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難攻不落彼女  作者: 斉凛
最終章
173/203

凍える男3

 2月2日 am2:00 朝比奈


 夜中にふと目が覚めた。いつもと違う寝心地に一瞬どこだ?と考えてしまう。しかしすぐに思い出した。ここが箱根のホテルだと言う事を。

 ひさしぶりにまともに眠れた。しかしまだ眠気はむごく、体もだるく、熱い。すぐにまた二度寝してしまいたくなって、眠りの淵をさまよっていた所で、嫌な音が聞こえてきた。


 カチカチカチという金属音。聞いた瞬間風邪のせいではなく悪寒が走った。聞き間違いでなければ、カッターの刃を上げる音だ。この部屋にいるのは自分と田辺だけで、あの女が立てている音に間違いない。問題はこんな夜中にカッターなんて取り出して、何をする気か?と言う事だ。

 今僕を殺したら、金づるがいなくなって田辺も困るはずだが、そういう常識的な判断が効かない相手だ。寝込みを襲われるかもしれない。

 冗談じゃない。いくら死を望んでいるからといって、田辺の手にかかって死ぬなんてごめんだ。


 僕は起きている事を悟られないように、寝返りをうつふりをしながら、こっそりとあたりを窺った。ベットサイドのスタンドの明りのみの部屋は、薄暗く視界は悪かったが様子を確認する事はできた。田辺は隣のベッドの上に座りこんで、こちらを見てはいない。

 すぐに襲われる事はなさそうだと安堵して、じっくりと田辺を観察した。荒い呼吸音、こわばった肩、右手にカッターを持ち、左手首をじっと見ている。震えた手でカッターをゆっくりと持ち上げて、左手首に当てようとしていた。


 何をする気かわかって馬鹿だこいつ、と思った。体がしんどいし、眠いし、このまま放っておこうかと思った。しかしこんな時考えてしまう。

 上条だったら止めるだろうな。怒って自分の体を大切にしろとか、暑苦しいお説教をする。そんなうっとおしいぐらいのおせっかいが、今では懐かしく胸を締めつけるようにせつない。僕は気がつけば起き上がって、カッターを持つ田辺の右手首を掴んでいた。

 突然手首を掴まれて、田辺は驚きのまま固まっていた。今朝ホームで飛び込もうとした時と同じ状況。またこの女の命を助けてしまった。本当に上条のおせっかい気質が移ってしまったな。と自嘲の笑みがこぼれる。


「僕の前で死ぬなと言っただろう」


 田辺は興奮した目で見上げたまま、何も言わなかった。カチカチと歯を打ち鳴らし、荒い呼吸も静まらない。念のため左手首を確認したら、新しい傷はなかった。ただ、何本か古傷が残っているのがわかる。

 なるほど、リストカット常習者か。だとしたら本気で死ぬ気ではなく、精神安定のための癖だ。別の方法で心を落ち着かせてやらないと、まずいな。僕の説得なんかに耳を貸すとも思わないし、つくづく面倒な女だと呆れる。


 とりあえずむりやりカッターを取り上げた。それからPDAを取り出して操作する。田辺は引きつった顔のまま不思議そうな顔で、僕の行動を見ていた。田辺の左手にPDAを持たせた。


「な……に……」

「電子書籍だ。『源氏物語』を開いてある。好きなんだろう。読め」


 わけがわからないといった顔で、PDAを見降ろした。田辺の右手を掴み、ページをめくるなどの基本動作をやって見せる。しばらくは混乱していたようだが、田辺も僕と同じ活字中毒だ。自然と文字に目が行き、見ていると文字の世界に引き込まれていく。しだいに呼吸も整い、小さなPDAをのめり込むように見続けた。

 しばらく観察して、もう放置しても大丈夫そうだとわかったら、どっと疲れがやってきた。僕は念のためカッターを自分の枕の下に隠して、またベットに横になった。あくびがとまらないほど眠いのに、なかなか意識がなくならない。そんな状態でしばらくベットの中で寝返りを打ち続けた。部屋の外が少し明るくなり始めた頃、ようやく意識が遠のき、また眠りの世界へとんでいった。



「いつまで寝てる気ですか。とっと起きろ」


 いきなり布団をはがされて、大きな声で怒鳴られた。最悪な目覚めだ。


「風邪引いてる病人を叩き起こすとは、ひどい仕打ちだな」

「風邪は寝てるだけじゃ治らないんですよ。汗も相当かいてるし、水分補給しないとまた脱水症状になります。つべこべ言わずに飲め」


 スポーツドリンクのペットボトルを顔に投げ込まれ、顔面にあたるすれすれで手でふさいだ。転がり落ちたペットボトルを拾おうとしたが、どこにあるかわからない。二度寝する前はつけてたはずの眼鏡が、なぜか外されていた。

 手探りで辺りを探していると、田辺が近づいてきて、眼鏡を手渡す。


「眼鏡がないとろくに見えないとは、いい弱点を見つけました」


 眼鏡をして初めてまともに視界に入ったのが、邪悪な微笑みを浮かべる田辺の顔だった。本当に寝起きから最悪な気分だ。しかし確かにのどは渇いていたので、ペットボトルを拾って飲む。

