毒姫3
2月2日 pm6:00 紫
こんな事なら、朝比奈の体拭いてやった方がまだましだったと今更ながら後悔した。
だいぶ寝て少しは調子よくなっただろうと思い、風呂に叩きこんだのだが、2時間待っても出てこない。痺れを切らして覗いてみたら、バスタブの中で行き倒れてた。
本当に手間のかかる男だ。なんとか朝比奈をバスタブから引きずり出して、タオルで体をふいてから浴衣を着せて、ベットまで引きずって寝かせる。
いくら朝比奈が男にしては痩せすぎて体重が軽いといっても、身長差が20cm以上あるのだ。しかも私も痩せてて体重軽いし、筋力も体力もないインドア派だ。とんだ重労働に死ぬかと思った。しかも気を失ってるとはいえ結局全裸を見る事になってしまった……。
羞恥心のあまり穴がなくても掘って入りたいくらいだ。男性の裸を見るなんて、子供の頃父親と一緒にお風呂に入った時ぐらいだったのに……。何が悲しくて、乙女の恥じらいを捨てて、こんな男の生命救助しなきゃいけないんだ。
他にも困った事は山積みだ。二人とも突然失踪を決めたので、当然着替えなどあるはずもない。下着はコンビニで買えた。男物の下着を買うのがとてつもなく恥ずかしかったが、それはぎりぎり耐えて我慢した。
しかしさすがに服はコンビニで売ってない。近くにショッピングセンターがあるはずもなく、ホテル内で洋服は売っているのだが、ブランド物で高いのだ。
どうせ部屋着なんだから、安物のスウェットとかTシャツでいいのに、どうして無駄に高いのか。朝比奈の財布にはある程度現金はあったが、あの男の体調を考えると、当分ATMに行く体力はなさそうだ。そうなると現金はできるだけ温存したい。
クレジットカードはあるが、他人のカードを勝手に使うのはさすがに気が引ける。しかもあの男は人を泥棒呼ばわりして、まだ私を疑っている様子だった。
仕方なく、部屋に備え付けの浴衣を着て、着ていた服は洗面所で手洗いしたのだが、冬だからなかなか乾かない。せめてこの男がホテル内を歩き回れるくらいの体力があれば、ブランドショップまで行って買わせるのに。風呂場で行き倒れてる時点で無理だろう。
それから朝比奈の体調も気になる。風邪だけじゃなく、何か病気があるようなのだが、何の病気なのかわからない。昨日は箱根まで移動できたのに、1日休んでもよくなるどころか、部屋の中もろくに歩けないなんて、むしろ悪くなってないか?
それとも昨日無理しすぎて衰弱してしまったのだろうか?市販薬を飲んで休養した所で、ここまで弱っていては無駄かもしれない。無理やりにでも病院に行った方がいいんじゃないか?
しかし病院で保険証とか確認されて、家族とかに連絡が行ったら朝比奈の逃亡も失敗に終わるだろう。金づるのいなくなった私は身動きができなくなるし、もし朝比奈が柾木に私の事とか話ししたら、居場所を知られるかもしれない。
目の前で人が死にかけてるのに、自分の保身なんか考えるなんて、自分はなんて自分勝手で最低な人間なのかと嫌になる。
柾木はこんな私のどこがいいのか?首をかしげてしまう。
背が低くて、やせぎすの幼児体型で、顔も平凡と、お世辞でも魅力的なルックスと言えない。その上自分で言うのもなんだが、最低な性格していると思う。猜疑心が強くて、嫉妬深くて、臆病で、我儘で、自分の長所をあげろと言われても思いつかない。
ずっとこんな自分が嫌いだ。本人が嫌うぐらいなのに、他人から好かれるなんて思っても見なかった。初めに柾木に反感を抱いていたのだって、ほとんどやっかみだ。完璧なルックス、何不自由もない育ち、頭もよくて、スポーツも出来て、優しく、明るく、それでいて奢った所のない気さくな人柄。
すべてが揃いすぎていて、眩しいくらいに光り輝く、太陽の下に堂々と生きる人間だ。それに対して私は人間のドロドロとした物ばかりを集めたような、闇の中の住人。
光と闇が共存できるわけもない。闇に生きる私は光の中の人間を妬み、羨み、嫉妬と逆恨みする事で、自分を守るしかできない、ちっぽけな人間だ。本当は羨ましくて仕方なかったのに、あんな風になりたいと思いながら、羨望の眼差しを送るのが悔しくて、意地でも近づくものかと思っていた。
そんな何もかも持っている男が、私なんかを本気で好きになるわけがない。柾木がどれだけ甘い言葉を囁いた所で、猜疑心でいっぱいの私は信じられずに、逃げる事しか考えられなかった。
怖かった。また人を信じて、裏切られたら、今度こそ立ち直れない。いつか私に飽きて去っていくのだ。と思いこんで頑なに拒み続けた。
それでも柾木はしぶとかった。どれだけ振り払っても逃げても、追ってきて付きまとって。私のひどい言動に傷つかないはずもないのに、それでも笑ってそばにいたいと付きまとい続ける。
嬉しかった。こんな私を必要だという人間が、この世にいるんだ。
でも同時に怖かった。信じて依存して、いつか柾木が私のそばからいなくなったら?私はもっと傷ついて生きていけなくなる。だから私には家族だけと思いこもうとした。
去年の夏、渋谷に遊びに行った時、最後の思い出を作って自分から別れるつもりだった。逃げられる前に、自分から逃げてしまえと。自分からした事なのに、しばらく柾木がそばにいなかったのは寂しくて悲しかった。だからクリスマスイブを一緒に過ごそうと言われた時も、これから自分がする事で嫌われるだろうとわかっていたのに嬉しかった。
