その3 星の王子さま
『髪が細いから、編み込むのが楽だねえ』
優しい指、優しい声。
『でもすぐ引っ張られるもん』
『アイ、お下げは男の子から見たら、呼び鈴みたいなものさあ』
『いやだあ』
細くてまっすぐな脚。細い指。肩の下に自分のお下げの先が二つ揺れる。
顔を上げれば、縁側の向こうに明るいサトウキビ畑。
遠くに飛行機の音が聞こえる。
『なにもかも、はやくおわるといいのにねえ』
アンマー(沖縄方言で母)の声。
ああ、知ってる。これは夢。わたしはここにいない、本当のわたしは……
暗闇の中にいる、
沢山の血と膿とともに。
イチャイブサ、アンマー。イチャイブサー……
「ああ、あああ!」
切り裂くような絶叫で、わたしは目をあけた。
「泥棒よ、泥棒が上がって来るわ!」
堺さんだ。カーテンをすかして、ベッドに起き上がっているシルエットが見える。
「ゆりこちゃん、ゆりこちゃん、どこ?」
また、今夜も……
ナースコールを手にして眺め、そして離し、わたしは点滴台を持つと立ち上がって隣のベッドに向かった。心なしか、熱が下がった気がする。
カーテンをそっと開けると、堺さんは仰天した様子でわたしを見た。
「あなた!どなた?なんで私のお部屋に入って来るの?」
本当に夜中になると何もわからなくなるらしい。
「ここは、びょういんですよ。おうちじゃありません」
痛みに耐えながらゆっくりとしゃべる。
「あなたはお医者なの?」
「わたしも入院してるんです。かいどうと、いいます。堺さん、ほっぺにできものがあるでしょう。あなたはそれを取るために、この病院に入院したんですよ」
堺さんは驚いたように目を見張った。
「まあ。当の私が知らないことを、他人のあなたがよく知っていらっしゃる!」
まるでできの悪いギャグだ。けれど堺さんはひどく安心した様子だった。
「教えてくださってうれしいわ。自分がどこにいるか全然わからないんだもの。わたしの両親はどこかしら?」
「さあ、それはちょっと……」
「かわいいこと、よくお似合いね。わたしの若いころもそんな髪形だったわ」
「お似合い?」
「お下げよ」
堺さんは両手の人差し指で自分の両耳から下にすっと線を引いた。
わたしは仰天した。
さっきの夢……
これも夢?
「看護婦さんはどこかしら、わたしのお世話はして下さらないのかしら?」
堺さんはきょろきょろあたりを見まわした。
「ナースコールを押せば……」
「なんですって?」
「これです」
わたしは堺さんのベッドサイドにあるナースコールを手に取り、中央のオレンジのボタンを押した。 左手で、肩のあたりにお下げの先がないか確かめながら。
「わたしはねえ、大事に、大事に育てられた方なのよ。家も大きかったし、私付きの女中も居てね、お姫様みたいにあつかわれていたものよ。こんなところに一人で放っておかれる筈がないのよ」
「どうしました?」
すぐに夜勤の看護婦が入口をあけた。堺さんは構わずにしゃべり続けている。
「あの、眠れないようで、叫んでいらしたんです。それで話しかけたら……」
「私の両親に連絡を取って頂戴!」
いきなり堺さんは看護婦さんに食ってかかった。
「こんな病院に閉じ込められるわけがないのよ、私には主治医がいるはずよ。代々皇室にお勤めになっていた家系の……」
「こんな病院でも地域では一番大きいんですよ。堺さん、眠れないならお薬お出ししましょうか」
「いますぐゆりこちゃんを呼んで」
「堺さん、夜中ですよ」
看護婦がわたしに目で合図した。わたしは目礼して自分のベッドに戻って天井を眺めた。
点滴が効いて境さんが眠りにつくまで、延々とご実家の自慢話を聞かされながら。
「海藤あすかさん、これから午前の目の検査があります。お連れしますのでこれでどうぞ」
朝食の後、杏嬢が折りたたみの車椅子を持ってやって来た。
