婚約破棄された令嬢は、泣いて悲しんだ
「申し訳ないが、君との婚約を破棄したい」
そう告げられた時、私はまさしく目の前が真っ暗になった。ずっとずっと夢見ていた男爵さまとの結婚──婚約をしてからというもの、結婚式の日を指折り数えていたというのに。
婚約破棄の理由は単純で、他に好きな人ができたらしい。紹介されたその人は、私よりも若くて美人だけれど、頭の空っぽそうな人だった。
私のほうが、絶対に男爵さまに相応しいのに。男爵さまの妻になるために、どれだけの努力をしてきただろう。資産の管理に社交界の付き合い、礼儀作法どころか家事だって叩き込んできた。
でももうそれも、意味のないこと──……。
結婚式に着る予定だったドレスと、立派なダイヤの婚約指輪、それからいくばくかの慰謝料をもらって、私は男爵家を追い出された。
ドレスは誂えもので私にぴったりのサイズだったけれど、上質な生地だったので割と高く売ることができた。
ダイヤの指輪は美しいけれど男爵夫人の刻印入りで、見ていても虚しくなるだけ。これも早々に手放した。
売ったお金と慰謝料でまとまったお金を手にした私は、実家には戻らず一からやり直そうと思った。あてもなく、街から街へとさまよい歩く。男爵さまと並ぶくらいに、素晴らしい人とまた出会えることを祈って──……。
でも、いったいどうしたらいいだろう? 私ごときが男爵さまと婚約できたこと自体、奇跡に近いことだったのだ。きっともうそんな奇跡は起こらない。私は一生このままなんだろうか? そう思うと、瞳から涙が溢れて止まらなくなる。
どうにか気分を上げようと、目についた酒場に入ってグラスを傾けてみるけれど、お酒くらいで私の悲しみは癒えない。それどころか、ますます現実が辛くなる。
「……どうかされましたか?」
泣きじゃくる私を見かねた酒場の店主が、心配して声をかけてくれた。
「私……婚約破棄されたんです」
お酒に酔った私は、初対面の店主にぺらぺらと愚痴をこぼしてしまった。
「結婚できたら幸せだなって、ずっと思ってた人だったんです。一方的に思いを寄せていただけだったけれど、運良く見初められて……でも、もう終わりです。悲しくて涙が止まらなくって……ごめんなさい、こんなとこで泣くなんて」
気丈に振る舞おうと頑張ったけれど、人に話すとますます惨めで涙が出てくる。
けれどそんな私に、酒場の店主は優しかった。
「そんな時は泣いたって構わない、ここはそういう場所なんだから」
いつの間にか他の席の客人たちも集まっていて、みんなして口々に私を慰めてくれる。
「そうだ嬢ちゃん、あんたはまだ若いんだから」
「良い酒を奢ろう」
「そうだそうだ、どんどん飲みな」
「私がもっと良い男を紹介してあげようか?」
傷口に、人の優しさとお酒が染み渡る。
「この街は気のいいやつらばっかりだよ。気候も良いし飯もうまい。しばらく滞在していったらどうだ?」
誰かがそう言うと、周りの人も口々に賛同した。私もここが気に入ったと言うと、店主はちょうど人手が欲しかったのだと言ってくれた。
「ウェイトレスを募集中だったんだ。部屋も空いているし、気の済むまでここにいたらいいさ」
捨てる神あれば拾う神あり、といったところだろうか。私はもう男爵さまの妻にはなれない。それならこの気のいい人たちの側で、私なりに暮らしていくのもいいかもしれない。
そして私は、この酒場のウェイトレスとして働くことになった。
男爵さまと結婚を夢見て学んできたことは無駄にはならず、仕事をしていく上でとても役立った。所作が丁寧で覚えが良い、話し上手の聞き上手だと、店主もお客さんもみんな褒めてくれる。
婚約破棄を思い出すと辛くなるので、私は自分のことをあまり話さなかった。それでも噂は広がっていくもので、私は婚約破棄された可哀想な娘、それでも気丈に働くできた娘だとみんな可愛がってくれた。
お給金も弾んでくれるし、チップももらえる。夢見ていたものではいけれど、ここでの暮らしも悪くない──そう思い始めた頃だった。