家族で過ごした誕生日以上に楽しくて、幸せな時間で、計画なんて辞めてしまいたかった。でももう『初蕾』や週刊誌の発売スケジュールまで決まっていて、契約金までもらっていたのに今更後戻りなんてできなかった。どうしようもなく馬鹿なこの男が、葛城を利用する悪女になっても私を嫌いにならないでいてくれたら。そんな甘い願望を抱いていた。
でもそんな虫のいい話あるわけがない。柾木が本気で私を諦めると言った時、自業自得なのに、わかっていたはずなのに、絶望した。そして思い知ったのだ。自分のしでかした事の重さを。
葛城の心を踏みにじり、周りの人間を振り回し、自分の願いだけ優先する、わがままで愚かで醜悪な私。こんな自分を好きになる人間なんてこの世にいるわけがない。家族のほかにすがる者がなくて、すがって祈って待ち続けて、その頼みの綱もあっけなく切れた。
最後の電話で柾木がやっぱり優しくて、その優しさにすがりたかったけど、こんな醜い私など愛される資格がないと思った。馬鹿な私は何度だって同じ過ちを繰り返す。そのたびに柾木を傷つける。私なんかと関わればみんな不幸になるだけ。
私は一人になるべきなのだ。どれほど寂しく、惨めでも、それが私のしでかした事への罰なのだ。なのに弱い私は罰の重さに耐えかねて逃げ出した。昨日の駅のホームと夜中のベッドの上。2度とも朝比奈に邪魔された。
どうして朝比奈が邪魔をするのかわからない。運命が私をそう簡単に楽にさせないと言ってるのだろうか?筋違いなのはわかっているが、朝比奈を恨んだ。だから死にたがってる朝比奈の望みを邪魔しようと、世話をしてしまう。
朝比奈と私は互いに互いの邪魔をしあって何とか生きてここにいる。でもこんな生活そう長くは続けられない。現に朝比奈はどんどん弱っているし、私の心もすり減って限界だ。
こんな茶番は早く終わらせるべきだ。
真っ青な顔で横たわる朝比奈を見て思う。なぜ逃げてるのかは知らない。しかしこの男は私の様に罪を犯したわけではないだろう。上条という恋人がいて、古谷教授のお気に入りで、後輩の柾木にも慕われてる。こんな所でのたれ死ぬべき人間じゃない。
私はベットサイドの電話の受話器を持ち上げた。救急車を呼んで、この男を病院に預けたら私は消えよう。逃げかもしれないが、死んで自分のしでかした事の責任をとろう。
たった3桁のダイヤルを押すだけなのに、指が震えて時間がかかる。やっとコール音がなったと思った途端途切れた。見ればベットからのびた青白い腕が、電話機の回線を切っている。
「どこに電話をかける気だったんだ」
息をするのもやっとというような苦しげな声で、朝比奈は私を見上げた。どうしてこの男は命がけで私のやる事を邪魔するのか?もしかして私に逃げずに罰を受けろと、悪魔がよこした使いなのか?
「救急車を呼びます。これ以上寝て立って死ぬだけですよ」
「余計な事をするな!」
電話機をさえぎった手が、のびて私の腕を掴んだ。死にかけの病人とは思えない力で私をベットの上に引きずりこむ。ベットに倒れ込んだ私の両腕を押さえつけるように、朝比奈は上にのしかかって、肉食獣の様に獰猛に睨んでくる。冷たい手が強く私の腕を掴んでいる。執念だけで押さえつける朝比奈が恐ろしかった。
「今度余計な事をしたらただじゃおかない」
「そんなぼろぼろの体で何ができるんですか?殺したいなら殺せばいい。どうぞ」
私は強がって憎まれ口を言ったが、内心恐怖で震えていた。どれほどか細く、弱っていても朝比奈は男なのだ。力ではかなうわけもない。その上この男は、今精神が肉体を凌駕して、尋常でない力を発揮している。死ぬ覚悟はあったのに、何をされるかわからない事に私は本能的な恐怖を感じた。
「死にたがってる人間を簡単に殺すものか。僕の金を使おうが、生意気な口をきこうが、多少は大目に見てやる。だけど僕の邪魔をするなら、死ぬより辛い地獄を見せてやる」
朝比奈の手が緩んだかと思うと、私の浴衣の襟を掴んで力任せに開いた。
「嫌!何するの!変態!強姦魔!鬼畜!」
私が暴れると、それを押さえつけようと朝比奈が掴みかかる。二人とも浴衣だから取っ組み合いを続けるだけで、自然と着物が乱れ肌があらわになっていく。
キスどころか服の上から男に体を触られたことなどほとんどない。柾木に抱きしめられた事はあるが、あの時は私をなだめるための優しいものだった。鈴木のセクハラの時も不愉快だったが、ここまで恐怖を感じなかった。怖くて、思わず泣きながら許しを請うてしまった。
「ごめんなさい。もう余計な事はしないから。やめて!」
私がそう言った途端、朝比奈の力が抜けた。そして力尽きたように倒れ込んでくる。私は朝比奈の下敷きになってしまったので、朝比奈の下から何とか抜け出して、何度も深呼吸を繰り返す。
朝比奈の呼吸は苦しげで、指一本も動かす体力もないようだ。今にも死にそうな様子はさっきまで力づくで私を襲おうとしていた人間と同一人物とはとても思えない。
こんな無茶をしてまで逃げる事に固執する理由がわからない。ただ下手に逆らったら、死んでも私を襲ってきそうな底知れない恐怖を感じる。
私はもうどうしたらいいのかわからなくなって、部屋の隅で丸まって震えていた。