かなり下がったとはいえ、体温はやはり38度半ばはあった。
「ここのB1は迷路みたいでしょ。初めての方は、たいてい迷子になるんですよ」
レントゲン室、採血室、超音波検査室、愛想のないドアが黙って並ぶ、何か宇宙船の内部のような冷たい廊下がくねくねと枝分かれしながら続いていた。
「遺体安置室とかもこの階ですか?」
冗談めかして聞いてみる。
「あれはこのもう一階下ですよ。昼間でも近寄りたくはないですね」
「こういうところに勤めてると、そっちの方の噂も多いんじゃないですか?オカルト的な……」
「それはもう、入った当時はいろいろ聞かされて嫌だったですよ~。でもたいてい、患者さんのうめき声とか気のせいとかを大袈裟に脚色した作り話が多いんですけどね」
ひと呼吸おいて、わたしは聞いてみた。
「そういうのって、本当はどうだと思います?悪いものが肩に乗ってて、あるいはどこかから連れてきちゃって、それが悪さをするとか。そういうのって本当にないですかね」
「う~ん、そうですねえ」
しばらく考えてから杏嬢は言った。
「これはもしかして、というのは、ないではないですよ。いきなり急死する前夜に、あるご老人が急ににこにこし始めて、家内が久し振りに来てくれたっていうんです。奥さんなくしてずっとお一人なのに。いつですかって聞いたら、今だって。ベッド脇の椅子指差して、そらそこにいるでしょうって」
「なにか見えました?」
「全然。部屋も明るいし、椅子はあるけど誰もいないし。きっとさびしいんだなと思ってたんだけど、本当にうれしそうで。ずっといてくれるかって椅子に尋ねて、そうかそうかって頷いたり、とにかく幸せそうなんです」
「怖くなかったですか?」
「その時は怖くなかったですよ。いつ見てもむっつり顔のおじいさんで、あんなにうれしそうな笑顔見たの初めてでしたから。翌朝、急死なさったって聞いて、ああ、ずっと待っていた奥様が来てくれてたんだなって、そう思いました。でもむしろ、よかったなって思えちゃって。そういうことが本当にあると考えた方が、なんか気持ちが明るくなるっていうか、そんな感じだったから」
「そうですね……」
「本当に穏やかな、いい死に顔だったんですよ。見ていると涙が出るくらい」
何か言おうとしても、その後の言葉は、続かなかった。
暗室での目の検査を終えると、光の残像で暫くあたりがよく見えない。
部屋に戻って、フラッシュの光が中央で爆発したような視界を睨んでいると、昨夜の夢が耳に蘇って来た。
なにもかも、はやくおわるといいのにねえ……
「きょうはウナギ持って来たわ」
入口あたりから声がする。どうやら堺さんの待望のお嬢さんの登場のようだ。
「あら、それはご親切に」
「何言ってるの、他人行儀に」
「ここは怖いのよ、夜中に泥棒が上って来るの」
「泥棒?」
「昨日も来たのよ、看護婦さん呼んで、もう大変だったわ」
光が薄れてきた視界の端で、ゆりこさんがこちらを向いてなんとも言えない顔をしている。
わたしは黙って首を横に振った。
「お母さん、寝ぼけたのね。さあ、鰻ちょっと食べてみない?」
「あなたお友達はいらっしゃるの?」
「え?」
「毎日こんな所へ来て、お仕事はないの?ご両親は何も言わないの?」
「……お母さん!」
「どなたか存じませんけれど、親切にしてくださって、嬉しいわ」
しばらくの沈黙の後、
「ちょっとトイレに行ってくるわ」
ゆりこさんは下を向いたまま、部屋を出て行った。
堺さんは手元のミカンをお手玉にして小さな声で歌を歌っている。巨大なこぶは、まるで堺さんの正気を吸い込む異物のように、重たく頬からぶら下がっていた。
やがて堺さんの主治医と看護婦さんが、ゆりこさんと一緒に入って来た後、カーテンを閉めて低い声で会話を交わし、ぐずる堺さんを車いすでどこかに検査につれて行った。
