休戦協定
後半開始です
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夏休み直前の暑くなりはじめた頃、俺は決意を胸に一歩踏み出した。
久しぶりに見た彼女はあの日がなかったかのように、何事もなく過ごしていた。
「久しぶり田辺さん」
「お久しぶりです。柾木先輩」
あの日以来初めての会話は、表面的には穏やかに見えた。だが愛想笑いの裏で、彼女が俺を警戒しているだろうという事はわかっている。
「田辺さんに話があるんだけどいいかな?」
「いまさら何のようですか?」
愛想笑いを崩さぬままで、さらりと釘を差してくる。
そう、あんなに拒絶されては何を言ってもいまさらだ。それでも諦めなかったのは、単なる俺のワガママで、彼女がそれに付き合う必要などない。
「田辺さんは夏休みバイトとかする予定ある?」
「祖父母が厳しくてアルバイトを許して貰えないので……」
突然振られた話題に戸惑って、わずかに本音が見えた。
彼女はアルバイトをしたいのだろう。家が金銭的に不自由なら小遣いも少ないだろうし、家にお金も入れたいかもしれない。
「ご家族に許して貰えそうないいバイトがあるんだけど」
彼女の肩がわずかに震えた。愛想笑いを捨てた彼女の顔には、大きな警戒心とわずかな期待が浮かんでいた。
「先輩。私言いましたよね。人を信用してないって。そんな美味い話、私が信用すると思ってるんですか?」
「別に俺を信用しなくていいよ。俺の言う事を後で確認するなりすればいい」
「……話を聞くだけですよ」
紫はまだ警戒心はといていなかったが、先の話を促した。
「もう学生は夏休みだけど、大学は夏休み中も忙しい。特にオープンキャンパスで訪れる、高校生の案内役が足りなくて、在校生のバイトを毎年雇ってんだ」
「高校生の案内役を在校生が?」
「そう高校生も現役生との交流で、キャンパスライフを知る事ができるから好評なんだ。大学の払うアルバイト料はささやかだけど、雇用主が大学でしっかりしてるし、夏期限定で仕事内容も校内の案内だからそれほど学業に支障も出ないだろう。これならご家族の了解も得られるんじゃないかな?」
疑いの眼差しを浮かべながら、彼女は言った。
「そんなアルバイトの話は、学内広報にもなかったですけど、本当に学校主催なんですか?」
「少数募集だから、大々的に募集せず、先生や先輩達から紹介を受けた人にだけ回ってくるんだよ」
本当は給料安すぎて普通に募集しても人が集まらないから、先輩が後輩かきあつめて、無理やりアルバイトを押し付けているだけなのだが……。
「それに今年のオープンキャンパス担当は、文学部の古谷教授だよ」
その言葉で初めて紫の目が輝いた。
古谷教授はM大文学部・国文学専攻で、特に平安文学の研究に力を入れている名教授だ。紫は高校時代に古谷教授の著書を読み、その影響でM大学に入学したと以前聞いた。
「古谷教授とお会いできる機会はあるのですか?」
「オープンキャンパスを担当されるのだから可能性は高いよ」
M大学では、1年は一般教養を学び、専攻に別れるのは2年からになる。紫はまだ古谷教授の講義を受けていないはずだ。
憧れの教授に会えるチャンスに思わず考えこんでしまったようだ。
「その話が本当か確認する時間が欲しいのですが」
「どうぞ。ただもう夏休みに入ってしまうから時間はないし、人脈がなければ回ってこないようなバイトだから、俺の誘いを断って他から探すのは難しいと思うけど」
だから早めに回答欲しいなと付け加えたら、殺意を込めた目で睨まれた。
思わずため息をついた。殻に籠もったままの、彼女の心に届くには、まだ足りない。
「田辺さんは人を信じないと言ったけど、現代社会で誰にもかかわらず生きていくことはできないよ。だから君はサークルに所属して目立たぬように過ごしてきたんだろ」
「それはサークル内で築いた人脈を後々利用するために……」
「そう、君は人を信用はしないけど、利用はするんだ。だったら俺を利用すればいい」
驚いたように紫は目を見開いた。
「交渉はギブアンドテイクが基本でしょう。先輩はバイトを紹介して、私に何を要求するつもりですか?」
「君と一緒に俺もバイトする。そうしたら夏休みの間もバイト仲間として君に会えるだろ。それが俺の報酬」
紫は意地の悪い笑顔を浮かべて低い笑い声をあげた。俺なにか間違いをしてしまったのだろうか?
「つまり先輩は私への好意で奉仕してくださると?」
「……ま、まあ、そうとも言えるかな」
「そういうのを奴隷と言うのでは? 先輩がそんなドM変態とは思いませんでした。変態先輩」
彼女の毒舌攻撃が俺の心を確実にえぐっていった。それでも諦めの悪い俺は、やっぱりドMなのかもしれない。