「君は、新しい恋人は作らないのかい?」
そう尋ねてきたのは、初めてこの酒場に来た時に、お高いお酒をご馳走してくれた紳士だった。
「私、もう恋ができる気がしないんです」
「それは、元婚約者が忘れられないから?」
「……そう、かもしれません」
男爵さまが例の新しい人と結婚したことは、風の噂で聞いている。それでも私は心のどこかで、期待しているのかもしれない。やっぱり僕に相応しいのは君だけだったと、男爵さまが迎えにきてくれることを。
「このご時世君のように一途で、そして一生懸命な人はなかなかいない」
「そうでしょうか? ありがとうございます、嬉しいです」
私はいつものように、お客さんの言葉を受け流した。けれどその紳士は、真面目な顔で私の傷口をえぐってきた。
「君は、男爵の婚約者だったんだろう?」
「──……どうして、それを」
私から、男爵さまの名を出したことはなかった。思い出すと辛く惨めになるからだ。
「男爵家の妻になるにあたって、たくさん努力をしていたんだろう。君の振る舞いを見ていたらわかる。この酒場の客はみんな、君の働きぶりや人当たりの良さを誉めているよ。なぜ君との婚約を破棄したのか、男爵の考えはわかりかねるね」
紳士が続けた言葉を聞くと、私の頬にはいつのまにか涙が流れていた。紳士は慌てて取り繕う。
「いや済まない、泣かせるつもりは──……」
私は涙を拭って、そして微笑んだ。
「ごめんなさい、違うんです。なんだか嬉しくて……私が頑張ってきたことは、無駄ではなかったんだなって。今になってようやく、過去のことを吹っ切れた気がします」
男爵さまと、ずっとずっと結婚したかった。夢は夢で終わってしまったけれど、でも今こうしてそこそこの暮らしをしながら、私を認めてくれる人たちに囲まれている。
私たちのやりとりを聞いていたのか、店主が私と紳士にお酒を注いだ。紳士はその上等なお酒を一気に煽ると、珍しく頬を赤くして私に言った。
「君の新しい恋人に、立候補してもいいだろうか」
予想外の申し出に、私はとても驚いた。けれど驚いていたのは私だけのようで、店主も他のお客さんたちも、みんなにやにやしながら私たちを見ていた。
「もちろん、君の中にはまだ以前の婚約者がいるのはわかっている。すぐに答えをもらおうとは思っていないよ。君の気が向くまで、気長に待つさ」
紳士はどこまでも紳士にそう言ってくれる。
今まで男爵さまのことしか考えていなかったものだから、他の男性なんて顔すらあまりよく見ていなかった。紳士の年は、私と同じくらいだろうか。落ち着いていて上品で、そして優しい瞳をしている。
「少し、考えさせてくださいますか?」
私もお酒を傾けて、どうにか紳士にそう伝えた。紳士が店を出た後には、店主や他の常連客の方々から、紳士がどれだけ良い人なのかを口々に伝えられて困ってしまった。あの人が良い人であることは、私もよくよく知っている。
私は今も、男爵さまの妻になりたいのだろうか──? そしてその答えは、それから数日後にわかることになる。
なんとどこかで期待していた通りに、男爵さまが私の前に現れたのだ。
「久しぶりだな」
男爵さまはそう言いながら、付き人とともに酒場にずかずか入ってくる。
「お久しぶり、ですね──……ご注文は?」
思っていたよりも冷静に、私は男爵さまにそう尋ねた。度が強いだけのお酒を頼みながら、男爵さまは私に言う。
「……先日、妻とは離縁したんだ。金遣いが荒いばかりで、家のことを何にもしないものだから……私は選択を間違えた。君ならきっとうまくやってくれていただろうに──……もう一度やり直そう。ドレスも指輪も、新しいものを君に贈るよ。こんなところで働く必要はもうないんだ。戻ってきてくれるな?」
男爵さまの言葉が、右から左へ抜けていく。そもそも、男爵さまはこんなお顔だったっけ? 顔の皺と脂が目立ち、お腹も出ている。