 一呼吸ついて時間を確認すると、もう午後2時頃だった。二度寝をしてから半日近く経過していたようだ。これだけ休んでも、体は一向に良くなった気がしない。熱っぽいし、だるいし、体中の節々が痛い。疲労感がすごく、体が鉛のように重い。

 気づけば田辺がすぐそばにきていた。


「食事しないと薬飲めませんから、さっさと食べてください」


 差し出されたのはプラスチックの容器とスプーンで、中にはお茶漬けが入っていた。食欲は全くないが、そろそろ栄養補給しないとまずいだろう。無言で受け取ってじっくり観察した。器の中にはなぜか三角型のご飯とお茶、そして上にちぎった海苔がかかってる。

 ホテルのルームサービスには見えないし、どうしたんだこれ?


「コンビニおにぎりに、部屋にあった日本茶を淹れてつくりました」

「びんぼうくさ」


 素直な感想を言っただけだったのに、殺意のこもった視線が帰ってきた。


 上条と一緒の時は無理に食べていたが、それ以外の時は食欲がなく、この所食事を抜いてばかりだった。元々胃は弱い方だったが、人間空腹の時間が長すぎると、胃酸が胃を荒らして胃を悪くする。胃が悪いと食事をしたくなくなる。空腹でさらに胃が悪くなる。この負のスパイラルにはまって、最近は食事をする事が苦痛で仕方ない。昨日のツナマヨ握りですらヘビーで、1個食べただけで気持ち悪くなった。


 そんな弱った胃にお茶づけは助かった。スプーンでご飯をほぐしながら食べる。中の具は高菜か。僕の好物だ。これなら食べられそうだ。田辺にもこういう細かい気遣いができるくらいの良心があったのか、と一瞬感動しそうになってふと気がついた。

 昨日高菜がないからツナマヨ食べさせられたんだ。という事はこれは僕が寝ている間に新たに買ってきたに違いない。わざわざ外まで買い出しに行ってきたのは殊勝な心がけだが、とても気になる事がある。


「これ買いに行ってきたのか?」

「そうです。コンビニ行くにもバスに乗らなきゃいけないなんて。田舎って不便ですよね」


「その交通費と買い物代はどうした?昨日のお釣りも返してもらってたはずだが」

「ああ、ご心配なく。朝比奈先輩が寝てる間に、先輩の財布を持って行きましたから」


 田辺に良心があるなんて幻想だった。寝ている人間の財布を堂々と持ち出すとは、この女、面の皮が厚すぎる。 


「それは泥棒だろう」

「具合の悪い人間を起こすのは可愛そうだと、気を使ってあげたのに、泥棒扱いとは失礼ですね。買った分のレシートは財布に入れてありますし、交通費の分はレシートの裏に使った分書いておきました。1円たりともねこばばしてないですよ」


 念のため財布を確認すると、コンビニのレシートが入っている。お金の量もそれほど減ってないようだ。しかし安心できない。


「財布にはクレジットカードとか入ってただろう。それで勝手に買い物したり、金を借りたりしてないだろうな」

「さすがの私もクレジットを無断拝借はしないですよ。そもそもクレジットって借金じゃないですか。私借金って大嫌いなんですよ。親がそれで痛い目にあってますからね」


 一様信じた振りはしたが、信用はできなかった。後でカード会社に利用履歴を確認しなければ。しかしこんな女と一緒じゃ、おちおち寝てもいられない。

 今後の対策を考えながら、お茶漬けを胃に流し込む。おにぎり1個分でも量が多く、食べきるのに1時間以上かかって、最後の方は冷めてしまった。


「さあ食事が終わったら、お風呂に入ってきてください。何日風呂に入ってないんですか、不潔極まりない」


 確かに汗もすごくかいてるし、気持ちが悪くてシャワーを浴びたい気分だ。しかし体がだるくて起き上がるのもつらいし、風邪の時は風呂は控えた方がいいのではないか?


「介護するって言ったんだから、体を拭くぐらいの世話をしたらどうだ」

「冗談じゃない。何が悲しくて先輩の裸見なきゃいけないんですか。甘えるのも大概にしろ」


 面倒くさいと抵抗し続けたが、最後は田辺に布団から叩きだされ、体を引きずりながらユニットバスの中に転がり込んだ。

 服を脱ぐのに手間取り、シャワーを浴びる頃には息も絶え絶えと言った状態だった。不愉快な汗を流せて気持ちいいが、疲れきって身動きもできない。ぐったりとバスタブの中でしばらく倒れ込んで休み、しばらくしたら髪を洗い、また休んで体を洗い、また休む。そんな事を繰り返していたら。しだいに意識がもうろうとしてきた。


 風呂場で行き倒れて死ぬとか、間抜けすぎて嫌だ。そう思うのだがもはや立ち上がる体力さえもない。もういいや死んでしまえば間抜けだ、恥ずかしいとか関係ないか……。

 そんな諦めの境地になって、僕は無駄なあがきをやめて意識を手放した。

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