彼氏彼女の結末 譲司の事情
大涌谷でロープウェイを降りて紫を探した。もしかして早まって崖から飛び降りたりしないかと、心配で慌てて駆け回ったのにあっさり見つかった。
黒玉子売り場の近くで黒玉子を食べている紫を見て、思いっきり脱力した。
「なんでのんきに黒玉子食べてるの?」
「なんでここがわかったんですか?ストーカーレベル上がってて気持ち悪い」
追う者と追われる者の再会のはずなのに、なぜだか緊迫がない間が抜けた空気。紫を捕まえるべく一歩前へ進み出ると、紫は牽制してきた。
「力づくで連れ戻そうとしたら、大声で変質者と叫びますよ」
まだ雪の残るシーズンオフとはいえ観光地。周りに人が途切れる事はなかった。被害者面してでっちあげる手口は、出会いのテニスコート事件で経験済みだ。同じ手にはひっかからない。しかしあれがきっかけでここまで追うほどの片思いをするとは、あの時は思いもしなかった。
「その手口にはもうのらないよ。観光気分で玉子食べる元気あるならもう帰ろう」
「別に、好きで食べてるわけじゃ……ごほっ!……さすがに飲み物なしで5個目はむせますね」
もうそんなに食べてるの?1つ食べれば7年寿命が延びると言われる玉子をそんだけ食べるなんて、長生きする気満々だな。
「別に長生きしたいから食べてるわけじゃないですからね。ツアーのおじいちゃんおばあちゃん達にもらったんです。玉子ばら売りしてないから、食べ残して余るんですよ。食べ物を粗末にしちゃいけないじゃないですか」
無駄話をしてお互い牽制しながら、俺はじりじりと紫に近づき、紫もじわじわと後退を続ける。紫の背後に見える柵をこえた先は下り斜面が見える。溶けかかった雪が滑りやすく、足を踏み入れたら転げ落ちそうで危険だ。あまり追いつめすぎると、思い余ってあの柵の向こうに行ってしまうかもしれない。
「喉渇いてるよね?とりあえず飲み物飲まない?」
「買ってきてくれませんか?」
「その隙に逃げる気?」
「お金4円しかないんです。駄菓子も買えない」
大涌谷で降りたのは計画があったわけではなく、単に逃走資金がなくなったからだったのか。放っておいたら追いつめられて何をしでかすか……。
「どうして逃げるの?」
「先輩が追いかけるからじゃないですか」
「じゃあ俺が帰ったら、東京に帰る?」
「帰りません。帰れるわけがありません」
「幸吉さん達心配してるよ」
「お爺ちゃんには、お父さんを勘当したみたいに、私も勘当してと伝えてください」
「お父さんから聞いたんだね。幸吉さんが隠し事してたの怒ってるの?」
「私に隠したのは別にいいです。でもおじいちゃんは病気のおばあちゃんにも隠してたんですよ。あんなに会いたがってたのに、もう時間がないのに。許せません」
幸吉さんは勝子さんにも話してなかった。紫が世間から責められても、唯一逃げ込めるはずの家族を、信頼できなくなってしまったから、彼女は逃げ出したのか。
「テレビ見た?葛城さんも会いたがってたよ。田辺さんの事怒ってなかったし、許してくれるよ」
「テレビは見ました。でもあんなの本音とは思えない。私の事恨んでますよ」
「葛城さんはそんな人じゃないよ」
「もしあれが嘘じゃないなら、ますます会わせる顔がないですよ。騙して、イメージ落としたのに許しちゃうようなお人よしを、私は利用したんですから。それに沢森さんもそうとう怒ってたでしょう」
「沢森さんが田辺さんの事怒るのはよくある事じゃないか」
「あの人もお人よしだから、なんだかんだ言っても自分の事は許せちゃうんですよ。でも人が傷つけられるのは許せない。先輩も同じじゃないですか?だから本気で怒った。違いますか?」
紫の言う通りだったから、すぐに反論の言葉が出てこなかった。葛城を利用して傷つけたと知った時、紫に失望して怒った。その怒りを忘れたわけじゃない。
「確かに君がテレビで記者会見をしたのを見た時、何をしようとしたのかすべてわかった。あの時は本当に腹が立ったよ。あの時目の前に葛城さんがいて、俺が田辺さんの狙いを言ったら相当ショックを受けてた」
紫の顔が苦痛にゆがむ。それを見て俺は少しほっとした。葛城を傷つけた事を悔やむ良心が、彼女にはまだ残っていたのだ。だからこそ今苦しい。
「でも田辺さんだって追いつめられて仕方なくした事だったんだよね?初めから葛城さんを利用しようとしたわけじゃないだろう。だから俺はまた田辺さんを追いかけてるんだ」
「……。私は本を売るために、葛城さんに近づいた。初めからの計画通りです」
「じゃあなぜ今逃げてるの?計画通り田辺さんの名前は売れ、本は売れ、もうじきたくさん印税入って来るよ。どうしてそんな今にも悲壮な顔で山の中まで逃げてきたの?」
「……」
「田辺さんの目的は、お金でも名声でもない。お父さん達と会って、また一緒に暮らす事だったんだろう?それが叶わないとわかったからここまで逃げてきた」