男爵さまの申し出は、私が願ってやまないものだった。その申し出を受けたなら、私は夢にまでみた男爵夫人──労働をしなくていいし、大きな宝石をたくさん手に入れて、美味しいものをたくさん食べられる。
そのためには好きでもない年上の男爵さまの相手をしなければならないけれど、それくらい構わない──そう思っていたはず、なのに。
お金に見えていた男爵さまのお顔が、鮮明に目に入る。お金のためだと思えばどうということはなかったけれど、なぜか今は生理的に不快でたまらない。今の私は自分でお金を稼いでいるし、男爵夫人というものにそれほどの価値を感じないのだ。私はどうして、あんなにもこの人と結婚したかったのだろう。
年嵩で評判の悪い男爵さまは、私のようなお金目当ての女しか寄ってこない。素直に私と結婚していたなら、それなりの幸せを差し上げることができたのに。でももう、遅いのだ。私の夢も欲しいものも、もう変わってしまった。
「申し訳ありません、男爵さま。そのお申し出は受けかねます。私、今の生活が気に入っているんです」
私の答えを聞くと、男爵さまは顔を真っ赤にして私を罵倒してきた。以前は男爵さまを立てて逆らうことなどしなかったから、予想外に拒否されて驚いたのだろう。女心は移りゆくものだと、知らないわけではないはずなのに。
店主や店のお客さんたちは、男爵さまの身なりや付き人から、それなりの身分の人だと察したようだ。私を心配そうに見ながらも、やりとりに口を出しかねている。
ひとしきり罵倒が済むと、男爵さまは手近にあった椅子を蹴飛ばして、また来ると言いながら店を出て行こうとした。
蹴飛ばした椅子は、ちょうど店へ入ってきた紳士の元へと転がっていく。
椅子が紳士に当たりかけたのを見て、さすがにまずいと思ったのか、男爵さまは気まずい顔をして紳士に一礼をした。男爵さまが頭を下げるだなんて珍しいけれど、私への罵詈雑言を吐き出して頭が少し冷えたのかもしれない。
男爵さまが出ていくと、私はみんなに頭を下げた。
「お騒がせしてごめんなさい、ご迷惑をおかけしました。でも私がここにいると、多分また同じようなことが起こるので……今日を限りで、お店を辞めさせていただこうかと思います」
優しい街の人々は口々に止めてくれるけれど、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「ちょっと待ってくれ! まだ、君からの返事を聞いていない」
紳士がそう言って、私を引き留める。そうだ、待っていてくれていたのだから、返事だけはきちんとしないといけない。
みんなの前で言うのは少し恥ずかしかったけれど仕方ない。
「──……正直なところ、私はあなたに惹かれています。でもだからこそ、あなたに迷惑をかけたくなっ──……」
私が最後まで言う前に、私の身体はふわりと宙に浮かんでいた。紳士が私の身体を抱き上げたのだ。
店内には口笛と歓声、私たちを祝う声がする。
「互いが惹かれあっているのに、別れる理由なんてないじゃないか!」
「でも、また男爵さまがいらっしゃったら、みなさんに迷惑が……」
「ここは別に領地でもないし、たいした権力はふるえないさ」
「そん時はそん時だ。もしもの時は、二人で逃避行したらいい! みんな協力してやるとも」
お酒の勢いなのか、みんなして好き勝手に言っている。迷惑をかけたくはないけれど、そう言ってくれるみんなの優しさが嬉しくて泣けてきてしまう。
紳士は私を下ろすと手をとって、優しく耳元でつぶやいた。
「大丈夫、何も心配することはない」
その声は落ち着いて、やっぱりどこまでも紳士的だ。私はこの人の人となりに惹かれているのだと──改めてそう思った。
それから酒場は飲めや歌えやの大騒ぎで、私は男爵さまのことなど忘れてとても楽しい時間を過ごした。
紳士が実はさる高貴な位の方だったと私が知るのは、もう少し先のお話。彼の妻になってからも、私が男爵さまと結婚するために身につけたことはよく役立った。そのことについてだけは、今も男爵さまに感謝している。




