編
研究室隣の資料室は冷房が効いてなく、蒸し暑い空気に包まれていた。重い古書の入った箱を持ち上げていると、俺の額から汗が流れ落ちる。
荷物を運び終わって一息ついた所に、部屋に入ってくる者がいた。
「朝比奈先輩……」
「お疲れ様。一人か?」
「ええ……他の方達は食事に」
「一緒に行けば良かったのに、誘われたんだろう」
以前の俺なら女性からの食事の誘いを断る事はなかったろう。しかし今は紫に疑われるような事はしたくなかった。
朝比奈はそれ以上追求せずに、本を探し始める。いくつか手に取って中を確認していた。
「先輩。オープンキャンパスのバイト達はどうですか?」
「今のところは大きな問題はおきていないが……」
朝比奈はズレた眼鏡を直しながら、ちょっと顔をしかめた。
「高校生達とバイト学生が親しくなりすぎているのでは? と、一部のうるさ型の先生達が騒いでいるな」
俺は紫の事が心配になった。もし男子高校生達が紫に言い寄ったりとかしたら……
「仲良くなった学生達がアドレス交換してるみたいで、後々トラブルとか起きるんじゃないかと……ネチネチ言われて困るよほんと」
「田辺さんは大丈夫……」
突然朝比奈が大きな音を立てて、乱暴に本を閉じた。俺は急に寒気がした。
『田辺さん』の言葉に反応して、朝比奈の周りだけ急に気温が下がったみたいだ。朝比奈の無表情が異様に恐ろしい。
「目障りなガキだよほんと。大学に来られないように追い込んでやりたいが、イジメ程度軽くあしらうからな、可愛げがない」
淡々と紡がれる黒い言葉は、感情がなさすぎて逆に本音な気がした。
「……何やったんですか? 彼女」
「オープンキャンパスに関係する先生方に取り入ってるんだよ……オヤジ共め、優等生で若い女の子にチヤホヤされて、鼻の下伸ばしてデレデレしまくって気色悪い」
「べ……別に先輩に……直接的な被害はないんじゃ……」
「あるよ。まだ僕の信頼の方が上だけど、あの女の言葉を先生方が信じるようになってみろ、僕の悪い話とかばらされて立場が悪くなるんだ」
朝比奈は今まで本を見ながら話していたのに、急に俺の方を向いた。ゆっくりと距離を縮める朝比奈が、悪魔のような笑みを浮かべている。
目をそらすのが不自然なほど間近に迫られて、俺は叫びだしたいのを懸命にこらえた。
「先輩近すぎ……」
「彼女、僕の過去の女性歴をネタにプレッシャーかけてきたんだけど、どこでそんな話仕入れてきたんだろうね」
至近距離で落とされた爆弾発言に俺は震えあがった。
「彼女の弱みをなんか話せよ。それとも僕のプライベートはベラベラ話せても、彼女のはできないとか?」
朝比奈の手が譲司の首筋をなぞる。今はただ触れるだけだが、力をこめればしめられそうだった。
「弱みなんてあったら、とっくにそれを口実に交際を迫ってますよ……」
朝比奈は目を細め、手に力をこめた。死ぬ事はないだろうが、首に跡が残りそうなほど苦しかった。
これ以上ないというほど、唇のはしを釣り上げて、朝比奈はあざ笑った。
「彼女にお前の元彼女達の話を詳細に語った方が良かったか?」
息が止まるかと思った。紫と朝比奈、攻撃ポイントまで同じの二人に挟まれて身動きもできない。
「……わ、わかりました……話します」
俺が呟くと朝比奈は手にこめた力を緩めた。俺は恐怖で腰が抜けて、ずるずると床に座り込んでしまった。
「……田辺さん、英語苦手ですよ。俺、勉強教えてましたし」
朝比奈は会心の笑みを浮かべ、笑い声をあげた。
「なるほどね。どおりで外語系の先生達への囲い込みが甘いわけだ」
俺最低だ……愛しい彼女を悪魔に売り渡した……。まあ彼女も悪魔なんだけどね。
その時資料室の扉が開いた。
「柾木く~ん。お弁当買ってきたわよ~……って。朝比奈君もいたの?」
田所助教の甘ったるい声は、朝比奈を見てなりを潜めた。
「お疲れ様です。論文用の資料を探してたんですが……」
朝比奈は先ほどまでの、意地の悪い笑みなどなかったように、穏やかに微笑んだ。
朝比奈が俺に視線を移したので、つられて田所助教も座り込んだ俺を見た。
「どうしたの柾木君?」
「床にあった資料の箱につまづいたみたいで。大丈夫か柾木?」
本気で心配しているような顔で、朝比奈は俺に手を差し出した。差し出された手を断るわけにもいかず掴んだ。
引き上げられている途中、穏やかな表情はそのままに、俺にだけ聞こえるように囁いた。
「2度と僕を裏切るな。次はないと思え」
ぞっとするほど冷たい声音に、浮かしかけた腰がまた床に落ちる。
「大丈夫? 柾木く~ん。つまずいた時どこか怪我した?」
田所助教は慌てて駆け寄ってくる。朝比奈も、さも心配だという顔をして、大丈夫か? などと聞いてくる。
悔しさ以上に目の前の男への恐怖が体をすくませる。それでもなんとか平静を装って立ちあがった。
きっとこのネタで朝比奈先輩は紫に喧嘩売って、俺がばらした事もバレて怒られるんだろうなぁ……。
ため息しか出てこない。
腹黒女と腹黒男の板挟みって、どんな生き地獄だ……。自分が招いた不幸だが、俺は運命を呪いたくなった。
鬼畜朝比奈光臨です。
ヒロインの紫の腹黒さが可愛く思えてきました。
次回からクライマックスに向けて話が進んでいきます。