第1話
とある深い夏の日のことである。村に一人、お馬に乗った旅人がやってた。旅人は、その村に食べ物と宿を求めるために立ち寄ったのである。
穏やかな村。この村独特な家。どこか不思議な抑揚のある言葉づかい。旅人は馬の手綱を引きながら村を眺めてまわった。
一つの森の入り口で旅人は足を止めた。美しく恵み豊かな森である。確かなる生き物の気配もする。しかし、その森には人の気配がまったくなかった。このような小さな村にとって、森は大きな財産である。果物は採れるし、動物を捕ることもこともできる。祭りには華やかな花が重要な役割をするし、先祖供養にも花を飾るものだ。木を伐れば家を建てられるし、薪にもなる。火を起こすには通年通して薪が必要だ。だが、その森にはまったく人が立ち入った。気配がなかった。
旅人は近くを歩いていた前掛けをした壮年の女に声をかけた。
「この村の方々は森に立ち入らないのですか」
女は男の言葉づかいと服装、雰囲気を珍しそうに眺めてから、ニコリと笑って近寄ってきた。
「だめだ、だめだ。旅人さん。この森に入ってはいけねえよ。この森にはな、たいそう寂しく暮らす魔女様がいるんだよ。たいそうさみしく暮らしていらっしゃる魔女様はこの森全部を使って人間を誘惑してんさ。この森に入ってしまったらお終いだ。魔女様に魂を喰われてしまう」
そして女は少し声を潜めてそっと男に促した。
「耳をすませてごらん。聞こえるだろ。魔女様の嘆きの歌声が」
森のざわめき、鳥の叫び声、親父の怒鳴り声、子供の歌声、隣に立つ女のかすかな呼吸音。
そして
旅人は静かに顔を上げた。女は笑って、しかし厳粛な顔をしてうなずいて見せた。
聞こえてきたのは一人の娘の歌い声だった。風をも越してゆくようなソプラノボイス。心を震わす風の振動。そして人間に与える悲しみの主張。どうして慰めに行かずといられようか。
「奥さん、わたしは森へと入ってきっと魔女に会ってみせましょう。」
旅人は膝をついて座り靴ひもをきつく結びなおしながら言った。その眼はどこを見ているのかわからない覚悟しきった表情を見せていた。
女はあわてて言った。
「馬鹿なことをいいなさんな、旅人さんや。わたしの話をきいただろう。やめ、やめ。旅人さんのような立派な方だったらあっというまに魔女様に魂を喰われちまうよ。」
しかし、旅人はもう馬へ飛び乗っていた。つややかな馬は旅人に答えるように鼻をならした。姿勢を正した旅人は女を見下ろした。
「それでは、決して追ってこぬよう。」
馬の腹を蹴り蹄で小石を蹴り飛ばしながら旅人は森へと駆け込んでいった。
女はあわててまわりを見回したが腕ぷしの強い男衆の姿はなかった。一瞬追いかけようかと考えたがしかし、幼いころから言い聞かされた言いつけが女の足を止めた。
女は母であるが、旅人の母ではない。誰もが口々に諳んじてみせる子を追って森に飛び込んだ母にはなれなそうだ。
静かに旅人が入っていった森を見つめた後、一つ溜息を落として歩き出した。
せめて、無事を願う祈祷師くらい頼んでやろうか。いやしかし、自分の身銭を削るのは困る。旦那に話したら、気のいい奴だ。貧乏な身分に合わないほどの呪いを祈祷師に頼むだろう。
そうだ。村長に話してみよう。あの方は外聞をたいそう気になさる。村に来たと噂になっていた旅人が魔女の誘惑に陥ったなどと聞いたら祈祷師を頼まないはずがない。民を救う村長だ。民より有名な旅人を救おうとがんばるだろう。己の権威のために。
さぁ、村長のもとに。
明日には村中に噂がまわっているだろう。口のうるさい女たちの中心はこの女のものだ。しかたがない。今日仕事を終わらせてしまおう。