想いは深く
図書館を出た俺達は、特別授業を行う部屋に移動することにした。
葛城は黙って俺の後についてくるが、時折立ち止まって大学内を見渡す。まるで誰かを探すように。誰かなんて一人しかいない。
「葛城さんは、さっき田辺さんのファンだって言いましたけど、それだけなんですか?」
「それだけというのは?」
「作家としてだけでなく、一人の女性として意識したりしないんですか」
葛城はうつむいて、言葉を失っていた。その苦しげな表情には迷いがあった。
「5年前、初めて彼女と会った時本当に驚いた。あの『源氏』が10代の少女だと思わなかったから。しかし話をして、私の尊敬していた『源氏』だとすぐわかった。そして彼女のおかげで『初花』というすばらしい作品を作り上げる事が出来た」
「俺は『初花』を読んで、大姫が田辺さんに似ていると思いました。たった1回あっただけでそう思うほど、田辺さんの事がわかったんですか?」
「彼女の名前も年齢も何もかも知らなかった。ただ『北斗』の『源氏』の投稿と1度会った彼女のイメージだけ。それで似ていると思ってもらえたなら嬉しいですね」
一流作家の観察力の凄さか、それともそれだけ紫への想いが強かったのか。葛城という男がライバルとして恐ろしい男だと今日初めて思った。
紫を想う気持ちだけは誰にも負けない自信があったのに、葛城もまた俺に負けないぐらいの想いがあるのではないか?
「『初花』ができ、また『源氏』に会いたいと思った。あの時また彼女に会って会い続けていたら、彼女にすがってしまい、作家としてだめになっていたかもしれない。しかしその後会う事はできなくなった」
葛城にとって紫は作品を作るインスピレーションを与える女神のような存在なのだろうか? 女神だから作家として大切な存在? それとも紫が好きだからその気持ちでよい作品が作れるのだろうか?
「それから5年、私の作品をどこかで見ていてくれる。それだけでいいと思ってました。会わなかったから、名前も何もわからなかったから、尊敬する批評家『源氏』と作家の関係でいられた。おかげでこの5年、自分の力で作品を作り続ける自信ができた。諦めていたのに……また彼女と再会してしまった」
想う女性と再会できたのに、葛城はちっとも嬉しそうでなく、むしろ苦しそうだ。
「会いたくなかったのですか? 田辺さんに」
「会いたくなかったわけではない。ただ会ってしまったら、彼女がどんな人間か知ってしまったら、自分の気持ちに歯止めが効かなくなる。だから知りたくなかった」
葛城は紫の事を何も知らなかったのだ。何も知らずに5年も想い続ける事などできるのだろうか? それとも何も知らないからこそ、彼女を美しい思い出のまま美化できた。紫の腹黒さ、弱さ、人を信用できない所、何もこの男は知らない。
「あなたは何も知らない。田辺さんの事を知らないあなたの気持なんて……」
「知りません。だから知りたくて今日ここにきた。でも思ってた通りの人だったようだ。君の様な素晴らしい友達がいるなら、彼女もまた素晴らしい人なのだ」
「素晴らしい? どこが?」
「私を恋敵だと思いながら、それでも私の心配をしてくれる所が」
抜けているかと思えば、鋭い指摘が返ってきた。葛城は恋敵を見てるとは思えない程晴れやかな笑顔を浮かべた。
「私みたいなオジサンより、ずっと彼女にお似合いだ。あなた達が幸せになる事を祈ります」
こんな潔く身を引いてしまうなんて……。負けたと思った。見返りを求めずに、相手の幸せを祈り続けて、遠くに身をひく。この純粋で優しい男だから、紫にとって特別だったのかもしれない。
「葛城さん。そんなに簡単に諦めるんですか? 田辺さんはちゃんと覚えてましたよ、あなたの事」
葛城が目に見えて動揺した。そう、そんな簡単に諦められるなら、5年ぶりに会ったぐらいで心が揺れたりしない。
「俺と田辺さんで『過去からの手紙』の試写会に行ったんです。壇上にあがる葛城さんを見る田辺さんは、今まで見た事ないくらいに真剣だった。年齢とか関係ない。俺は葛城さんと対等に戦いたい。俺も田辺さんが好きだから」
なぜ諦めた恋敵を引きとめてしまったのだろう。紫にバカだバカだと言われ続けて、本当にバカになってしまったのかもしれない。
重い、重い沈黙。葛城が目に映った迷いを振り切り、ゆっくりと言った。
「君にはかなう気がしない。でも、最後に選ぶのは彼女。正々堂々勝負しましょう」
葛城の中で眠っていた想いに火をつけてしまったのかもしれない。それでも俺は後悔しない。選ぶのは紫。ライバルがいるかどうかなんて関係ない。
「わかりました。行きましょう。授業が始まってしまう」
俺と葛城は特別授業を行う教室に急ぎ足で向かった。
葛城が講義中、俺も混じって見ようかと思ったがやめた。あまりの人の多さにうんざりしたのと、ライバルのかっこいい所を見て、戦意喪失したくなかった。授業が終わるまで時間をつぶそうと構内をぶらぶら歩いていたら、見慣れない人と遭遇した。
地味で目立たないやせぎすな中年の女性。目立たない容姿なのに、若い大学生の多い構内では、逆に目立った。それに誰かに似てる気がして印象に残ったのだ。
「すみません。文学部の研究室のある建物はどちらですか?」
「あそこです」
俺が遠くに見える建物を指し示すと、女性は丁寧にお辞儀をして笑った。初対面の相手に失礼だが、嘘くさい作り物の様な笑顔だった。
「ありがとうございます」
てっきり職員か何かかと思ったが、道を聞かれるとは。他校からの外来かな?
不思議には思ったが、たいしたことではなかったので、すぐに疑問は消えてしまった。
葛城が授業を終えた後、文学部の教授達に挨拶がしたいとの事だったので、教授室まで案内した。古谷教授の部屋の扉をノックしようとしたその時、中から大きな声が聞こえてきた。
「これ以上お話しする事はありません。すぐにお帰りください」
古谷教授の声だった。しかし今までこの様に声を荒げた事などなかった。聞こえてきた声が空耳ではないか? と疑ってしまう。
俺が戸惑っていると、扉が中から開いた。出てきたのは先ほど道案内した女性。俺達に会釈をして無言で立ち去った。
俺が中に入ると、古谷教授は険しい顔を慌てて取り繕って、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。それでも一瞬見た険しい表情が、先ほどの声が空耳ではなかった事を証明した。
「何があったんですか? 先生?」
「柾木君には関係ない事ですよ。葛城先生、失礼しました。本日はお越しいただきありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
二人の挨拶が始まってしまったので、それ以上追及する事は出来なかった。さっきの女性は何だったんだ? 俺の疑問は解決する事はなかった。