「そこまでわかってるならほっておいてください。それとも笑いに来たんですか?世間をにぎわせて、多くの人を巻き込んで、傷つけて、結局目的は叶わなかった。すべては無駄だった。私は道化です。笑えばいいじゃないですか」
「笑わないよ。無駄なんかじゃなかった。お父さん達が生きてる事がわかった。連絡が取れた。田辺さんの夢はかなわなかったけど、すごいと思う。目標のために周りの中傷にも負けず、ひたすらに手段を尽くして叶える。田辺さんは強いね」
「強くなんかないです。本当に強かったら逃げてません。自分のしでかした事に謝罪する勇気もなく、逃げ回る卑怯者です」
「怖いのは自分のした事の重みを理解してるからだよ。人を傷つけて罪悪感もない、そんな人間なら僕はここまで追いかけてこない。人の痛みを知っていて、なお強くたくましい、そんな田辺さんが俺は好きだ」
柵の手前で紫の後退が止まった。俺の言葉が少しは紫の心に届いて、柵を越えるのをためらわせたのだろうか?紫への距離をゆっくりつめる。
「そんな簡単に人を好きだなんて言えるなんて、さすが学園の王子。女をくどくのにためらいがない」
「誰にでもこんな事を言うんじゃない。田辺さんだからだよ。田辺さんは大学でいじめられても堂々と通ってたよね。いじめる人間が悪いけど、追いつめられた人間は耐えられなくて、いじめる人間に媚びるか、逃げ出して学校に来なくなるのに。田辺さんは毅然と一人で立ち向かった。その強さに惹かれた。嫌われるのが怖くて、人の顔色うかがってばかりの俺とは大違いだ」
紫はあきれたようにぽかんと大口を開けた。そのあと高笑いを始めた。
「先輩が人に嫌われるのが怖い?散々私にきつい事言われてもしつこかった厚顔無恥で、ねちっこくて、雑草のように打たれ強いのに?よくもそんな嘘をぬけぬけと。図太い神経してますね」
「嘘じゃないよ。初めにテニスコートであからさまな敵意を向けられてショックだったんだ。今まであんなに人に嫌われた事なかったから。必死で好かれたい、ってむきになって君を見ているうちに好きになった。諦めたくなくて、付きまとっているうちに強くなった。人に嫌われる事が怖くなくなった。田辺さんが俺を成長させてくれたんだ。ありがとう」
あと少しで手が届くという距離で、紫はその場でしゃがみこむ。手近な雪を掴んで俺に投げつけた。儚い最後の抵抗が、子供じみて愛らしい。
「嘘つき!おじいちゃんに頼まれたから仕方なしに、私を騙して連れ帰ろうとしてるんでしょう。私を好きになるなんてありえない」
「どうしてありえないの?」
「だって私こんな平凡な容姿な上に、性格ドブスですよ。救いようがないじゃないですか。その私を顔良し、頭もよし、スポーツも出来てお金持ち、その上奢った所もなく気さくでお人よしな、完璧王子が好きになる?少女マンガじゃあるまいしありえないじゃないでしょう」
初めて紫に褒められて驚いて茫然とした。しかも自分の事を性格ドブスとか卑下するとこ初めて聞いた。今までどれほど好きだといっても、まったく相手にされなかったのって、もしかしてこれが理由なの?てっきり紫は俺の事王子だなんて全然考えてないと思ってた。
悲しかった。俺の条件の良さで寄ってくる女の子も嫌だけど、それを理由に避けられるのも悲しい。
「……なんだよそれ。散々人を馬鹿にするような事言ってきたのに、なんで王子だなんて言って差別するんだ」
「差別じゃなくて区別です。先輩はみんなに愛される光の中の住人で、私は外からそれを妬んでどろどろの闇の中の住人なんですから、住む世界が違うんです」
「住む世界が違うなんておかしい。もし仮に違うとしてもそれで好きになるのはいけないのか?全然違う人間だから、自分にない物を持ってるから惹かれるんじゃないか!一緒に同じ大学通って、同じ時間をずっと過ごして、今こうして目の前で話してるのは俺と紫なのに。光と闇とか、王子とかそうじゃないとか関係ない。俺が好きなのは、強くて、たくましくて、ずるくて、腹黒くて、でも本当は臆病で、怖がりで、弱い紫なんだ」
強いけど弱いなんて矛盾してる。でもそれが田辺紫なんだ。本当は弱い心を、いくつもの鎧で覆って完全防御、それで強がって生きる彼女だからこそ俺は愛おしい。
しゃがみこむ紫の手首を掴んで俺は引き寄せる。腕の中にすっぽりと収まる華奢な体が震えている。それでも紫は抵抗しなかった。
やっと捕まえた。腕の中のぬくもりに大きな喜びを感じる。紫は俺の胸に顔をうずめているため、その表情はわからない。紫は震えるようなか細い声で言った。
「私強くなんかないです。いじめられた時も私は一人じゃなかったから冷静でいられた。先輩が見てた。心配してくれた。いつも一緒だった」
紫の言葉に俺は胸を打たれた。俺の存在が紫の救いになっていた。それはどれほど嬉しいことだろう。
「先輩。ありがとうございます。こんな馬鹿な女を追いかけてくれて」
これは夢じゃないだろうか?紫がこんな嬉しい事言うなんて。紫がこのまま夢の様に消えてしまいそうで、怖くて彼女を強く抱きしめた。