入れ替わりに淳也が入って来た。
「なにかあったのかな」振り返りながら言う。
「なにかって?」
「今の、堺さんのところの娘さんでしょ、泣いてたみたいだったけど」
「気のせいじゃない?」わたしはとぼけた。
淳也は、ウサギのイラストの付いた小さな便箋を広げた。
「今日は手紙持ってきた」
「手紙?」
沢山の折り目のついた便箋には、ただちいさないびつな丸がずらずらと並んでいる。
「何、これ」
「優花が書いたんだよ。お母さんへのお手紙だって」
わたしは思わず一つ一つの丸を凝視した。
「かいどく、ふかのう」
淳也は苦笑した。
「君が家に電話したことがあっただろ。優花が受話器を取ったよね。そのとき、この手紙を書いてたそうだよ。もう夢中で、ばあちゃんが話しかけても怒るくらい、一生懸命になってね」
(いまとおってもいそがしいの。だいじなごようじのさいちゅうなの)
あのとき、……これをかいてたんだ。
おなかの底から、胸をめがけてほのぼのとしたものが上って来た。
「なんてかいてあるのかな」
「ママはやくげんきになって、いたくてもがんばってはやくかえってきてねって、そうかいてあるそうだよ」
わたしはもういちど、小さな丸を眺めた。
それぞれ一生懸命閉じてある、ていねいな丸、かわいい丸、ちいさな丸。
「忙しいから早くバイバイしてって言われたのよ。張本人と話してるのに」
「確かに忙しかったんだろ。子どもってそういうものだよ」淳也は笑った。
わたしは手紙を折り目に沿って丁寧に畳んだ。
「……三階じゃ低すぎる、なんて、考えてたの」
「低すぎる?」
「飛び降りるには」
一瞬淳也は黙った。
「……何で飛び降りなきゃなんないの」
表情を曇らせた淳也の前で、わたしは窓の外に目をそらした。
「もしめんどくさい病気だったら、い…るだけで邪魔になっちゃうし、とか……」
「やっぱりこんなもの持って来なきゃよかったわけかな」
淳也は枕元の医学書に目を落とした。
「ちがう、今はそんな風に考えてないから。でも、こういう場所にいると思考がどうしてもマイナーな方に転がっちゃうの。それに……」
「それに?」
「……」
さっさと死んでくれ、と。
あるひとに繰り返し、頼まれたことがある……
突然言葉に詰まったわたしの顔を、淳也が覗き込む。
「大丈夫?」
わたしは彼の前で一度も、死ぬだの死にたいだのと口に出したことはなかった。
「大丈夫、ごめんね。病院ってへん、暗い方へ低い方へどんどん気持ちが引っ張…られる」
笑顔を作ろうと試みたが、口が歪むだけだった。
「手紙、持ってきてもらってよかった。あ…りがとう」
「三階は、低すぎないよね?」淳也は冗談めかして言った。
「うん、でもね、日の入りを見るには、ちょっと低すぎ」
「悲しい気分が好きな人が、一日何度も小さな惑星の上で椅子を後ろに引いて、日の入りを見続ける話があったよね」
「ほしの、おうじさま」
大好きな本だった。
「ぼくの星は小さすぎて、どこにあるのか指し示すことができない。
でも、そのほうがいいんだよ。
ぼくの星は、きみにとって、たくさんの星の一つになるだろう。
すると、きみはすべての星を眺めるのが好きになるだろう…」
淳也はわたしのお気に入りの一節を諳んじた。
「君と付き合ってる時、君が好きだと聞いて、一生懸命名この部分を暗記した」
わたしは口元をハンカチで押さえて笑った。まだ笑うと出血する。
「僕は、見失うまいと思っていたひとと、今は一緒の星に住んでる。
椅子を引いてもいいけど、この星から出ていっちゃだめだよ。あまり後ろに引くと、落っこちちゃうからね」
「……うん」
「夕食でーす」
がらがらと食事の膳が運ばれてきた。うんざり顔のわたしを見て、淳也は言った。
「いいタイミングだ。今日も最後まで見届けるからね。さ、戦闘開始!」